"最大で、最後の"
最初に見たのは、一面に広がる灰色の石。
薄ぼんやりと視界が悪い為、それをよく視認出来ない。
普段であれば絶対にこんな事はなく、はっきりと視界が開けているはずだ。
おまけに意識もしっかりと保てないで、ぼんやりとしていた。
おぼつかない記憶を呼び起こすと、確か昨日、ギルドで依頼を受けたような事があった気がする。……何だったか、何かの調査……だったような気がする。
それさえも、鮮明には思い出せない。
何故だろう……この匂いのせいかな。
何も考えられなくなって、気が遠くなっていくような、そんな匂いだ。
あたしの嫌いな匂い……。いや、こんなもの好きな奴なんていないと思うけど、それでもあたしは、昔からこの匂いが大嫌いだった。
嗅いだだけで意識を根こそぎ持っていかれるような、物凄くクサイ匂い。
……あぁ、帰ったらまたお風呂に入らなきゃ眠れないや……。
……帰ったら? ……どこに? ……ここ、どこだっけ? ……えっと、確か……。
「――丈夫ですか? 意識、保てますか?」
「――――ッ!?」
女性の視界は一気に鮮明となり、洞穴の天井を見上げているのに気が付いた。
がばっと物凄い勢いで上半身を起こした女性は、すぐ傍にいる二人の女性の姿を見つけ、感情のままに口を開こうとしてしまった。
慌てて自身の口を両手で塞ぎ、声を発する事を強制的に抑えた女性は、一度瞳を閉じながら深く深く呼吸をして、二人の女性達へと向き直り、静かに声をかけていった。
「……君達どうしたの? ……まさか、落っこちちゃったの?」
落ち着きを取り戻したようで安堵するイリスとシルヴィア。
大声を上げられる可能性を想定して、念の為周囲に音を遮断する魔法"防音空間"をかけておいたが、杞憂に終わったようで安心するイリス達だった。
自身で必死に声を抑えたという事は、現状把握を理解出来ている事に他ならない。
続く女性の言葉に、こんな状況下であっても冷静さを取り戻したと判断出来たイリス達は、彼女もまた熟練冒険者の一人である事が分かり安堵していた。
もしも経験の少ない冒険者だった場合は、それだけ危険度が増す事になるだろう。
そうなれば脱出経路の途中でしゃがみ込んだり、声を上げて魔物を呼び寄せたり、錯乱して急に走り出したりといった、予期せぬ行動を取られかねない。
それを不安に思っていたイリス達だったが、これで一つ問題が解消される事になる。
彼女の取った言動は極々少ないながらも、そういった存在ではないと体現していた。
後は彼女の協力を得た上で、上層を目指し、確実に上へと進み続ければいい。
そう思っていたイリスは、女性に自己紹介から入っていく。
魔法の効果でこの小さな空間から外に音が漏れる事は無いようになっているが、彼女に不安感を与えない為に、なるべく小さく声に出していった。
「はじめまして。私は冒険者のイリスと申します。こちらは私のチームのメンバーの一人であるシルヴィアさんです。私達は、洞穴上層から落ちたという貴女を探しにやって来ました」
その言葉に驚愕する女性は目を丸くするも表情を曇らせていき、次第に大粒の涙をぽろぽろと零していく。
こんな空間にたった独りでいたのだから、その不安や重圧、心細さは並大抵ではないはずだ。イリスはそう思っていたが、彼女が流している涙の理由は全く違っていた。
顔をくしゃくしゃにしながら女性は言葉にしていくが、声は引きつってしまい、中々に言葉を出すのが難しそうにしながらも、イリス達に懸命に話していった。
「……ひぐっ。……どうして、どうして来ちゃったの?
