その大切な"はじまり"を
きょとんとするイリスは、リクハルドから漏れた言葉を考えるも、いまいち見当が付かず、悩むように考え込んでいた。
どうやら彼女には哲学的な意味に聞こえてしまったようで、様々な事を考え続けるも、言葉に出来るような答えを見出す事は出来なかった。
暫く時間が空き、思考がようやく正常に戻りつつあったリクハルドは、イリスについての推察をしていった。
「……なるほど。お前があの、フィルベルグの"聖女"か」
ナイフのような鋭いものが胸に突き刺さり、はうっと若干仰け反ってしまうイリス。
まさかこんな遠くにまでその名が轟いているとは、流石に思っていなかった彼女は、不意な攻撃に対処が出来なかった。
だがイリスが立ち直る前に、次々と追撃がイリスに降り注でいった。
「そうか。あんたがあの聖女様か。どうりで"愛"を訴えるはずだよ」
「なるほど。私も彼女であれば"聖女"と言われても納得してしまいますね」
「そうなんですね。だから貴女は子供達の為に……。本当に"愛の聖女"がいただなんて。僕はてっきり噂だけで、実在なんてしないものだと思っていました」
「あたしも驚いたけれど、確かめてはなかったのよね。でもどうやら本当みたいね」
「……あ、あの、私は聖女だと名乗っている訳ではありませんし、聖女だとも思っていませんので、出来ればそういった呼び名は止めて頂けると嬉しいのですが……」
鋭い連撃に畳み掛けられてしまい、苦笑いをしながら答えるイリスだったが、顔面は真っ青で口角はひくつかせていた。彼女にとっては相当に凄まじい威力を帯びた攻撃だったようで、立ち直るのに少々時間を要すると思われたイリスだった。
正直な所、これだけフィルベルグから離れたら、もうその名で呼ばれる事はないと高を括っていた彼女は、思わぬ大打撃を受けてしまう結果となった。
話の本筋を戻す様に言葉にするイリスだったが、声は完全に引き攣っていた。
「と、とにかくですね、資金については私が何とか出来ますので、皆さんにはそれとは違う事でお手伝いをして頂ければと思っています」
「……まぁいいだろう。聞きたい事も無くはないが、本題に戻ろう。
資金に問題が無くなったと仮定して話を続ける。それにより、多くの問題が解決する事になるな。資材や玩具、農具に関しては、我が職人区で用意出来る。
同様に、様々な物資に関しては概ね解決したと言っていいだろう。
畑と薬草に関しては、お前に任せられるな。何かあれば後日報告しろ。
子供達が製作した薬の販売経路や、教育に必要な人材に関しても商業区に任せるとしても、もうひとつ大きな問題が残っているぞ」
「コミュニティーの壁、ですね」
「……それもタニヤから聞いていたか」
エルマのコミュニティーはそれぞれが、完全に独立した組織として存在している。
これによそのコミュニティーは口を出せないという、暗黙の規則の様なものがある。
それぞれがそれぞれの立場で生きている組織の為に、別のコミュニティーとは全く違う価値観を持ってしまい、これを越える発言をする事を、各組織は認めていない者も多い。
明確な規約こそ存在しないが、それは争いの火種になりかねないとタニヤは語っていた。今の体制ではこれを越えての発言は、とても難しくなっている事であり、それが資金に次ぐ、孤児院を救えなかった理由でもあった。
この暗黙の了解は、彼らが評議会に在籍するずっと以前から存在するものらしく、定着してしまっているこれを変えるのは難しいとリクハルドも答えた。
問題は孤児院の場所にもある。
あの場所は一応は飲食街の六区となってはいるが、正確には飲食街が孤児院の管理をしていない。
住宅区でも中央区でもギルドですらなく、ましてや職人区でもない。
完全にどこにも属さない、エルマの法をすり抜けている場所となっていた。
何故そんな場所に孤児院が置かれているのか疑問に思うが、恐らくはコミュニティーの壁にも関わるのかもしれないとイリスは考える。それこそ、どこかの組織が管理していれば、諍いを起こしかねない事態へとなってしまうのかもしれない。
孤児院の子供達同士ではなく、大人達がだ。
「……その顔は何か策があるって顔だな」
そう言葉にするリクハルドだったが、当のイリスはそれを答えるべきではない事だと理解していた。
流石にそれを口にする事は差し出がましい行為となる。
エルマの体制を否定すると思われてしまうかもしれないほどに。
