447:『我が娘』『エレナ』
(エレナを排除……? エレナは私だ! お父様はこの『私』を排除しようというの……?)
孤児だった所を教皇に拾われ、偽者の聖女として徹底的な教育と心身の改造を施されてきた少女。
もはやあったはずの本来の名前すらも忘れ、ただ新たな『エレファルーナ・フォン・アザマンディアス』として生きる役割を与えられた。
故に今の彼女は紛れもなく『エレファルーナ』――愛称エレナである。この時点で出奔したエレナの存在は消されたハズだった。
(お父様はアイツをエレナと呼んだ。私の事は『我が娘』としか呼ばないのに……)
自身が新たなエレナとなったのだから、当然自分こそが『エレナ』と呼ばれる存在でなければならない。
にもかかわらず一度も名前で呼ばず『我が娘』とだけ呼ぶ。我が娘と言いつつ、その娘の名前では決して呼ぶ事が無かった。
教皇は未だに出奔した娘の事を本当のエレナだと認識しており、その存在を手元に戻す事を諦めていない――
(つまり、私の事をエレナだと思っていないという事……。それなら丁度良いわ、今が潮時のようね)
少女は決断してしまった。
「お父様の気持ちはよく分かりました。ですので、さようなら、お父様」
「がっ……!? な、何を……」
偽物の聖女が右手を教皇の胸に突き立てた。ただの貫手のように見えるが、いともたやすく教皇の身体を貫き、その手に心臓が握られていた。
手を引き抜くと同時に、その場に突っ伏してしまう教皇。聖女の手に握られた心臓は、未だにドクドクと鼓動を刻み続ける……。
余りにも想像を絶するその光景に、誰もが唖然とし、声を発する事が出来ない。間近で目撃していた上位聖職者達も、遠めに見ていた参加者達も。
「いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーっ!」
「「「「「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーっ!!!!!」」」」」
しかし、誰かが状況を理解して悲鳴をあげたのを機に、会場が阿鼻叫喚の地獄絵図と化す。
聖女が教皇に反旗を翻し殺害するというあり得ない光景に絶望が広がる。中でも特にミネルヴァ聖教の信者達にはその衝撃が大きい。
理由に察しが付かない。聖女はミネルヴァ聖教の象徴であり、教皇の下で人々を救う神の代行者であったハズなのだ。
人間なのだから野心もあれば欲望もある。しかし、信者にとって聖女とはそういう感情とは無縁の、それこそ神にも等しい存在だった。
故に『聖女に我欲が芽生えてミネルヴァ聖教の頂点の座を簒奪する』などという行動は想像する事すら出来なかった。
信者ではない観光客達はただただ目の前の惨劇に恐怖し、荒事に慣れている冒険者達は『時代の変わり目の目撃者になった』と、この場に居合わせた事を感謝すらした。
(……なんて顔をしてるのよ、本物。出奔してとっくに切り捨てたはずの父親に対しての情でも残してたの?)
驚愕しているエレナを尻目に、内心でほくそ笑む偽者の聖女。替え玉として『教皇の娘』をさせられていたが、教育の詰めが甘かったのか心身共に『完全な娘』にはなっていなかった。
それ故に、教皇が本物の娘であるエレナを名で呼んだ時、名を呼ばれたエレナに嫉妬して『本物を殺して私が正式な娘になってやる』という、教皇の寵愛を求めるような感情は発現しなかった。
それどころか『教皇を殺して私が頂点に立つ』という、寵愛を望むどころか見限って不必要となり始末するという非常に危険な方向に舵を切ってしまう。
(お父様。貴方は私を娘に代替にしようとするあまり、力を与え過ぎてしまった。今の私は、既に教皇ですら及ばない領域に居る……!)
