353:目覚めた大司教
「……ふむぅ、そのような事になっていたとは」
「全く覚えておられないのですか?」
「お恥ずかしい事に、全くです。まるで長期間に渡って封印されていたような感覚です」
魂を支配されている状況下では、元々の人格は消されているに等しい状態。
上書きれていた人格が行動していた間の記憶は、その人格しか保有していなかった。
故に、ヘルゴ大司教は状況を聞かされ浦島太郎の如き状況に陥っていた。
「今思えば『あの時』なのでしょうな。エレファルーナ様の出奔を知らず、エレファルーナ様に似た『何か』と遭遇した……」
「私に似た何か……? おそらく替え玉の聖女の事でしょうが、やはり私と見間違えるような事はなかったのですね」
「当然です。幼き頃より講師をしていた生徒を間違えようはずもありませぬ。だからなのでしょうな、支配下に置かれてしまったのは」
本物のエレナを良く知るヘルゴ大司教の存在は、偽者――そして、それを利用しようとする教皇にとっては都合が悪かった。
ヘルゴ大司教も、当然の事ながら本物に対する思い入れが強いため『偽者の事をエレナとして扱う』という事など出来ようはずがない。
もし彼が無能であれば、ただ処分するだけで良かった。しかし、ヘルゴ大司教という人物は教団を支えるくらいには有能だった。
「私はあの者に目を覗き込まれた時、身体の中を蟲が這いずり回るような、何とも言えないおぞましく苦しい、激痛を伴う感覚に襲われました。そして、私もあの者の目を覗き込んでしまい、見たのです」
そこまで口にして、ヘルゴ大司教がガクガクと震え始める。思い出したくない物を思い出したかのような怯えを見せる。
「あれは、あれは……もはや人間という範疇を超えた別の何かです。まるで『恐怖』という概念が形を成して具現化したかのようで……」
『ほぅ。恐怖という概念が形を成して具現化しただと? ならば大司教よ。この我を見てどう思う?』
「!?」
不意に具現化する死者の王。言葉に従い、その姿を見てしまった大司教は言葉を失う。
現在の王は抑えていない。大司教に対してのみではあるが、その濃密な『死』を内包する気を放出している。
「……一言で言えば『死んだ』と思いましたな。まさか『死』という概念を見る事になろうとは」
『正しい解釈だ。我はまさに『死』を具現化した存在。存在そのものが『死』だ。では、お主の言う『奴』はどうだった?』
「あの者の場合、恐ろしさの質が違いますな。まるで目の前で人が惨たらしく殺され続けるのを見せ続けられるような、言いようもない不快感もありました」
『嫌悪感というものか。まるで負の感情の集合体だな。どうやら、替え玉の聖女とやらは想像以上におぞましい処置をされているらしい』
「王には心当たりがあるのか? その『おぞましい処置』とやらに」
『まず間違いなく肉体はいじられているだろうな。身体に術式も刻まれている事だろう。それこそ、先程話に出ていた『死霊を詰め込む』事も、行われていても不思議ではない』
王は他にも様々な心当たりを話していくが、そのどれもが人体に途轍もない負担を強いる過酷な処置だった。
たった一つの事ですら精神が崩壊して発狂してもおかしくない程の苦行。表に出す事も許されないような非人道的な禁忌の御業。
故に効果は絶大。だが、考え無しに全てを詰め込もうとすれば崩壊してしまう。何せ、一つですら上手く行く保証はない。
「とりあえず、替え玉の聖女は『禁忌の集合体』だと思っておいた方が良いだろうね。アンティナートに対抗するにはそれくらいやらないと無理だろうし」
「他人の事も何とも思っていない父であれば、替え玉の聖女に禁忌を施す事に一切の躊躇いは無いでしょうね」
「救ってやりたい気もするが、大司教の話を聞く限りだと既に手遅れなんだろうな。どうしようもない化け物に仕上がってそうだ」
竜一達は知る由もないが、替え玉の聖女は既に地獄を脱しており、今では権力も財力も思うが儘の現状に満足している。
だからこそ、ミネルヴァ聖教打倒のために接触すれば、甘い汁を吸っている今の立場を失いたくないがために全力で抵抗してくるだろう。
