99、非常事態
次の日の朝。私たちはこの宿で最後の食事となる朝食を食べ、早い時間にリューカ車へ乗り込んだ。車の中は買ったものがたくさん詰められていて、行きよりもかなり窮屈だ。
「これ、乗れますか……?」
「いや、さすがに厳しいだろう。レーナが一人だけなら何とかいけるかもしれないが……魔物素材に囲まれて一日過ごすのは嫌だろう?」
「はい」
私はダスティンさんの問いかけに即答した。魔物素材は完全に乾いていないものもあって、なんとも言えない臭いを発しているのだ。
「ははっ、素直だな。レーナは御者席に座ると良い。二人ぐらいなら余裕なはずだ。私は後ろにある足場に立って乗ろう」
「え、立って乗るって危なくないんですか?」
「捕まるところもあるから問題はない」
ダスティンさんはそう言うと、リューカ車の後ろに向かおうとしたけど……それをクレールさんが止めた。
「ダスティンさん。帰りは御者をお任せてもよろしいでしょうか? 私が後ろに乗ります」
「……お前は本当に過保護だな」
クレールさんの主張にダスティンさんは呆れた表情を浮かべ、しかしここで揉めても時間の無駄だと思ったのか、クレールさんの提案に頷いた。
「では私が御者をしよう」
「よろしくお願いいたします」
三人でそれぞれの場所に収まると、ダスティンさんはさっそくリューカ車を動かす。
「あんなにたくさん荷物が乗っていて、リューカは大丈夫なのですか?」
思わず心配になって尋ねると、ダスティンさんはすぐに頷いてくれた。
「リューカは重いものを引くのは凄く得意なんだ。このサイズの車に荷物がたくさん詰まっているぐらい、全く問題はない。もっと大人数用の車も引けるのだからな」
「そうなのですね」
リューカって見た目よりもパワフルなんだね。馬に姿形は似てるんだけど、馬よりも確実に力持ちだ。ただその代わりスピードはそこまで上がらないけど。
「帰ったらまずは何から研究をしますか?」
「そうだな……ワイバーンの飛膜からと言いたいところだが、さすがに貴重だから後回しだ。スネーク系の魔物の皮が無難だろう」
「たくさん買いましたもんね」
「あとは魔物素材を使わずに、布と木材でも模型を作ってみる」
これからの研究について説明してくれているダスティンさんの声音がとても楽しそうで、思わず横を向くと――
――ダスティンさんの僅かな微笑みの先に、気になるものが映った。
何だろうあれ。草原を駆ける獣? その大きさから近くにいるようにも一瞬見えたけど、背景から考えるとまだ距離がある。
ということは……あいつが凄く大きいってことだよね?
「ダスティンさん」
とにかく知らせなきゃと思って発した言葉は、自分が思っている以上に震えていた。ヤバい私、かなり動揺して緊張してる。
「どうしたんだ?」
「あれ……な、何ですか?」
眉間に皺を寄せながら私が指差した方向にチラッと視線を向けたダスティンさんは、駆け寄る獣を視界に入れたその瞬間――リューカ車を強引に止めた。
「うわっ」
「レーナ! そこから絶対に動くな!」
ダスティンさんはそう叫ぶと、ひらりと身を翻して御者席から飛び降り、そうしている間に直近まで迫ってきていた巨大な何かに向けて、どこからか取り出したナイフを抜いた。
ナイフは巨大な獣の角に火花を散らせながらぶつかり、何とか突進を止めることに成功したらしい。
「なぜブラックボアがここにいるんだ……!」
聞こえてきたダスティンさんの声で、この黒い獣の正体が分かる。ブラックボア、買い付けの時にクレールさんが教えてくれた魔物だ。
確か土魔法と似たような攻撃をしてくるって……
私がそう考えた瞬間に、ブラックボアの額付近にいくつかの石礫が生成されるのが見えた。
それがだんだんと大きくなり、ダスティンさんが表情に焦りを滲ませ、ヤバい、助けなきゃと思いつつ私が全く動けないでいると――
「殿下っ!!」
クレールさんがダスティンさんとブラックボアの間に飛び込んできた。クレールさんはナイフを二本持っていて、上手く飛んできた石礫を弾いている。
「クレール、時間を稼げ! 私が魔法で倒す!」
「かしこまりました!」
ダスティンさんの声に頷いたクレールさんは、どこから出てくるのか細長い針みたいな武器をブラックボアに飛ばし、その針は的確に急所を突いていく。
さらにナイフも着実にブラックボアを傷付けていく。
クレールさん、めちゃくちゃ強い。それにさっき、殿下って言ったよね……何が何だか、もう分からない。頭が働かない。
『水を司る精霊よ、我らが命を奪おうとするブラックボアの眉間に向け、ファルバンフィルの種が飛ぶように、ルノスの実を囲う堅氷がごとく硬い氷針を飛ばし給え』
私が混乱して呆然と戦いを眺めていると、ダスティンさんが早口で長い呪文を唱え、詠唱が終わると同時に氷の小さな槍みたいなものが生成された。
それはブラックボア目掛けてかなりの速度で飛んでいき――
――ブラックボアの眉間に、寸分の違いなく突き刺さった。ブラックボアは断末魔の叫び声をあげながら、その場に倒れこむ。
「ダスティンさん、さすがです」
「はぁ、少し焦ったな。クレール、援護助かった」
「いえ、遅れてしまって申し訳ございません」
二人は勝利を喜び合うように穏やかに会話をしてるけど……ちょっと待って! まだ私は全く事態が飲み込めてないんだけど!?




