"奪うことでしか"
あまりにも信じ難い事に、その場にいる誰もが微動だにできなくなってしまった。
"どす黒いマナ"の発生理由は明確に分析ができている女神だが、それを実際に浄化することはできても、その発生自体を止めることは不可能だと彼女は石版に記していた。
そして、その発生時期を予測する事も不可能だとも。
そう呼ばれるマナについて、ヴァンとロットには覚えがある。
あの魔獣戦が終結した直後に、彼らはそれをその目にしていた。
きっとそうなのだろうという確たるものはないが、決して曖昧なものではなく、恐らくはそれが真実なのだろうと思えてならなかったヴァン達だった。
あれを浴びてしまえば取り付くように、そして纏わり付くように身体を覆い始め、そう遠くない内に眷属へと覚醒してしまうのだろう。まるで悪夢のような出来事を思い起こしながら、二人はイリスの言葉に耳を傾ける。
"人が生み出し続けているもの"だとは、とてもではないが信じられないと言った表情を彼らは浮かべるも、女神が残した情報に間違いなどある筈もなく、反論ができず、その思考すらも纏まらない状態でイリスの言葉を聞き続けていった。
マナとは、生命の大本とも言える、生きていく上で非常に重要な役割を持つエネルギーなのだと、女神が残した石版には書かれていた。
動物に限らず植物に至るまで、生きとし生けるもの全てに必要不可欠な源となる。
人々がそれらを鍛え、使い続けたマナの残滓が地表からコアへと吸収された後に一旦空へと還り、天上で完全に浄化されて再びコアへと戻っていく。
これが本来持つコアの力と、その役割らしいとイリスは言葉にしていった。
そして天上の世界とは、地上を見守り、マナを潤滑に浄化する為に必要となる場所なのだと、エリエスフィーナは自身の残したものを発見した者へ伝えるべく、言葉を認めていた。
マナに含まれる不純物を浄化することで、生物に必要なエネルギーへと変換し、世界へと巡らせていくのが本来の役割なのだが、ある特定のマナがコアでは吸収しきれなくなり、膨大なマナが地表に溢れ出してしまった。
その原因の一つが、魔法が発達し過ぎてしまった世界であることだ。
いつのことかも定かではないほどの古き時代で使われていたその力は、女神が予想している以上にマナが消費され、本来コアが吸収する量を遥かに超えてしまっていたのだが、その程度であれば、マナが爆発するように地表へと噴き出すことなどありえない。
しかし、イリス達のいる時代とは決定的に違うのは、魔法という絶大な力を人に向けて使っていた時代だったという点である。
当然これは、嘗て彼女達のいた時代でも言えることではあるのだが、それ以上に凄まじかった可能性があるとメルンは推察する。
数千年か、それとも一万年以上かも分からないほどの遠き古の時代で、人々は争い、世界は焼かれるように穢されていたのではと彼女は考えていた。
流石にそれを肯定するほど、イリスはそういった恐ろしい状況を知らないため、とてもではないが信じられなかったようだが、そんな彼女の頭から離れない言葉が石版には刻まれていた。
『人は、誰かに刃を向ける時、必ず何かしらの暗い感情を抱くものだ』
それは文字でありながらまるで彼女自身が嘆き、深い悲しみの中にいるようにも思えたが、その言葉に含まれる意味は恐ろしいものだったと、彼女には感じられたようだ。
これが女神が認めた"大災厄"を引き起こした原因の一端であり、空へと還り、何れはコアへと戻っていく筈だった高密度のマナが浄化されずに地上へ噴き出してしまった。
黒いマナとは、"人の悪意"が途轍もない密度で篭ったものだと、女神は石版に記す。
人が普通に生活しているだけでは、何も起きないという。
だが、ある一定以上のとても強い不の感情がコアへと集められたはいいが、そのどす黒い感情を吸収し切れなくなって地表へと現れてしまったのが、"大災厄"と表現され、女神自身がまるで懺悔するかのように言葉を残した理由にも繋がるという。
「恐怖、憎悪、憤怒、悲嘆、嫉妬、嫌悪、絶望、後悔、無念、そして殺意。
……生きとし生けるものの中でそれらを所有するのは人間だけだと、女神様はお言葉を残されていました。
そういった不の感情が全て合わさり、凝縮してしまったのが"黒いマナ"と呼ばれるものとなり、それを動物や魔物が触れることで変異を起こし魔獣化するようです。
そして人がそれに触れると感情を抑え切れなくなり、まるで意識を乗っ取られてしまうかのように全てを壊そうとする存在となるのだと、石版には刻まれていました。
……それが、私達が魔獣や眷属と呼んでいる存在です」
それ故に、眷属に言葉など一切通じるわけもなく、ただただ世界を破壊し尽くそうとする恐ろしい存在となってしまうのだが、それはあくまでも途轍もない密度で凝縮された、人から発せられた凄まじい不の感情によって動かされているだけに過ぎず、そういった存在が悪ではなく、"犠牲者"なのだとエリエスフィーナは残していた。
