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083:下剋上

 ――少し時はさかのぼる。


 リチェルカーレが皆を塔の下へと転移させた後、彼女は少しばかりの間、一人で残っていた。


「……これでいいんだろう?」


 倒れ伏すホイヘル以外、誰もいないはずの場所でそうつぶやくリチェルカーレ。


『あぁ。生きていさえすればそれでいい』


 彼女からすれば背後に当たる位置。つまりホイヘルの横に、いつの間にか人影が姿を現していた。

 全身を黒いタイツのようなもので覆いながらも体のラインが見えず、顔も道化師のような面で隠した上に声も加工された感じに響く、性別不明な謎の存在。


「ホイヘルの引き渡し、確かに済ませたよ」


 だが、リチェルカーレは相手がそういう存在だとわかっているのか特に疑問も挟まず、やりとりを続ける。


『感謝する。手を煩わせたな』

「なぁに、本来ならキミがあっさりと片付ける所を譲ってもらったんだ。こちらこそ礼を言うべきだと思っているよ。おかげでリューイチ達にも良い経験を積ませる事が出来たしね」

『そうか。ならば、時間も惜しいし、ホイヘルは頂いていくぞ』


 そう言うと、謎の存在はホイヘル共々突然その場からフッと姿を消した。

 リチェルカーレのように空間の穴を開いて潜るとかでもなく、文字通り忽然と消えたのだ。


「さぁてと、アタシも戻るかねぇ」


 しかし、その事すらも承知だったのかリチェルカーレは驚く事なく、マイペースに空間の穴を開いてその場から姿を消した。

 後は激しい戦闘跡が残る、誰も居ない空間が放置されるのみとなった……。




 ・・・・・・・・・・




『ぬ? ここは……』


 ホイヘルが目を覚ますと、不気味な赤に近い色の空と、生物のように蠢く黒い雲が視界に飛び込んできた。

 スッと一呼吸して感じる心地よさ。彼にとっては『美味い』と思える空気……。状況は良く分からないが一つだけ確信した。


『我は、魔界に戻ってきたのか……?』



 魔界――ホイヘルの生まれ故郷であり、ル・マリオンとは別の空間に存在する世界だ。極めて広大な世界と言われ、魔界に住まう誰しもが未だにその果てを知らぬとすら言われている。

