375:開放の空
赤き月の不気味な明かりが照らす闇の領域が終わる――
空間そのものにヒビが入り、ガラスが割れるようにして悪夢の空間が砕け散っていく。
外の世界は雲一つ無い青空が広がり暖かい日差しが降り注ぎ、頬をくすぐるような優しい風がそよいでいた。
しかし、そんな心地良い天気とは裏腹に、地面には闇の領域から取り残された地獄が広がっていた。
ダークエルフ陣営は戦士達も精霊達も皆が皆、疲労困憊の状態で地面に倒れ伏していた。
魔術的にも長けている者が多いためか、戦線の維持や回復も充分に出来ており、地獄を経たのに死者は驚く程少なかった。
だが損失も多い。契約を書き換えられてしまった闇の精霊達は、元に戻る事なく契約者の下を去ってしまった。
竜人族陣営は闇の精霊達の中でも一番戦力の大きい上級精霊達と激戦を繰り広げた。
そのため辺りの地形はもはや原形を留めない程に変わり果てており、戦いに敗れた戦士達の亡骸があちらこちらに転がっている。
数少ない生き残り達も、精霊と言う人知を超えた存在を前に、最強の人種を自称していた竜人族としての誇りを完全に折られてしまっていた。
一番被害が多かったのは獣人族の陣営だった。闇の精霊の中でも特に理性無き怪物達によってひたすらに蹂躙され尽くしてしまった。
采配により、戦いに生きる獣人族にとってはこの上なく屈辱的な『一番弱い種族』というレッテルを貼られ、知性の低い下級精霊をぶつけられたためだ。
肉体をその身に取り込まれたり喰いつくされたりした者も少なくないため、被害者の多さに反して死体の数や肉塊の量はそんなに多くなかった。
各々の種族が三者三様の絶望に包まれる中、生き残った者達は『帰るべき場所』を目指して歩み始める。
その『帰るべき場所』を絶大なる破壊力の爆撃によって消し飛ばされた光景が脳内にフラッシュバックするが、それでも歩みは止めない。
もはや彼らが動いているのは理性によるものではなく本能によるもの。無意識でも動いてしまうくらいに染み付いた帰巣本能。
・・・・・
一方、戦地の中心でお茶会を続けていた一行は、ようやく晴れ渡った空に思わず気が緩んでしまう。
やはり不気味な雰囲気の空間より、心地良い風と日差しが注ぐ青空の下の方が気分がいい。
それからしばらく余韻に浸ってまったりしていると、遠方から幾人かの人影が駆けてくるのが見えた。
人数にして九人。ダークエルフ三人、竜人三人、獣人三人と、先程まで対立していた種族が三人一組で迫ってくる。
その形相はいずれも必死極まりなく、まるでこの全力疾走に己の命が掛かっているかの如き様子であった。
それもそのはず、まさに此度の事は『種そのものの運命』が掛かっており、言動一つで大きく未来が変わってしまう大きな分岐点となる。
「やあやあ皆さん。随分と必死なご様子。我々に何用かな?」
リチェルカーレがあえて芝居がかったように来訪者を出迎える。
「そんなのは決まり切っている! 数多の我ら同胞を手に掛けてくれた敵討ちに――がはっ!?」
獣人の一人が憎悪剥き出しにして吠えるが、直後――その獣人の胸部から鋭い棘状のものが突き出てくる。
共にやってきていた別の獣人が、背後から己の手の爪を伸ばして同胞の胸を貫いたのだ。
「……友だからと連れて来てはみたが、ここまで愚かしいとは思わなかった」
彼はかつて、前線の隊長を務めていた獣人の腹心で、重傷を負った隊長の代理で新たに軍を仕切る事になった者だった。
基本的に本能で戦う獣人の中では珍しく、知略に長けた一面がある変わり者で、作戦のため獣人が忌避する『敵前逃亡』すらも厭わない。
そんな彼だからこそ、最初の獣人が起こした行動が『獣人と言う種族』にとって未来を断つものである事を瞬時にして察した。
「お、おい! いきなりどうしたんだよ隊長! 裏切ったのか!?」
「そうか。お前も察せない側だったか。残念ながら今の俺は『友の命』と『獣人という種族の全て』を天秤に賭けなければならない立場なのだ」
「な、何を言って――」
疑問を口にしようとした獣人の首が飛ぶ。剣を抜いたのは、竜人の男だった。
「全く、獣人の陣営はどうなっているのだ。交渉の場に馬鹿を連れてくるとは……」
「手を汚させて済まない。残念ながら、獣人はこう言った交渉事が苦手な輩ばかりでな。私のような部類は珍しいのだ」
同胞を手に掛けられた獣人は、竜人を怒るどころか逆に謝罪した。彼は理解していたのだ。竜人に救われたという事を。
大事な交渉の場を台無しにされる直前で止めてくれた事、もう一人の友の命を自ら手に掛けなくて済んだ事。
立場的に個人的事情よりも種族全体を優先しなければならない身に陥っていた彼にとっては、この事に対する怒りなど微塵もない。
「ゴタゴタは終わったかな? だったら要件を伺うよ」
「「「申し訳ありませんでした!!!」」」
言葉を促された一同は、すぐさまその場に跪いて謝罪の言葉を口にする。
本来は訪れて早々にこれをするつもりであったが、状況を理解出来ない獣人が先走ってしまった。
もちろん、それ以外の者達はこの場で『どうするべきだったのか』を良く分かっている。
彼らは闇の領域から解放された彼らが既に滅んでしまったと思っていた『帰るべき場所』に戻った時、ようやく真実を知った。
そこにあったのは、戦場に赴く前と全く変わらず健在の首都の姿。実はあの時の攻撃では、誰一人として被害者は発生していなかったのだ。
しかし、聡い者達はこの事実から恐ろしい結論に辿り着いてしまい、この後に待ち受けるであろう『最悪の事態』を想定してしまう。
(あれは脅しだ。その気になれば、いつでも首都をあのようにして滅ぼせるという……)
闇の領域内に首都は引き込まれておらず、ヴェルンカストの攻撃は何もない場所を爆撃しただけで終わった。
だが、あの時に放たれた爆撃自体は本物である。実際、その場にいた一同は間違いなく大きな震動と凄まじい爆風の衝撃を味わっている。
それで痛感させられた。どの陣営にも、あの爆撃を完全に防げる程の力を持つ者は存在しない。
それはつまり、放たれたら最後――もう滅びを受け入れるしかないと言う事だ。
ならばどうするか。攻撃を放たれたらアウトであるならば、そもそも攻撃を放たれないように立ち回るしかない。
手を出してしまった事を謝罪しなければ。そして、彼らの邪魔をしないように同胞達にも周知しなければ。
各々の種族が少なからず被害を受けたため、最前線の状況を知らぬ者達の中には相手への報復を求む声もあった。
だが最前線に居た者達は語る。自分達は『決して手を出してはいけないもの』に手を出してしまったのだと。
彼らが望むまま行く手を阻まずにいれば何も起きなかったのに、変に絡んで行ってしまった自分達の方が悪いのだ。
あまりにも圧倒的な力の前には、時には不平も不満も全て呑み込まなければならない。
故に三種族は、自分達の被害に関する悲しみや怒りをグッとこらえ、これ以上の被害が出ないようにする事を優先した。