「それらの存在は、人の悪意に突き動かされているだけだとも、石版には刻まれていました。それはある意味で、ガルドとも同じだと言えると私は思います。
あの子もまた、本来は持つことはないはずの激しい怒りと憎しみに囚われてしまい、行き場のない想いが剥き出しになってしまっただけなんです。
……でも、私には、いえ、世界にいる誰もが、黒いマナに囚われてしまった存在を治すことは、できないんです……」
とても悲しそうに言葉にするイリスに、ネヴィアは静かに答えていった。
「……それでイリスちゃんは、とても悲しそうなお顔をしていたのですね……」
「……はい。あの子を救ってあげるには、あの子の命を奪うことでしか、それを叶えてあげることが、できなかったんです……。
……そんなことしか……私にはできなかったんです……」
とても辛そうに話すイリスは、恐らく"願いの力"であっても、ガルドを救ってあげることはできなかったと推察していた。
この力は途轍もない強さを持っている。
そんな力で無理にでも"黒いマナ"を浄化してしまえば、恐らくは彼の魂ごと消失させてしまいかねなかったと思えてならないイリスだった。
あの子の魂すら滅してしまいかねない可能性がある以上、たとえその命を奪うことになろうとも魂さえ無事に天上へと送ることができれば、後はエリエスフィーナ様が何とかしてくれるはずだとイリスは考えていた。
そしてその考えは、概ね正しかったのだと思えてしまう。
イリスの"祈り"により、天上へと向かっていった複雑な色をした光。
あれがもし、魂と呼ばれるものであるのならば、彼女の取った行動は正しかったのではないだろうか。
"可能性にかける"なんて、失敗していたかもしれないと考えられるような危険な方法を取らなくとも、その魂を送ることができたのなら、それが最善だったのかもしれないとイリスは思っていた。
「"魂が消滅するということは、個の消滅と同義"なのだと、私の生まれた世界を管理している女神様の一柱であるお方が仰いました。
恐らくではありますが、こちらの世界でも魂というものの存在に大きな違いはないと思いますので、魂さえ無事であれば、また新たな命としてこの世界に戻って来れるのかもしれないと、私には思えたんです」
だがそれは、今いる自分が消滅し、別の存在へと変わってしまうという事でもある。
言うなればそれを人は、"死"と呼ぶのかもしれない。
たとえ生まれ変わり、再びこの世界に戻って来たとしても、自分の生きていた記憶が消えてしまうのであれば、それはもう他人であることに違いはないだろう。
それでもイリスは、魂が消滅してしまうよりはと思えてしまう。
その先が約束されていないそれは、完全な無なのではないだろうか。
彼女にとってそれは、とても寂しく、とても悲しいとしか思えなかった。
せめて自分の時のようにどうするかを自らが選択できれば、本人の希望に合った事ができるのかもしれないが、それはもう人の身でどうこうできるものではないだろう。
それこそ神と呼ばれる存在でもなければ、どうしようもない事だと言えるのではないだろうか。
……だが一つだけ、違った可能性を秘めた力の使い方ができるかもしれない。
"願いの力"だけでなく、"真の言の葉"と合わせた強大な力であればあるいは……。
そんなことを思っていたイリスではあったが、実際にそれを試すには、まず自身で検証してみないことには分からない。
一体どういった変化が身体に起きているのかも分からないのに、そんな存在に対して強引に"浄化の力"を使うのは非常に危険だと言えるだろう。
しかしそれは詰まるところ、一歩間違えば自身が眷属化してしまう事に繋がる可能性が高い。それもイリスがもし眷属化してしまえば、直ちに女神が降り立ち、穢されてしまったイリスだった存在を浄化する為に、凄まじい力を振るうこととなるだろう。
自身が消滅することよりも、仲間達や世界に危害を加えてしまうくらいならばいっそ、とも思えてしまうイリスは、メルンの言葉にしたように慎重になるべきだと心を落ち着かせるように鎮めていく。
冷静になって考えれば分かることだ。
そんなことになれば、誰も喜ばない結末を迎えることになるのは確実だ。
大切な仲間を、大切な家族を悲しませ、大切な約束までも破り、あのひとをこれ以上ないほど深く悲しませてしまうことになるだろう。
だがメルンの知識によるものから、解決法とはいかないまでもうっすらとではあるが、可能性の光が僅かに見えているイリスにとって、最優先するべき今後の行動も決めることができたようだ。
後は仲間達の承諾を得た上で、その場所を目指そうと思っていたイリスは、女神が顕現した場所と、それによる影響についての詳細を仲間達へと話していった。




