"本職の凄さ"
"月夜の湖亭"
ここはツィードを訪れる冒険者や商人が、多く利用する宿の一つである。
内装は白い石で造られていて、白を基調とした雰囲気を感じさせる館内は清掃も行き届いており、とても清潔感のある宿屋となっているようだ。
当然この宿だけでなく、他の宿泊施設も同じような造りになっていると先輩たちは人から聞いたことがあるそうだが、実際にそれを自身の目で見たことはないので、それが本当であるかまでは分からないらしい。
ただひとつ言えるのは、この宿屋がとても綺麗なことだろう。
これだけ館内が綺麗に保たれているのであれば、部屋もベッドも問題ないと思えた。
いくらイリスの魔法で身体を清潔に保てたとしても、やはり安全な街の中の、それも清潔なベッドで眠れる事は彼女達にとってはとても嬉しい事だった。
店内はあくまで宿泊施設のみらしく、食事に関しては別の場所で取ることになるとファルが教えてくれた。とはいえツィードは、美味しいと評判のお店がとても多いらしく、中央の広場から少々進んだ辺りでは毎日大変な賑わいがあるそうで、さながら激戦区と呼ばれるほどの活気で満ちているらしい。
思わず想像し、とても楽しそうな表情を浮かべるシルヴィアに微笑みながら、ファルはカウンターに置かれているベルを鳴らしていった。
暫しの間を挟み、宿の方がこちらへと向かって来たようだ。
年齢は三十代半ばといったところだろうか。
とてもほっそりとしたシルヴィアと同じくらいの身長でスタイルが良く、肩口で綺麗に切り揃えられたブラウンの髪が似合う、美しい女性だった。
左手に光る銀色の指輪が宿屋の主人か、その妻であると連想させる女性は、とても素敵な笑顔で優雅に頭を下げながらイリス達へと言葉にしていった。
「当店へお出でいただき、ありがとうございます。
おかえりなさいませ、ファル様。お部屋の鍵はこちらになります」
「ありがと、カーリンさん」
カーリンと呼ばれた女性はカウンターから一つの鍵を取り出すと、ファルへと手渡して、イリス達を真っ直ぐ見据えて挨拶をしていった。
「私は当店"月夜の湖亭"の主人を務めております、カーリンと申します」
「イリスと申します。こちらにいる彼らと共に旅をしている冒険者ですが、宿泊をさせて頂きたいのですが、お部屋は空いていますか?」
イリスの問いに笑顔で『勿論ございます』と言葉にするカーリン。
利用者名簿に自分を含め、仲間達の名を書いていったイリスに彼女は言葉にする。
「ご滞在はいかがなさいますか?」
カーリンに尋ねられて、ツィードでの滞在期間を仲間達と話し合っていなかったことを思い出したイリスは、仲間達の方へと向き直りながら彼らに聞いていった。
「どうしましょうか。三日ほどでいいですか?」
「ふむ。そうだな、それくらいでいいだろうか」
「俺も構いませんよ」
「そうですわね。私も構いませんわ」
「私もそれで構いません」
「はい。では、三日の滞在をさせて頂きます。二人部屋と三人部屋をお願いします」
「畏まりました。それでは五名様が三日間ご滞在との事ですので、三万七千五百リルとなりますが、宜しいでしょうか?」
カーリンの計算が速いことに驚く一同だったが、イリスはまったく別のことで驚き、思わず彼女に聞き返してしまった。そしてイリスもまた彼女の言葉に即答で返していた事に、更に驚かされてしまうシルヴィア達とファルだった。
「ひとり一泊二千五百リルは、お安過ぎませんか?
それに部屋の大きさでお値段は変わらないのでしょうか」
「当店は、お客様にご満足いただける事に重きを置いており、またそれが何よりも嬉しく思わせていただいています。お部屋の大きさでお値段を決めさせていただいてもおりませんので、大部屋であっても金額が変わる事はございません。
別の機会にツィードへといらして頂いた時にも当店をまたご利用して頂けるようにと、料金の方も勉強させて頂いております。
もしご滞在予定よりも早くご出立される場合は差額をご返金させて頂きますので、私の方までどうぞお申し出ください」
一般的な宿では、こういった仕組みは行われていないのが主流だ。
支払ったものが戻ってくる事はなく、それが宿屋での常識と言われているほどに定着しているものだったが、どうやらこの宿は今まで泊まった宿とは全く違った仕組みをしているようだ。
お客様視点で考えられたその仕組みは、ツィード独自のものだろうかと考えていたイリスにファルが答えていくも、また表情に表れてしまったようで微妙な気持ちになってしまうイリスだった。今鏡を見たら、顔に文字で表示されているのではないだろうかと心配してしまいながらも、ファルの言葉を聞いていった。
「カーリンさんはとっても凄い人でね。先々代から続く寂れた宿をツィードで一流の宿にしたんだよ。噂ではこの街一番って言われるくらいだし、ツィード出身だから色々なお店にも詳しいんだ。何だっけ、何かの本で経営学? を学んだんだっけ?」
「はい。正確には"紳士淑女の為の宿屋における経営と実践"という大昔の書物であり、中には経営学だけではなく、宿屋学なる独自の学問が事細かに記されているもので、とても勉強させていただきました」
満面の笑みで答えるカーリンが言葉にした、何とも形容し難い名称の本に苦笑いが表情に出てしまうシルヴィア達だったが、イリスのみは知識欲を掻き立てられるのか表情を変えずに聞いているようだ。
好奇心から尋ねたイリスへ、その本について少しだけ答えてくれたカーリン。