……ここ、はダンジョン、だよ? あた、しが落ちてからもう、数アワールは経って、いるはずだよ。相当深、く、落ちちゃった、んだ。
今頃、ギルドに向かった、仲間が応援を、呼んでる。……ダンジョン、の常識では、あたしはもう、……もう、いない事に、なって、るんだ。……三日と待たず、このダンジョンが、埋められ、ちゃうんだよ? ……どうして、来ちゃったんだ……」
大きな声を上げる事も泣く事も出来ない、そんな感情を抑え込まねばならない状況下でも、彼女はイリス達の事を申し訳なく思っていた。
自分の為に救出に向かってくれた人達を、自分のせいでその命を失わせてしまう。
立場が逆なら、イリスやシルヴィアでも同じ様に悔やむ事が痛いほど良く分かった。
そんな彼女を優しく抱きしめるイリスとシルヴィアは、彼女を安心させるように、出来る限り穏やかな声で言葉にしていった。
「大丈夫です。私達はそれをしっかりと理解した上で、それでも貴女を探しに来たんです。だから一緒に外へ帰りましょう。私達が必ず貴女をホルストさん達に逢わせます。
約束します。だから落ち着いて、私達と一緒に帰りましょう?」
「私も覚悟の上でこちらに参りました。
ですが失敗など一切考えていませんの。必ず外へ帰るという決意でここにいます。
だからどうかご安心下さい。一緒に外に出て、太陽の光をいっぱい浴びましょう。
大丈夫ですわ。必ず帰る事が出来ると、私もイリスさんも信じていますから」
「…………うん。うんっ。ありがとうっ」
瞳を閉じてぼろぼろと溢れて来る涙を流し続ける女性は、温かなぬくもりに包まれながら、心を落ち着かせていった。
暫しの、本当に短い時間の中で落ち着かせた女性は、彼女達の顔を見ながら自己紹介を始めていく。
「……ありがとう。あたしはファル。ファル・フィッセルです。猫人種の斥候で、ゴールドランク冒険者です」
自分の事を話すファルの瞳は先ほどと打って変わって、輝きを取り戻した色をしていた。絶望から希望に変わったかのようにも見えるその色はとても美しく、イリス達にとっても希望の光に見えた。
彼女の怪我の具合を尋ねるも、足を軽く捻っただけで既に完治はしているという。
これは猫人種の特性らしく、こういった状況では非常に助かるのだと言葉にした。
これについて詳しくない二人に、ファルは自身の出来る事を話していくも、こんな状況下では役に立つのは難しいと、申し訳なさそうに答えていく。
だが猫人種の特性を聞いてみると、色々疑問に思っていた事が解明出来たイリス達だった。
曰く、骨の成長や骨折を含む怪我の自然治癒力の促進が、そこまで強くはないものの、多種族よりは遥かに高いらしく、これにより軽い捻挫程度では、そうかからない時間で回復出来てしまうそうだ。
更には自らの背丈の三倍までジャンプが出来たり、常に自身の足で着地が出来る平衡感覚を持っていたりと、あの穴の高さから落下しても無事である事が伺える能力を備えていたそうだ。
「後は、深い睡眠状態でも危険を察知して、即座に覚醒から行動に移す事が出来るけど、この匂いの中では意識が定まらなかったし、アイコンタクトが取り合えるっていう一見すると便利そうな能力も、同じ猫人種同士じゃないと無理だし、こういった状況下で使えるのは、夜目がかなり利く事と、足の速さと静かに歩く事くらいかも。……あまり役に立てそうもないね、ごめんなさい」
「そんな事ありませんよ。とても凄い特技だと思います」
「そうですわね。正直羨ましく思える能力ですわ」
「匂いで思い出したんだけど、どうして匂いが収まってるの? 煙は出てるみたいだし、効果は続いているはずなんだけど……」
首を傾げるファルに、イリスは出来る限りの情報を開示していく。
真の言の葉の事を、自身にしか使えない魔法だと強調した上でファルに説明し、今後の取るべき作戦についても事細かに話していった。
流石にレティシアの事や充填法の事などは伏せたが、ファルはこれから上層を目指す為に行動を共にする仲間となる。
そんな彼女に情報を明かさねば、それだけ危険も増す事になるだろう。
強大な力である真の言の葉を道中で見ただけで、戸惑い、取り乱される可能性が非常に高いと思われる為、それなりに説明せねば危険だとイリスは判断した。
続けて強大な力という事の裏付けとなる魔法、構造解析をファルに使うと、目を丸くして驚かれてしまった。
彼女であれば大丈夫であろうと思っていたイリスだったが、実際のところ、こういった情報を開示する事の危険性を伴う可能性がある為、シルヴィアは内心では心配するも、どうやらイリスの判断は間違っていなかったようで、彼女の説明にファルは静かに言葉にしていった。
「――という事ですので、この力は出来るだけ黙っていて頂きたいんです。勝手な事を言いますが、この力は――」
「――うん。分かるよ。これだけの力となれば、世界にとんでもない影響を出しかねない。それを危惧しているんでしょ?