言い渋るイリスに、構わんから答えてみろとリクハルドから言われてしまい、戸惑いながらもおずおずと言葉にするイリスだった。
「……差し出がましい事と承知の上で申させて頂きますが、新たにコミュニティーを設立しては如何でしょうか」
その言葉に沈黙が続いてしまい、怒られるのを承知で彼らの答えを待っていたイリスだったが、どうやらそうはならなかったらしく、一同は何やら考えている様子だった。
当然、タニヤには一応伝えてはあるが、こればかりはエルマに介入し過ぎていると解釈していたイリスにとっては、出来れば口に出したくはなかった事だった。
暫く考えていた評議員達だったが、各々言葉にしていった。
「……確かに新たなコミュニティーを作れば問題は解決するが……」
「その場合、色々と騒ぐ奴が出て来ないかね」
「ですが、唯一の突破口にも思えますが」
「僕もそう思いますが、やはり難しいのではないでしょうか」
エルマは五つのコミュニティーが存在し、互いが互いに干渉し過ぎずに均衡を保っていた。それを新たに作るとなると、様々な問題が出て来ないとも限らない。
それは縄張りといったものではないにしても、干渉して欲しくない場所に踏み込みかねないのではと思ってしまう一同は、黙ってしまってた。
「……評議員も五人という奇数だから良しと言えなくもない。それについてお前はどう思っているんだ?」
「奇数という点につきましては、然程重要ではないと思われます。
仮に六人の評議員で採決を採った場合で意見が分かれたとしても、肯定側と否定側に分かれて議論を交わし、採決をし直せばいい事だと私は考えます。
もしそれでも意見が分かれて答えが出ない状況になってしまった場合は、互いに譲れないとても重要な事だと思われますので、そこまで重い選択を評議会が決めるのではなく、エルマの住民に投票して貰うというのもありではないでしょうか?」
「……エークリオの判断法か。新たにコミュニティーを設立するに当たって、騒ぐ奴がいると思われる場合の対処法は?」
こんな事までイリスになど聞く事ではない内容まで聞いてしまっているリクハルドに驚き、目を丸くしてしまうイリスだった。
本来であれば彼女のようなよそ者になど、これほど重要な話を聞いたりはしないだろう。先程から話している内容は、エルマの根幹に関わるとも言える重要なものでもある。この小さな街にとってコミュニティーとは、例えるなら小さな国とも言い換えられるかもしれない。
驚きを禁じ得ないイリスは戸惑うが、彼らには最早そんな事など、正直どうでもいいと思っていた。
必要なことはエルマと、子供達の将来を真剣に話し合う事であり、そこに利権や派閥など持ち込んではいけないものだ。
ましてや他のコミュニティーがどうのと言葉にするのは下の者だけであり、ここに居る彼らだけではなく、コミュニティーで上の立場にいる者達は、そのような考えなど端から持ってはいない。
だが、下の者がとても多いのはどのコミュニティーでも同じことだ。
それが例え、孤児院にいる子供達の為だとは分かってはいても、その件に関しての苦情や諍いはある程度出てしまうだろう。
それでも出来る限りは穏便に事を済ませたいと彼らは思っていた。
本当に言葉にしてもいいのだろうかとおろおろしてしまうイリスだったが、もうそれを考えなくていいから思っている事を言えと、はっきりとした口調でリクハルドに言われてしまった。
暫しの時間心を落ち着かせたイリスは、自身の考えを伝えていった。
「新たにコミュニティーをゼロから作るのであれば問題も起きるでしょうが、各コミュニティーの上位にいる方に同人数所属して頂いて設立すればどうでしょうか」
「……それは、考えていなかったな……」
「なるほど。そういった考えを持っていない者、しかも上位にいる者が参画すれば、問題も小さくなるかもしれないと私は思えますね」
「確かにそれであれば、大きな揉め事は無くなるのではないでしょうか」
「各コミュニティーから同人数を所属しての新組織設立か……。本当にお嬢ちゃんは面白い子だねぇ」
「凄いわイリスさん! それならばきっと上手くいくんじゃないかしら!?」
そして彼らは新たなコミュニティーの方針を決めていく。
時間も忘れ、ひたすらエルマの未来について話し合っていく彼らはとても真剣で、そして何よりも議論を交わせることに嬉しさを感じていた。
それはまるで活路を見出したようにも見えたが、実際に最大の問題は解決の糸口をつかんだと言えるだろう。あとは本当の意味でのエルマの問題となる。