 空は常に赤系の不気味な色で覆われており、昼夜の概念はない。地上もほとんどが荒野で、森や水場などの自然はごくわずかに点在するのみ。

 ル・マリオンにおいて生物にとって有害とされている瘴気こそがこの世界においての空気であり、魔界の生物にとっては無害なごく当たり前のものとなっている。



『そういう事だ、ホイヘル。束の間の王様気分は楽しめたかね?』


 仰向けに寝かされていた彼を覗き込むように、道化師面の存在が覗き込んでくる。

 ホイヘルはこの時点でようやく気が付いた。両断され、焼かれたハズの身体が元に戻っている事に……。


『一体、何が? それに、貴様は……がふっ!?』


 そうつぶやいた瞬間、彼は顔面に蹴りを入れられ、地面を転がされていた。

 人間ほどの大きさしかない道化師面が、十メートルはあろうかという巨躯を転がしたのだ。


『君はいつからそんなに偉くなった? たかが魔物の分際で、魔族に対してその口のききよう。どうやら、王様気分が君を腐らせてしまったようだ』

『魔族……! きさ――いえ、貴方様が、魔族!?』


 魔族という単語を耳にした途端、あれほど高圧的だったホイヘルの口調がガラリと変わる。

 無様に転げていた体勢もすぐに立て直し、片膝を付いて右拳を地面に置き、頭を垂れる姿勢をとった。


『レーゲンブルート。君にはこれだけでわかるだろう』


 道化師面がそうつぶやくと同時、目に見えて黒ずんだ紫色のようなオーラが湧き上がり、ホイヘルを震え上がらせる。

 彼も気を張っていなければ吹き飛ばされるほどの凄まじい衝撃波と、錯覚などではなく間違いなく震えている大地が道化師面の力の強大さを物語る。


『ま、まさかレーゲンブルート家が直々に人間界へ飛ばされた私めをお迎えに来てくださったのですか……!?』


 顔を上げて発言した途端、道化師面がその場から姿を消し一瞬で彼の眼前に現れたかと思うと、足を高く振り上げて顎を打ち上げた。

 上空へと弾き飛ばされるホイヘル。そして、それを追うように飛び上がり彼に追いつくと、道化師面は無情に告げる。


『人間界に飛ばされた? 誤魔化せるとでも思っているのか……? 貴様は魔族同士の争いの飛び火を恐れて真っ先に人間界へ逃げ出したクズだろう』

『ぐぅっ! そ、それは……』

『魔族に対して嘘を述べるなど、やはり人間界での増長が貴様を腐らせてしまったようだな』


 道化師面がその場でくるりと回転し、かかと落としの要領でホイヘルを地面へと叩き付ける。

 打ち上げられた時よりもさらに凄まじいスピードで地面に叩きつけられた彼の周りには大きなクレーターが生じていた。


『シュヴァッハの森のホイヘル。たかだが小さき森の大将気取りが調子に乗りおって』



 シュヴァッハの森とは、魔界においてホイヘルが支配下に置いていた森の名前である。

 弱肉強食の命の奪い合いが日常茶飯事の中でその頂点に立つという事は実力者の証でもあるが、それは所詮たった一つの森の中での話。

 その程度の実力者では、魔界においては雑魚も良い所である。と言うのも、魔界における支配者階級は魔族であるからだ。


 実はホイヘルは魔族などではなく『魔物』と呼ばれる存在であり、魔界においては最も数が多く文明の乏しい『外』で生きる劣等階級の身である。

 本当の魔族とは魔界において支配者の階級にあり、人間界と同じように文明を築き、国を形成して暮らしている知恵ある存在だ。

 一番の特徴は、人間とほぼ変わらぬ姿をしている事にあり、その身に魔族とは比べ物にならない凄まじい力を宿している事が挙げられる。

 魔族同士がその力を遺憾なく発揮しての争いともなれば、辺り一面が戦争の様相を呈し、弱き者などその場にいるだけで一瞬で塵と化すような地獄が広がる。

 故に、魔族よりも遥かに力の弱い魔物達はその場から逃げるしかないのだが、中でも一際臆病な者達は別の世界に逃げてしまう事もある。


 魔界においてはちょくちょく空間の穴が開く現象が発生しており、運良くそれを見つけた魔物達がそこへ飛び込みル・マリオンへと到達するのだ。

 ル・マリオンに存在する生物は総じて魔界の生物よりも弱いため、魔界で散々虐げられてきた魔物達がそれを知った時、憂さを晴らさんとばかりに矛先をそちらへ向ける。

 魔族を名乗りル・マリオンで横暴を働いている魔物達は、魔界の者達からすれば臆病者達の中でも極めつけの臆病者……端的に言えばクズ扱いされていた。

 この度、道化師面がホイヘルを回収したのは救出などではなく、魔界の――正確には、魔界の名家の一つレーゲンブルート家の品位を貶めるクズを裁くためだった。


 レーゲンブルート家は魔界において権力を持つ家の一つであり、フィンスターニスと呼ばれる国の約半分を領地として占める大貴族である。

 シュヴァッハの森はレーゲンブルート領にあるため、その領地から人間界に逃げたクズが現れたとあっては沽券にかかわる。

 さらに時期の悪い事に、レーゲンブルート家はもう半分の領地を占める大貴族コープセスベルク家と小競り合いの最中でもあった。

 そのため、付け入る隙を与えてはいけないと、ホイヘルの行方をつかんだ後に回収して処分し、汚点を消そうとしていた。



『貴様を裁く事は確定しているが、私が手を下すのも芸が無いな。ツヴァイトよ、ここに』

『はっ!』


 魔法陣によって召喚されたのは、ツヴァイトと呼ばれる魔物だった。その姿は端的に言えばパワーに全振りしたゴリラ。