大丈夫だよ。あたしは何も知らないし、何も見ていない。二人の冒険者に助けて貰っただけ。……いや、これじゃ弱いね。
……あたしは崩落に巻き込まれ、十メートラほど下に落ちて気絶していた。
そこへ二人が助けに来て、近くにあった横道から洞穴を進み地上へと戻った後、ダンジョンと思われた穴を塞いだ。ただそれだけだよ」
ギルドに嘘を吐く事になってしまう報告は、ファルの立場を悪くするのではと思ったイリス達だったが、そんな様子を見せるイリスへと微笑みながら言葉を返していった。
「あたしは嘘を吐いていないよ。ただ報告する部分がちょっと足りないだけ。
十メートラと思ってた穴は、実は相当に深かったけど、気絶してて分からなかった。気絶していたのはほんとの事だよ。ほんの少しの間だけ意識が飛んだだけだったけど。
横穴を通り、入り口を目指したのもほんとでしょ? ダンジョンと思われる場所を塞ぐのは義務だし、このダンジョンが実は"コルネリウス大迷宮"でしたって報告は、確証なんて普通は取れないんだから、しなくても問題ないでしょ」
くすくすと小さく笑いだす彼女に、本当にそれでいいのだろうかと考えてしまうイリスとシルヴィア。
そんな彼女達に、それにねとファルは真面目な顔で話を続けていった。
「諦め切っていたあたしを、二人は救ってくれたんだ。
あたしは貴女達に付いていく。たとえどうなったとしても後悔なんて絶対にしない。
……ううん、違うね。……きっとこれは、最大で、最後のチャンスなんだ。
この好機を逃したら、絶対に外には戻れない。
二人が来てくれなければ、あたしは絶対に助からなかった。
なら、あたしは、貴女達に付いていく。
どれだけ危険な場所かもしっかりと理解した上で、それでも自らの命を懸けて助けに来てくれた貴女達の都合が悪くなる事をするなんて、絶対に出来ない。
世界中にいる全ての猫人種の誇りと、偉大なる先人達の名に誓って」
ファルは瞳を閉じて、握り込んだ左手を心臓に当てながら、少々頭を下げていく。
フィルベルグで使われている最敬礼に似ているが、これは猫人種に大昔から伝わる"誓いの証"として使われる作法なのだそうだ。
もしこの"誓い"を示しそれを裏切ってしまった場合は、生涯どころか、その命が尽きても尚魂が苦しめられ、女神アルウェナの下に逝けないと言われているそうだ。
何もそこまでと言葉にする二人に、ファルはそうじゃないんだよと話していった。
「これはね、あたし達猫人種が、誓いと決意を示す為に使われる作法なんだよ。
猫人種は楽しい事や賑やかな事が大好きだし、調子に乗り易い子も多いんだ。
そんな姿から、自分勝手だとか気まぐれだとか軽薄だとか、あまりいいように思われない事も多いけど、実際には真面目な者が多く、とても義理堅い種族なんだよ。
そしてこれを示す事で、何よりもあたし自身への覚悟になるんだ。
あたしはイリスとシルヴィアに付いて行くと決めた。
二人はあたしを救ってくれるだけの存在じゃなく、誓いを立てるのに十分な、とても大切な存在になっているんだ。
なら、あたしも自分の命くらい二人に預けるのなんて、どうって事ないんだよ」
とても真剣に言葉にした彼女の透き通る薄い勿忘草のような青い瞳は、まるで宝石のように美しく、優しく静かに、そしてとても力強く輝いていた。