救出しようなど以ての外だ。既にその時期は過ぎており、今更そのような事を主張されても怒りを引き出す要因にしかならない。
「エレファルーナ様は替え玉の聖女、そして父――教皇の打倒をお考えですか?」
「えぇ、父の欲望が世界を汚している要因の一つである事は間違いありませんし、私自身のけじめを付ける意味でも」
「ミネルヴァ聖教そのものの解体についてはお考えですか?」
「おそらく上層部は完全に腐敗しきっているでしょう。意に添わぬ者も、先生のように変えられている可能性があります。もはや宗教そのものを解体しなければならない段階まで来ていると思います」
「ふむ……。しかし、多くの民がミネルヴァ聖教に依存しているでしょう。それが急に失われたりしたら、絶望する者も少なくないのではないかと思いますが」
「人は強くもあり弱くもある。先生が仰る通り、何かに縋っていなければ生きる事もままならぬ人達が存在するのも事実。そのためにも、私が拠り所となり新たな受け入れ先を作ります」
「果たして、そう上手く行くのでしょうか。私自身が宗教に思い入れの強い大司教であるからこそ分かりますが、改宗とは非常に難しいものです」
現実の問題としても、崇拝する宗教そのものを変えるというのは非常に難しい問題とされている。
宗教によっては『主神を裏切った大罪人』として、当時の同胞達から迫害を受ける事もあるし、文化や生活様式を丸々変えなければならないものもある。
人によっては亡命する権利や滞在する許可を得やすくするための『打算』での改宗を試みたりするなど、信仰とは別の思惑で動く者も居る。
「エレナは腐ってもあの教皇の娘なんだ。ならばその立場を活かして丸々信者を頂いてしまえばいいのさ」
「言い方に語弊はありますが、リチェルカーレさんの仰る通りです。教皇の信者がそのまま娘の信者になるのであれば、不自然では無いでしょう?」
「なるほど。表向きには『ただの世代交代』にする訳ですな。信仰している宗教が徐々に変わっていくのは良くある事ですし、抵抗は少ないと」
「俺達が旅してきた過程で、既存の宗教を脱してエレナ個人を信仰する独自の派閥が既に生まれてるからな……」
「おぉ、さすがはエレファルーナ様ですな。貴方様を個人的に崇拝するというのであれば、この私もやぶさかではないですが」
「そ、それに関してはまたその時に考えさせてください……」
幼き頃のエレナの講師役を務めていただけあって思い入れもあるのか、エレナ個人の崇拝に関しては前向きな大司教だった。
エレナ自身は勝手に持ち上げられて、信者達から『女神』と崇拝されてしまっている現状を恥ずかしく思っていた。
その一方で、父親を倒してミネルヴァ聖教を解体した際には、間違いなくそうやって獲得してきた信者達が大きな力になるとも思っている。
「それより、今回の騒動に関してはどう締めるおつもりですか? 一応、大聖堂に居た人達は眠らせていますけど……」
信者や職員達は現時点ではまだ何が起きたのかすら知らず、暴走を鎮められてから治療も兼ねて眠らせた状態になっている。
エレナとしては見ず知らずの者が説明するより、大司教が説明した方が良いと考えてその辺を後回しにしていた。
「確かに、余計な混乱を招かぬように私が説明した方が宜しいでしょうな。問題は、どのように伝えるかですが――」
一旦エレナと目を合わせた後、しっかりと頷いて大司教は目を閉じ、少しばかり思案する。
「――黒幕を明かすと大混乱に陥りそうですし、その部分だけを変えてそれ以外は真実を話しましょう」
世の中、何でもかんでも馬鹿正直に真実を語れば良いと言うものではない。
時にはその真実が人を傷つける事もあるし、優しい嘘で保護してやらなければならない時もある。
かと言って、嘘は重ねる程に脆くなる。嘘八百ともなれば、もはや維持する事すら難しい。
絶妙に嘘を混ぜる。ただ、この嘘が優しいか否かで、語る者の方向性も全く異なるものになってくる。
人の心を癒すような語り手は優しい嘘が上手く、詐欺師のように人を獲物にするような者の嘘は悪意に満ちている。
しかし、本当にタチが悪い者はその合わせ技を使ってくる。地獄への道は善意で舗装されているとは良く言ったものだ。