 ただでさえ筋肉質でゴツいゴリラが限界まで筋肉を蓄え、身体中に戦いによる傷痕を付けたような……そんなイメージを抱かせる力強い姿。

 それでいてしっかりと直立で立ち、片足を引き右手を胸に添える貴族のようなお辞儀をしてみせるなど高い知性を感じさせた。


『今、目の前にかつての支配者だったホイヘルが居ます。現シュヴァッハの森の支配者である貴方にこの臆病者の始末を任せたいと思いますが、宜しいですか?』

『お任せください。人間界に逃げていた腰抜けの始末など、今の私には容易き事で御座います』


 ツヴァイトは無様に倒れるホイヘルの前までやってくると、かつての実力者を憐れむような眼で見つめる。


『ホイヘル……かつての貴方は他の追随を許さぬ圧倒的な支配者だった。自分も何度も何度も貴方に挑み、その力の前に屈してきた』


 そう言って、何やら薄緑色に輝く液体の入った瓶を放り投げる。ホイヘルの身体に触れるとビンが割れ、彼の身体を輝きで包む。


『貴族の方々に用意して頂いたポーションです。手負いの所を倒されても、貴方は納得がいきますまい』

『くっ、くくっ……。随分と偉くなったものだなツヴァイトよ。我に何度も叩き伏せられていた日々を忘れたのか?』


 ホイヘルが立ち上がると、その体躯はツヴァイトの倍以上。十メートルほどのホイヘルに対し、ツヴァイトの体躯は四メートルほどしかない。


『忘れてはおりませぬとも。故にこそ、我は今の今に至るまで逃げる事無く森でありとあらゆる敵と戦い続け己を磨いてきたのです』

『粗暴で野蛮だった貴様が随分と大人しくなったものだな。体躯まで縮んでおるではないか。かつては感じられた突き刺すような殺気も無いし、牙が抜けたのではあるまいな』

『そちらこそお忘れか。我ら魔物が語るはその力をもってのみ。本来、こうした言葉のやり取りすら不要であろう』

『ならば、貴様に思い出させてやろう! 支配者の圧倒的な力を!』


 ツヴァイトの頭上から巨大な拳が叩きつけられる。しかし、それに怯む事無く自身の拳の倍以上もあるそれに向けて、真っ向から拳を叩き付ける。

 拳同士の衝突が轟音と衝撃を生み放射状に爆風が吹き荒れるが、様子を見ている道化師面は全く意に介さない。


『貴方にこそ思い出させて差し上げましょう。死線を潜り抜けてきた者の、圧倒的なまでの力というものを!』


 ツヴァイトが気合を入れると拳の先から魔力がほとばしり、打ち付けたホイヘルの拳から腕にかけてを完膚なきまでに打ち砕いた。


『なにぃっ!? くそがあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!』


 右腕を失ったホイヘルが第三の目を肥大化させて口を大きく開き、巨大な体躯をさらに膨らませる。


『ダガ、コウナッタ我ノ前ニ敵ハ無イ!』

『……やはり、貴方は何もわかっていない』


 ツヴァイトがホイヘルの頭上にまで飛び上がったかと思うと、右手をホイヘルの頭に優しく添えた。


『魔族の方々がその存在を以って示しているように、人間の姿はいわば究極形にして到達点です。私が知性を宿し、体躯が縮小したのは、それに近づいたという事に他ならない』


 そして、己の全力を込めつつ重力に身をゆだねると、ベッシャァァァァッと鈍い音を立ててホイヘルが押し潰された。

 地面に降り立ったツヴァイトの前には、もはや原形を留めてすらいないグロテスクな血肉の塊が転がるのみ。

 さすがのホイヘルもここまで破壊されては復活出来ない。そもそも、絶命しているからそれ以前の問題ではあるのだが。


『貴方は人間界で栄養を蓄え身体を倍以上に膨れさせてきたようですが、魔物にとってそれは成長ではありません。ただ、肥えただけです……って、既に聞いていませんね』


 ツヴァイトが一分一秒を命懸けで戦い続けている間、ホイヘルはその一分一秒を呑気に過ごしていた。

 その積み重ねが両者の力量差を生み、かつては格上だったハズのホイヘルにすら圧勝する力をツヴァイトに与えたのだ。


『かつては貴方こそが死線を潜り抜けてきた者の圧倒的なまでの力を体現し、我らを寄せ付けぬ格の違う強さを見せてくれていたというのに、皮肉なものですね』


 一昔前の格上をあっさり倒した事で、過去に思いを馳せ物憂げにホイヘルだった肉塊を見つめるツヴァイト。


『……御覧の通りです。宜しかったでしょうか』


 道化師面に、任務達成を報告する。


『お見事です。かつての支配者を超え、魔族の知性も吸収し、貴方は真にシュヴァッハの森に相応しき支配者となりました。これ以上を望むのであれば、上に掛け合う事もやぶさかではありませんが』

『是非お願い致します。私は、彼奴などとは違い上を目指し続ける事を忘れません。力を付け、知性を磨き、功績を積み、やがては魔族への転身を……』

『良き心がけです。では、お戻りください』


 道化師面の言葉に「はっ!」と返事をすると共に、魔法陣の中へと消えていくツヴァイト。


『……さて、私も任務に戻りますかね。あちらに行くのは決して楽ではないのですが、やれやれです』


 道化師面もその場から姿を消し、果ての見えない荒野にポツンと放置された肉塊がただ一つ。

 数分もしないうちに何処からか出現した数多の異形達が群がったかと思うと、瞬く間に散らばっていった。


 そこには既に肉塊は無く、血だまりのみが広がっていた……。

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