04.紙でケツ拭く唐宋時代
南北朝時代の北朝において、彼らが元々高度な牧畜業を営んでいたために、それまで中国で行われていた養豚業は大きく変更された。
豚の育成は官吏ではなく農民の手によって行われるようになり、うんこを食べさせることもなくなった。斉民要術にある養豬第五十八にも、春夏は放牧して草を食べさせ、冬には糟糠を食べさせるように書いてある。より良い品質の豚が宮廷料理に出されるようになり、トイレで暴れ豚が金玉を食いちぎるなどと言う凄惨な事故も起こらなくなった。
北朝のトイレの記録はないが、隋唐のトイレは出土模型によれば中央にトイレ穴のある四角い部屋だった。豚の姿はなく、蓋かあるいは手すりが穴の近くに設けられていて、恐らく戸で臭いを塞いでいた。
唐代の出土模型や絵画によれば、当時の邸宅は塀に囲われていて門が一つあり、また庭園を囲うように楼閣や寝室、応接室、厩など幾つかの建物が風水的な規則に従って配置される庭院様式で、楼閣は一時期禁令が出されていたことがあった。
唐代に発布された営繕令によれば、住宅の規模は社会的地位によって規定されていた。屋敷によっては各建物は回廊で繋がっていて、トイレはその一部を成していただろう。中庭で小便していた者もいたようだ。
唐書李輔国伝や夷堅志によれば、夜中にもトイレを利用していた。
手洗いは魏晋の頃と同じようにしていたが、手桶や石の容器を使っていたこともあった。石鹸としては豆粉がまだ使われていて、千金要方によれば薬用として顔に塗ったりもしていた。
新唐書によれば、宮廷のトイレは将作監に属す右校署が建造を担当した。
唐史に、地震が起きて地割れによって井戸と厠が繋がったという記述があるから、大抵のトイレは多分壺か汚水溜めを使う形式だった。
溜まった汚物は汲み取り業者によって処理された。太平広記には汲み取りを副業にして長安で巨万の富を築いた羅会という唐代の人物が紹介されている。百万都市の長安で排出される糞便は、一般的な計算では一日300トン程度になる。
回収した糞便の主要な利用方法は相変わらず農村の肥料であり、斉民要術でも土と混ぜるように勧めている。
ところで唐の太祖李淵の祖父の諱が李虎だったので、尿瓶の名前は虎子から馬子或いは溺器と呼ばれることになった。名前で遊ばれるのは古代からキラキラネーム時代まで珍しくないので、強権的だが可笑しなことではない。
尿瓶の構造や素材はあまり変わらなかったが、そのデザインは虎から馬に変わった。
トイレットペーパーが歴史に初登場したのは隋の時代だという。
中国技術史の学者ジョゼフ・ニーダムは顔氏家訓の治家第五に触れて、私は五経や高名な人物の名前が書かれた紙を不潔なことに使わないと書かれている点から、当時のトイレにおいて紙が使用されていた可能性を提案する。ちなみに文字の書かれた紙で尻を拭くべきでないというのは明代には法制化されている。
またニーダムは851年に広州を訪れたイスラム教徒のスレイマン・アル・タージルが、中国人は用を足した後に紙で拭く、と記録していたことを指摘した。明確にトイレットペーパーの利用が示されるのは元代からだが。
当時の紙は紙匠によって造られていた。他の工匠同様に組合的な性質を持っていたようだ。唐六典によれば写本・写経用の紙を製造するために熟紙匠が弘文館に配備されたとある。多分徭役だろう。敦煌資料によると書物に関わることから紙匠は官府だけでなく寺院にも雇われていた。
紙の製造方法は天工開物にある。
竹紙の製造法も詳しく書かれており、雑に書くと若い竹を2,30cmに切り、水に百日漬けてから表皮を叩いて取り、石灰水を塗ってから鍋に入れて八日間蓋をして煮立てる。洗ってから灰汁に漬けて煮立て、十日余りで腐ったら槽に浸し、粘汁を加えて竹紙が出来る。その作業は手間に見えるが、極めて安価だったというから雑用に使うのも判る。
とはいえ一般的に唐代中国では木の板を使い続けていた。宋代の五灯会元では寺社でも籌子すなわち木の棒を使っている。スレイマンの話を考えると、江南では加工しやすい半面、質の悪い竹の紙を早くから利用していたのだろう。竹紙自体の一般的な利用については九世紀始めの唐国史補より史料に表れ始める。
