02.豚にうんこを食わせる古代中国
中国の歴史は長いが、いわゆる都市化は春秋時代からで、史書においてトイレに関わる逸話もこの時代から現れる。勿論それ以前──最も古いもので紀元前5000年頃に堀で囲われた集落が出現したときには、集落の一画に穴を掘っただけの共同のトイレ、あるいは廃棄場的な場所があったようだ。
夏の時代の二里頭遺跡には陶器製の汚物壺があり、商代の殷墟には宮殿内を通る排水設備があった。ただこれだけで落下式から水洗に移行したと言うことは出来ない。むしろ周代に倣って、壺に致した後で中身を下水に流したように思う。
放尿は東洋も西洋も立って致していたようで、尿の甲骨文字は前屈みに立って放尿している姿から来ている。後代だと尿瓶に致すが、この頃は尿瓶を使わなかったのだろう。地面に向けて尿を放っている。
周代には厠掃除の担当が居たことが周令の天官にある。甲骨文から金文の時代に移り、尿は屎に合わせて膝を曲げて尻から水を零す姿になったが誤差だろう。史書を元に共同トイレの存在を示唆する資料もあるが、従来の様式を大いに変更するものではないように思う。
周では、尿瓶は褻器と呼ばれていて、王のものは玉府が管理していたと周礼にある。
春秋時代に都市化が起こり、都市内で暮らす人々のためにトイレの需要は大きく高まったが、公共トイレとしては従来の様子と変わらなかっただろう。裕福な個人宅は王侯のトイレに倣ったように思う。
史書では紀元前6世紀頃に晋の景公がトイレの中に落下して死んだ話が左氏伝にあり、これが初出になる。続いて紀元前3世紀に范雎が魏の宰相魏斉によって簀巻きにされて厠に放置され、魏斉の食客が代わる代わる小便を掛けた話が史記にある。食客は屋敷のトイレを共用していたのだろう。
地方官吏の役所にトイレがあったことは李斯伝で触れられている。また范雎伝はトイレに看守がいたことを示すが、これは魏斉の命令で范雎を監視していただけかもしれない。
尿瓶は、春秋末期以降のものが多数出土している。陶製、青銅製、漆器製などがあり、多くの場合伏せた虎の形を模しているので虎子と呼ばれていた。側近に尿瓶の取っ手を持たせ、ブツを虎の口に加えさせるようにして致したのだろう。置くときは虎の四肢でバランスが良い。また古代特有のゆったりとした衣類を汚さずに致せるので便利だった。
ただ虎の形をしていることについて説明する適当な資料はない。ところで尿瓶があるなら趙の廉頗が何度も尿のためにトイレに行ったとは解釈されないから、漏らしたと吹聴されたんではないだろうか。
人肥の利用は、孟子や荀子など戦国時代の史書からも見て取れるが、礼記の月令でも触れられる。今でも農業では雑草を焼いて灰にして土と混ぜることがあるが、月令では季夏(旧暦6月)に灰と人糞を土に混ぜる。街路に灰を撒いてはならないという殷、周そして商鞅の法令と結びつくものがあろう。
農村では太古の昔の共同トイレが継続して利用されていた。
考古学的には芒碭山梁王后墓や駄籃山楚王墓に造られた前漢のトイレが初出になる。また副葬品の陶製厠模型がその全体像を提示している。
説文に圂は厠であるという。圂は猪が囲いの中にいることを示しているが、その言葉通りの模型が多く出土している。
漢代のトイレは独立した建造物で、高床式になっている。一階部分には屋根のない豚小屋がくっついていて、何匹かの猪及びときどき鶏が纏めて飼われていた。豚小屋は石積みの壁または木柵に囲われている。子豚が生まれたりもしていたようだ。
豚小屋に外付けされた階段を上ると、トイレ部屋が1つまたは2つある。部屋は隣り合っている場合も、それぞれ離れた場所にある場合もあった。
片方に放尿用の水槽があったことから、男女の別があり、二つあるときは片方が男用、もう一方が女用であったといわれる。ただ隣り合っている様式の模型の一つを見ると、両方とも男性が致しているように見える。
部屋は個室で換気口があり、木造または石造りで、瓦屋根だった。西京雜記には皇帝のトイレが玉璧で造られていたとあるが裏付けるものはない。
トイレのドアを開くと、スクワット型の落下式便所がある。トイレの穴の両側には足を乗せられる程度の台があり、左手と正面には腰の高さ程度の台があった。梁王后墓の方は足を置く台が腰を下ろせるくらいの高さになっている。利用者によって差異があるのかもしれない。
左手の台には灯りなどを置くことが出来た。当時の手持ちの灯りは凝っていて、動物や龍を模るものがある。司波芝伝で触れられる絹織物の盗品も台に置かれただろうと思う。
他に台に置くものとしてローマ同様に臭い対策の道具がある。ローマ貴族は臭いを誤魔化すのに薔薇などの花を使ったが、中国の貴族は草木より採った香料のほかに、鼻に詰めるための乾棗を漆器の箱に入れてトイレに置いていた。ほかに西晋の劉弘が香炉をトイレに持ち込んだ話があり、トイレの臭いに難儀していた様子が伺える。
