90、交渉と準備
商会の休憩室に入ると、ちょうどジャックさんがいたので声を掛けた。
「ジャックさん、おはよう。ギャスパー様っていらっしゃる?」
「おっ、レーナか。休みの日にどうしたんだ?」
「明日からの仕事について相談があって」
「そうか。確かギャスパー様は午前中は商会にいらっしゃるはずだぞ」
それなら訪ねても迷惑じゃないかな。ここでギャスパー様がいなかった時点で諦めないとだったから、かなりラッキーだ。
「ありがとう。ちょっと上に行ってくるね」
廊下に出て階段を上がって商会長室に向かい、来客中の札が出ていないことを確認してからドアをノックした。
「レーナです。少しお話があるのですが、よろしいでしょうか?」
「入って良いよ」
「ありがとうございます」
中に入るとギャスパー様は書類仕事中で、ペンを置いて私に視線を向けてくれた。こうやって作業を中断して話を聞いてくれるところも、本当に良い上司だよね。
「休みの日にどうしたんだい?」
「明日からの仕事に関してのお話なのですが……もし許可していただけるならば、一週間ほどお休みをいただきたいと思っております。本当に急でご迷惑な話だと思うのですが、ご検討いただけないでしょうか」
私のその言葉を聞いたギャスパー様は、端から否定するのではなく理由を尋ねてくれる。
「随分と急だね。何かあるのかい?」
「はい。ダスティンさんが本日から魔物素材の買い付けに向かうらしく、私もそれに同行したいと考えています」
「ほう、魔物素材の買い付けか。ということは、近くにゲートが出現したんだね」
「リューカ車で一日の距離だそうです」
「それは近いね……うん、分かった。休んでも良いよ。怪我などしないように気をつけて、貴重な経験を得てくると良い。レーナの仕事については皆に割り振っておくから、気にせず行っておいで」
「……え、良いのですか!?」
予想以上にすんなりと認められて、驚いて大きな声を上げてしまった。するとギャスパー様は笑みを浮かべて頷いてくれる。
「魔物素材の買い付けに同行できる機会なんて少ないからね、逃さない方が良い。ただその代わりに、帰ってきたらしっかりと働いてもらうよ?」
「……はい! ありがとうございます!」
ロペス商会、マジで良い職場すぎて感動する。ギャスパー様と出会えたことが、私のレーナとしての人生で最大の幸運かもしれない。
それから次の一週間で私がやるはずだった仕事についていくつか話を聞かれ、私はギャスパー様に気持ちよく送り出してもらえた。
結局は褒美の話も出さずに休みがもらえちゃったね……自分が言い出したんだけど、良いのかなって少し心配になる。
でもせっかくもらえた休みなんだから、心配なんてしてる暇はないか。ありがたく経験を積ませてもらおう。
休憩室に戻るとまだジャックさんがいて、ジャックさんに一週間休むことを伝えながら、他の商会員に対して仕事を任せてしまうことへのお詫びとお願いを紙に書き、私は商会を後にした。
そして家に戻って必要なものを鞄に詰め込んだら、お母さんとお父さんの屋台に向かう。
「あら、レーナじゃない。ダスティンさんのところに行くんじゃなかったの?」
お父さんはお客さんと話をしていて、手が空いていたお母さんが声を掛けてくれた。
「うん。ダスティンさんのところに行ってたんだけど、色々あってこれから街の外に行くことになって、お母さんとお父さんに伝えようと思って来たの」
「街の外って、スラム街に行くってこと?」
「ううん、もっと遠くに。リューカ車で一日ぐらいの距離だって。だから一週間は帰ってこないけど、皆だけでも大丈夫だよね?」
私が一週間は帰らないと発した瞬間、お客さんと話をしているお父さんの体がピクッと動いた。やっぱりお父さんには反対されるかな……それでも絶対に行くけど。この機会は逃せない。
「私たちは大丈夫だけど、レーナは大丈夫なの?」
「うん。仕事は休みをもらえたし、ダスティンさんと一緒に行くから危険なこともないと思う」
「そうなの。それなら良いわ。いってら……」
「ちょっと待て!」
お母さんが笑顔で送り出そうとしてくれたのを、怖い表情のお父さんが止めた。
「本当に危険はないのか!? それにダスティンと二人きりじゃないだろうな!」
「危険はそんなにないって言ってたよ。人数は……どうなんだろう。多分二人きりだと思うけど」
「そんなのダメだ! 絶対にダメだ!」
「アクセル、何言ってるのよ。レーナはもう立派に働いてて子供じゃないんだから、好きにさせてあげなさい」
私の肩を掴んで逃さないとでも言うようなお父さんの態度に、お母さんは呆れた表情だ。
「で、でも……レーナが危ない目に遭ったら」
「そんなこと言ってたらレーナは何もできなくなっちゃうわよ。一人で行くわけでもないんだし、ダスティンさんは良い人だったじゃない」
「そ、そうだけどな……」
お母さんの勢いにお父さんはタジタジだ。落ち込んだ様子でシュンと小さくなっている。
「お父さん、心配してくれてありがとう。でも大丈夫だよ。一週間後には無事に帰ってくるし、お土産も買えたら買ってくるね」
安心してもらえるように笑みを浮かべながら伝えると、お父さんは眉間に皺を寄せながらしばらく黙り込み、しかし数十秒後にはぎこちなく頷いてくれた。
「わかっ……た。絶対に、無事で帰ってくるんだぞ」
「もちろん! お兄ちゃんにも行ってくるねって伝えておいてくれる?」
「分かったわ。気をつけてね」
「うん! 行ってきます!」
私は晴れやかな笑顔で二人に手を振り、ダスティンさんの工房に向かって大きく足を踏み出した。