宋の時代、都市景観は絵画に盛んに描写されたため、宋の庶民の生活──特にハレの日の様子は伺えるものの、トイレの姿はどこにも見えない。屎尿はケの扱いで絵画の収集家に価値を見出されず、また屎尿自体に清代の笑林広記にあるような低レベルなユーモアのイメージは未だ無かったのだろう。明代の文学の評価の高いものでも屎尿を笑いの種にしているのは見ない。
夢粱録では、市場で食品や食器、文房具、家具などと共に馬子が売られていたことに触れている。
夢粱録によれば庶民の家にトイレはなく、みな馬桶を使っていた。馬桶の名は馬子からくるが、この頃の馬子は馬の形をしておらず、大便の用も足すことのできる只の桶だった。毎日、傾腳頭と呼ばれる回収業者が桶の中身を処分していたという。回収業者は膨大な量の汚物を船で運んだ。
杭城において、馬桶の中身を西にある湖に投げ捨てることは禁止されていたが、あるときは汚泥が湖の港を塞いでしまい、湖を攫うための兵隊が募集されたという。
宋代の貴族や官僚の屋敷ではトイレを使っていた。この頃になると庭院様式内の複数の建物は互いに連結し、建物周りにも廊下が造られるようになっている。儒学者司馬光による涑水家儀には、男女で同じトイレを使うべきでないとある。トイレは複数あったのだろう。
とはいえ帰田録には、宋の太宗の子の燕王趙元儼が、木製の馬子桶を好んでその上に座ったまま食事をしたり、演奏を聞きながら酒を飲んでいたという。
寺社ではトイレを雪隠とも言ったようだ。
宋代に書かれた武経総要には、行軍中に宿営地を置くとき、先んじて厠用の穴を掘るよう命じるべきとある。一応墨子にあるように軍事拠点には古代からトイレがあり、第二項目で触れたように軍艦にもトイレはあったが、即興の宿営地が掘った穴でしかないのは、大昔から近代までずっと変わらない。
厠の神様はトイレの様式が変わってもまだ存在していて、唐代の夷堅志では夜中の厠での志怪があり、宋代の夢溪筆談では正月の紫姑神に触れている。
中国では元の頃にトイレットペーパーが量産されるようになる。通賀によれば明代には銅製の馬子が使われていた。明から清初の頃に都市部に下水道が造られるようになる。とはいえ清末になっても都市の汚染は変わらず、例えば米欧回覧実記には上海の中国人街にて下水利せず溲溺漂い流ると記録されている。下水道自体はもっと昔からあったが、そちらは主に農業廃水に用いられていた。
燕行日記によれば中国において金を取る公衆トイレは清代に生まれた。価格は三文だったという。当時の公衆トイレは清潔で、芙蓉の香りが立ち込めていて、一つ一つに敷居が設けられていたようだ。つまり金を払えない者たちは路上で致していたのである。
家庭のトイレは敷地の隅に建てられることが多く、清俗紀聞には浴室や厨房の傍に建てられている図画がある。清の風呂は沐浴だから、水利関係ではないだろう。トイレは唐代と変わらない、1,2人しか入れない狭い部屋で、壺が埋められている。ときには床に板を敷いていた。清稗類鈔によれば落下死することもあったようだ。
女性はトイレに行かず、板で囲って馬桶を使っていたという。
尿瓶は溺瓶あるいは夜不収といい、名前からして多分夜間に使われた。
庶民は中華民国に入って以降もずっと変わらず馬桶を使っていたようで、1924年の上海快覧には、衛生法に基づき糞桶は当局が購取するため良く蓋を閉めておくようにとあり、また1938年頃の日本人旅行者は、江南の宿泊施設などでは馬桶が寝台の傍に備えられていて屏風に隠されていたと記録している。
当局に雇用されていた回収者は主に女性だったのか、倒屎婆と呼ばれていたという。馬桶は基本的に木製で、木目などに汚れが溜まり易く、蓋をしないと臭かった。しかし1925年の華南郷村生活によれば、農村の桶には蓋すらなかった。
中国でニーハオトイレなる公衆トイレが生まれたのは1970年代で、下水道や処理場とともに衛生の改革開放はここから始められた。