正面の台は腰を下ろすときや踏ん張るときに掴んだのだろうか。
穴の下は一階部分に繋がっていて、猪が屎尿を食べる。トイレによっては広い窓があって、致しながら豚小屋を眺めることが出来た。
豚に便を処理させるとはいえ、史書にネズミやサソリなどが出てくる逸話があるように不潔さは変わらなかった。こうしたトイレは貴族が私有するほか、長安の各官府内に置かれていた。
豚が穴から厠の方に出てきたり、屋外で暴れた事件はいくつか記録されている。史記にある賈姫が用を足しているときに出てきた豚も、小屋で放し飼いにされていた豚だろう。
ちなみに公的な場で便を漏らすのは良くないとされ、朝見に出ることも控えられた。
豚のいるトイレは副葬品を作られるような裕福な立場あるいは公的な機関であるからこそ実現する環境で、大抵は壺に致して捨てるやり方だったことが察せられる。民間の画像石には、豚の無いトイレで掃除をする場面を描くものがある。
一般的な市民も公共トイレではなく自前の厠でするようになったのは大きな変化だっただろう。
呂産が身を隠すためにトイレを利用したり、韓馥がトイレで自殺したことを見ると、ローマと違って厠がパーソナルスペースとして機能していたようであり、庶民もそうしたスペースを必要としたように見える。
尻を拭くのにまだ紙は使われていなかった。紙の発明が後漢の蔡倫によるのは知られているが、少なくとも魏晋南北朝の頃までは古代の日本と同様に木片を使っていた。
放尿用の水槽は次第に設置されるようになった。立って素早く致せる男性用だったという。ただしまだ虎子も継続して使われていて、隋の頃までその形状を保っていた。
西京雜記には漢の皇帝が玉製の虎子を使っていて、行幸中は侍中が手伝っていたとある。とはいえ玉造りの虎子は発見されてないし、あっても第一に盗まれる部類だろう。
豚小屋付きのトイレは三国時代にも継続して利用されており、孫休墓や曹操墓にも陶製厠が出土している。三国時代の皇帝たちもこのようなトイレを、脾肉の説話のように太腿を晒して使っていたのだろう。
黄蓋伝に、落水してから助けられた黄蓋がトイレに放置された話があるように、大型船舶(楼船)の中にもトイレがあった。下っ端ならともかくそれなりの地位の人物が船の欄干でするのは西洋中世でも無いから当然だが、厠の小部屋がある陶器船の模型が出土している。とはいえ内装はかなりシンプルな穴や壺だっただろうが。
呉から陳までの六朝時代にもこの傾向は続いた。
世説新語にはトイレから出た後、瑠璃のお椀に盛った石鹸代わりの豆粉と黄金の盥に入った水で洗ったという話や、同じく出た後に、古い服を脱いで新しい服を着たという話があるが、出世前の王敦がこの慣習を存じてなかったから極端に裕福な例に感じる。諸葛恪伝では孫峻も厠に行った後で着替えている。
当時の豆粉には未だ石鹸としての除菌機能はないが、花を中心とした香料が混ざっており、良い香りで臭いを誤魔化すことが出来た。
六朝時代には、厠に関わる怪奇小説(志怪)が幾つも書かれた。
宣験記には、孫晧が金の像を厠近くに置いて頭上に放尿すると陰嚢が肥大化してしまい、仏法に救いを求めたという話がある。
また述異記や幽明録には厠に鬼が居たという話があり、白澤図には依倚という厠の精が居たという話がある。依倚は名を呼ぶと去るが、名を知らぬ者を殺すという。
異苑では、紫姑神という神を厠で迎える作法が記される。占いを得意とする神で生前は悲運に塗れていたという。荊楚歳時記でも紫姑神について触れられていて、こちらでは正月十五日に作法に拠って迎えるものとある。
異苑ではほかに後帝という名の厠神がいる。荊楚歳時記ではまた正月の未の日に葦を燃やして井戸と厠を照らして百鬼を除くという。
色々あるが、厠に対しての神聖視は日本でも似たようなものだし、特に何かあるわけではないだろう。
屎も尿も薬として利用していた。
漢末に書かれた傷寒論には、少陰病の薬として白通加猪胆汁湯があり、これは葱白、干姜、附子、人尿、猪肝汁を混ぜて作るという。
神農本草経には、ツバメや蝙蝠のフンを薬とするものがあるが、人のモノはない。
一方、金匱要略には毒を食べた時、人糞と地漿(土のようなものか?)と大豆を煎じて飲み、吐けばよいとある。糞汁は三国志でも、毒を飲まされた郭汜が毒を吐くために用いている。日本の戦国時代の雑兵も毒矢を受けた時だったか糞汁を飲んでいたのを聞いたことがある。
豚に人糞を食べさせる発想は、効率化の代償に寄生虫にとっての可能性を拡大させた。香りで誤魔化すという手法の清潔さは衛生には不十分で、不安定な政情による疫病の流行をさらに助長させただろう。
しかし政情や不衛生にも拘わらず人口増に基づく経済発展の波は中国を発展させ、唐宋の時代にはまた新たな局面を迎える。