何でも初心者から入る事ができる"入門編"から始まり、様々な知識が技術が事細かに書かれた書籍らしく、最終章である"達人編"まで合わせると、全十二冊にもなっているらしい。
当然この本には宿屋に必要な知識しか含まれていないのだが、礼儀や礼節に関わるものから掃除の仕方や料理の技術、文字の読み書きや計算に関する若手育成指導に必要となる知識や、経営について記したものに至るまで、とても幅広く書かれた本だそうだ。
イリスもフィルベルグ図書館で様々な本を読んではいたが、その殆どは冒険に役に立ちそうな本ばかりで、流石に経営学について書かれたものを読んだ事はなかった。
本に記される内容について興味を示していたロットは、考えながらも代金をカウンターにあるトレイに置いていくと、それに触れる事無く計算をしたカーリンは、お釣りをロットへと渡していった。
その仕草にイリスを思わせるロットは、彼女もこの本で学んだのだろうかと考えるも、彼女は父から教わった作法だと言葉にしたのを思い出し、店員とは物を売って客の応対をするだけでは務まらないのだと、"本職"の凄さを肌で感じた瞬間だった。
「それではお部屋にご案内させていただきます。ひとつ上の階になりますので、お足元にお気をつけ下さい。よろしければ、お荷物をお持ちさせていただきます」
まさか手荷物まで運んでくれるとは思っていなかったイリス達だったが、持っているのはイリスの腰にまわしている後々に問題となるだろう例のバッグひとつのみである。
とても軽いので大丈夫ですよと笑顔でやんわりと答えるイリスに、これまた満面の笑みで畏まりましたと言葉にするカーリンを見つめていたシルヴィア達は、イリスも宿屋を経営していたら、こんな感じになるのだろうかと考えているようだった。
それではこちらのどうぞと手のひらで示した先へとイリス達を案内する彼女に連れられて二階に上がり、部屋を三つほど進むと立ち止まって扉を開け、こちらを向き直って右手を部屋に向けながらカーリンは言葉にした。
「こちらが二人部屋となります。お湯はお申し出くだされば無料にてご用意させていただきます。洗顔用のボウルとタオルも大きめの物までご用意してありますので、ご希望の際はお申し付けください。お湯を沸かすのに少々お時間を頂きますので、お部屋へとお持ち致します。
こちらがこのお部屋の鍵となります。宿を出る際はお預かりさせていただきますが、貴重品等はお持ちいただけますようお願いいたします」
「うむ。感謝する」
「ありがとうございます」
二人はカーリンにそうお礼を言葉にして、部屋へと入っていった。
それでは三人部屋はこちらになりますと言葉にしながら、奥を右手で示した彼女に付いていくと、通路とは逆にある三つほど先の部屋で止まった彼女は、先程と同じように丁寧な対応をして鍵をイリスへと手渡してくれた後、ぽつりと言葉にした。
「……本当は三階を女性専用にしたいのですが、それほど女性のお客様がお見えにならないので、現状では他のお客様と同じ階となってしまっているのです。
申し訳ございませんが、ご理解のほどよろしくお願いします」
「お気遣いありがとうございます。私達は気にしませんので、どうぞお気になさらないでください」
イリスの言葉に、そう仰っていただけるととても嬉しく思いますと返したカーリンは、それでは何かお入用の際はカウンターまでお越しくださいとお辞儀をしながら告げ、持ち場へと戻っていった。
一旦部屋に入り、ファルへと尋ねるイリス。
「そういえば、ファルさんはこの階に泊まっているんですか?」
「あたしがいるのはこの上、三階になるよ。
カーリンさんは女性専用にしたいって言ってたけど、三階は長期滞在者用の部屋になってるんだよ。全部個室になってて凄く環境がいいんだ。
毎日しっかりお掃除もしてくれるし、お願いすれば朝も起こしてくれるらしいね。
しかも低価格でお料理も作って貰えるから、まさに至れり尽くせりだね。
いいところだよ、この宿は」
「本当にとても良い対応をされてしまいましたね。
一流の宿泊施設とは、このように扱ってくださるのでしょうか」
「流石にそれはないのではないかしら、ネヴィア。
カーリンさんが特殊なように思えましたわよ」
「流石にそうだろうね。カーリンさんは凄く特殊みたい。噂じゃエークリオで一流の宿を経営している人がこっそりと来ている、なんて話も聞いた事があるくらいだからね」
「そ、それは凄いですわね……。
ツィードでなければ、お客様が途切れる事がないのではないかしら」
「そうかもしれませんね。
五人も泊まれた事に嬉しさを感じてしまうほど、立派なお宿です。
それもとても格安のお値段ですし、正直王都でこの質の宿を経営すれば、一泊二万リルでもお客様は満足されるのではないでしょうか……」
フィルベルグで言うならば、王城に近い場所に高級な宿が一軒建っている。
そこはサービスも行き届いている上に、美味しい食事をしっかりと食べさせてくれる場所だとレスティから聞いた事があるイリスは、そこと比較できてしまうのではないだろうかと考えるも、結局フィルベルグの宿は一回も泊まることがなかったなぁと、すぐさま別の感慨に浸ってしまっていた。
機会があれば泊まってみたいと思う反面、やっぱりお家がいちばんだよねと結論を出したようだ。
そんなイリスはこれからの事を話すために、ヴァン達の元へと向かいましょうかと言葉にして、ファルを連れた四人は部屋を後にしていった。