地獄の日々を耐え抜いた後、地位と名誉――そして尽きる事の無い金を手に入れた彼女は、もはやその立ち位置では満足できない欲望の怪物と変わり果てていた。
今この時まで、最も身近にいたはずの教皇ですら気付かなかった。最悪の怪物は、敵の陣営などではなくすぐ側に潜んでいたというのに。
・・・・・
「おい、エレナ。どうなってる……」
「おそらくですが、彼女の中でせめぎ合っていた負の感情が勝ったのでしょう。彼女は今でこそ世界最高峰の権力者にまで上り詰めましたが、そこへ至るまでは『ただの娘』から『聖女』へ生まれ変わるための教育――いえ、想像を絶する地獄があったはず」
「なるほどな。権力者にまで引き上げてくれた事への感謝より、自分に地獄を味わわせた事への憎悪が勝ったって事か」
どういうきっかけかは知らないが、こちらとしては厄介そうな敵を一人減らしてくれてありがたいくらいだ。
ただ、敵ではあるがエレナにとっては父親でもあった。その心境を思うと、素直にこの状況を好機と見て良いものか
「ふふ、心配はご無用ですよ。私はとっくに親子の縁を切っています。実にあの人らしい、小物に相応しい無様な末路ですよ」
俺が思った事を察したのか教皇について言及する。しかし、それはいつも穏やかで温かいエレナらしからぬ、底冷えするような声だった。
まるで心の中に残っていたわずかな情を無理矢理にでも抑え込もうとしているかのような……。言及するのは野暮だろう。
・・・・・
「せ、聖女よ! い、一体どういうおつもりか!?」
側仕えだった大司教の一人が、ようやく教皇に対して反逆した聖女に詰め寄った。
「あら、私はミネルヴァ聖教に巣くう病巣を排除しただけですよ。この男が裏でやってきた所業を暴露して差し上げましょうか? それとも貴方の所業も暴露した方が良いかしら?」
「ぐ……っ……」
ここで黙ってしまったという事は、つまりこの大司教も裏では悍ましい所業をやらかしているという事である。腹を探られたら痛いため、黙るしかなかった。
大司教の背後から神官達や教団騎士達が駆け付けてくるが、大司教は彼らを止めた。今このタイミングで聖女の気に障れば、世に顔向けできない所業が明かされてしまうと共に地位も失う。
「……まずは聖女の話を伺いましょう。聖女が悪なのか、教皇が悪だったのか。今の時点では分かりません」
大司教の言葉は一同の動きを止めるには充分だった。ミネルヴァ聖教においての頂点は教皇であるが、聖女は教団の象徴たる存在だ。
どちらが上という訳では無い、共に教団の核たる存在。その二人が対立する事など今まではあり得なかった事だが、もし対立してしまった場合どちらが正しいかはすぐには分からない。
既に教皇が倒れてしまった以上は残る聖女の話を聞くしかないのだが、その聖女の話が正しいかどうかの判断が今立ち会っている者達に求められる。
通常であれば、教皇や聖女は白であっても黒と言えば黒になってしまう程の絶対的な権力がある。
しかし、今は聖女が明らかに異常な行動――教皇殺しと言う所業を行っている。これを白だと言われて「そうですか」と頷ける訳がない。
さすがにこれ程の事をやらかしてしまっては『聖女の事を何でも無条件に信じろ』と言うのには無理が生じてしまう。
「では、この教皇が如何に悪辣な病巣であったのかを公表するとしましょうか……」
そう言うと、聖女は信じられない行動に出た。未だ右手に持っていた教皇の心臓を齧ったのだ。
血が噴き出す心臓。そんな事はお構いなしに聖女は残る部分も全て口に含み、しまいには完食してしまった。
幸か不幸か、その行為はギャラリーから背を向けた状態、関係者にしか見えない状態で行われた。
「せ、聖女……貴方は、一体……?」
口の周りに付着した血液を舌で舐め取るその様は、まるで異質な怪物のよう。
自分達の目の前に居るのは本当に聖女なのか。大司教が恐怖に囚われていくのを尻目に、聖女はギャラリーの方へと向き直る。