これから先をどうするかは、エルマの人達次第で変わっていく事になると、イリス以外の者は考えていた。
孤児院の子供達を護る事を目的として始められた議論は、何時しかその目的をエルマ全体へと向け、孤児院だけの話ではなくなり、エルマで苦しんでいる者達を見据えるものとなっていった。
それは孤児を救うだけでなく、両親が仕事で離れて子供達だけ残されている子達の面倒や、老人や妊婦、怪我をした者や困っている者に至るまで、あらゆる人たちへ手を差し伸べる組織になりつつあった。
収益金を手にするまではエルマで出資し、ある程度軌道に乗ったら極々少量の税金を納めて貰う。納めた税金は全額、新設コミュニティーの積立金とし、何かあった時の為の資金とする事が決められた。
ここに各コミュニティーから納めた税金の微量を新設組織に入れ、様々な事に使えるように考えられていった。
当初の予定だった自然回復薬を販売する経路は、商業区で売り出すことに決まったが、その売り上げ金は全額、新たなコミュニティーへと渡される事となり、コミュニティーに参画する者は全て、無償による奉仕活動とする事が決められた。
流石に無償では集まらないのではと心配してしまう声が評議員から上がるが、エルマの住民はそれほど薄情ではないとリクハルドは断言する。
「誰もが何とかしたい気持ちを持っていると俺は信じている。各々が持っている仕事の合間で構わん。それでも必ず手を差し伸べてくれる者はいる。イリスのようにな」
そう彼は透き通るような瞳で、一人の女性を見据えながら言葉にし、それを聞いたイリスは、とても嬉しそうに微笑んでいた。
だがもうひとつ決めることがあるな。
そうリクハルドは言葉にすると、続けてそれについて一同に問い始めていく。
「コミュニティーの名前だが、まぁこれはイリスに頼むとするか」
「ええ!? わ、私ですか!?」
驚きの余り声を張り上げてしまうイリスだったが、何を今更といった表情と口調で彼は言葉を続けていった。
「お前が言い出し、我々に火を点けたのだから、コミュニティーの名前を付けるくらいの責任は取れ」
「ふふっ、そうね。イリスさんはエルマに、大きな明かりを灯してくれたわ」
「そうですね。私も貴女に逢えて、変わる事が出来ました」
「僕としては是非にとお願いしたいですね」
「えぇぇ……」
「あっはっは! お嬢ちゃん、諦めな! こいつらは頑固なんだよ。あたしを含めてな!」
「で、でもでも! 他のコミュニティーさんのお名前も決まっていないんじゃ?」
本当にそんな大切なことを決めていいのだろうかと思ってしまうイリスだったが、それは完全に間違いだ。もうイリスは、もうひとりの評議員と言えるだけの資格を持ってしまっている。
思想も思考も行動力も。そして何よりも、エルマを心から変えたいという気持ちも。
この広くも小さい部屋で議論を交わすのに、十分過ぎる程の資格を持っていた。
そんなイリスへ向けられるたくさんの優しい眼差し。
そして一人の女性がイリスへと言葉にしていく。
思えばその女性は、エルマで初めて意識を変えて貰えたひとりだった。
「確かに決まってないわね。でもそれでいいのよ。このコミュニティー設立から、新たにエルマは生まれ変わるわ。だから名前を決めるの。
ここが始まりとなり、終わらない幸せを続けていく為に。
その大切な"はじまり"を、貴女に決めて欲しいの。エルマの住民ではない貴女に。
大切なことを伝え、あたしたちの意識を変え、エルマを暖かな光で照らし、救いの手を差し伸べてくれた、心優しき貴女に」
イリスは瞳を閉じ、その嬉しくも温かな言葉の余韻に浸る。
これは彼女が成した事ではない。エルマを大切に想う人達が成した事だ。
この街は本当に素晴らしい。
こんなにも真剣に街を想う人達が上に立っているのだから。
いずれは誰もが手を差し伸べてくれる、素敵な街へと変わっていくかもしれない。
何年かかるかは分からない。それでもきっと、そうなってくれると信じられる。
この方達がいれば、エルマは大丈夫だ。こんなにも優しい人達がいるのだから。
イリスは瞳を開け、ゆっくりと口を開きながら言葉を象っていく。
その小さくも美しい声は部屋全体に優しく響き、それを聞いた者達は温かな気持ちになりながら感慨にふけっていった。
この日、新たなコミュニティー、"エルマの庭"が設立された。




