前編
あの夜から十日。
社交界はアバック伯爵家の夜会での出来事に未だに沸いていた。
アバック伯爵夫妻だけでなく、その場に居合わせた人たちは、見逃した人たちに詳しい話を求められ、あちらこちらからお茶会だの夜会だのに招待されているらしい。
その中で最も注目を集めているのは、当然のごとくオリヴィアなのだが、あれからアジャーニ子爵令嬢とリンドン卿の婚約披露パーティーに出席しただけなので、また好き勝手な噂が流れ始めていた。
その一番の原因はオリヴィアの母である子爵夫人だろう。
オリヴィアがしばらくは社交を休みたいと言うと、夫人は快く承諾してくれた。
どうやら、時の人であるオリヴィアが姿を見せなければ、それだけオリヴィアの存在価値は上がるのだと。
まだそんなことにこだわっているのかと、オリヴィアは呆れたが、もう諦めている。
それでいて、夫人は精力的に様々な催しに出席しては、自分の娘がいかに未来の侯爵の心を掴んだのかを話して回っているのだ。
オリヴィアは温室で植物の鉢を置きながら、ため息を吐いた。
周囲が騒げば騒ぐほど、現実とは思えなくなっていく。
とはいえ、デュリオはとても優しい。
あれから忙しい中、毎日のように会いに来てくれ、ローラの婚約披露パーティーでも当然エスコートをしてくれた。
しかし、パーティーでは未来のアンドール侯爵夫妻に少しでも近づこうと大勢の人が押し寄せ、ローラたち主役はそっちのけになってしまったのだ。
それなのに、ローラもリンドン卿も気にしていないと笑い、さらには二人が来てくれたことで招待していない人にまで婚約が知れ渡ったので助かったわと言ってくれたのだが、オリヴィアはやはり申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
それに、正直に言えば怖気づいてもいる。
あの夢のような一夜が過ぎ、目が覚めたオリヴィアは不安になっていた。
本当に自分がアンドール侯爵夫人としてやっていけるのだろうか、デュリオの隣に立って支えることができるのだろうかと。
今までずっと、憐れに思われることなく婚約破棄されるよう、立派な淑女を目指して努力してきたので、上辺は取り繕うことができるようになった。
それでもいつか大失態をしてしまうのではないかと思うと怖い。
(自信がほしい。私にはできるという自信が……)
毎日デュリオが忙しくしているのは、あらゆる方面へ帰国の挨拶に回っているためだった。
どうやらデュリオはこのまま王宮に上がって仕事をするらしい。
そう聞いた時、オリヴィアは訳のわからない焦燥に駆られた。
このままデュリオと結婚して、義母の侯爵夫人に色々なことを教えてもらいながら、子供を育てるのは魅力的である。
子供のことを考えると、恥ずかしくも嬉しい。
だが、自分は本当にこのままでいいのだろうかと、なぜか心の中がもやもやとしてしまう。
そのため、こうして植物と触れ合い気持ちを落ち着けていた。
実は昨日、兄のお忍び用の馬車を借りて、以前手紙を出した救女院を訪ねたのだ。
もちろんシルー夫人と庭師頭のアントン、もう一人の庭師を同伴して。
あの夜の次の日、オリヴィアは救女院宛てに、状況を説明して手間を取らせてしまったことを謝罪した手紙と、今のところ自由にできるお金を寄付したのだが、そのお礼にと新種の花が贈られてきたのだ。
それを見たアントンは興奮し、オリヴィアもまた興味を持ち、農園を見せてもらえないかとお願いしたのだった。
だが、デュリオには知らせていない。もちろん両親にも。
上流階級の女性たちの中には、救女院を身持ちの悪い女性が集まる場所と、毛嫌いしている人が多い。
オリヴィアの母である子爵夫人もその一人であり、訪問どころか手紙でやり取りしていることを知れば卒倒してしまうだろう。
デュリオもまた、あの馬車の中で打ち明けた時にはかなり驚いていたので、おそらく救女院とこれ以上関わることは望まないはずだ。
それが、もやもやの原因の一つなのかもしれない。
実際に訪れた救女院は想像とは全然違った。
救女院に入ったばかりの女性はやはり悲壮感が漂っていたが、ほとんどの女性がいきいきと働いていたのだ。
夫の暴力から逃れてきた女性や、勤め先で無理強いされたために身籠ってしまった女性など、様々な問題を抱えている女性たちばかりだったが、この先の人生を前向きに考え努力していた。
針を持つのが得意な者はお針子に、教養がある者は家庭教師などに、それぞれ適正の職業を紹介してくれるのだが、ひとまずは院で心の傷を癒すらしい。
それに農作業や植物の手入れなどが役に立っているというのだ。
もちろん産前産後の女性は無理をさせられないが、そういう女性たちは料理などを担当し、できる限り自給自足で過ごしている。
「――あなたたちは、本当に素晴らしい存在ね」
温室の植物たちに声をかけると、『もちろん!』や『それほどでも』など、様々な声が聞こえた気がした。
その中で、くすくす笑う男性の声が聞こえる。
「デュリオ様!?」
いつの間にか温室に入ってきていたらしいデュリオに、今の言葉を聞かれてしまったようだ。
恥ずかしくて赤くなったオリヴィアに近づいたデュリオは、挨拶代わりに唇に軽くキスをした。
するとオリヴィアの顔がますます赤くなる。
「あ、あの、申し訳ありません。すっかり時間を忘れてしまって、お迎えもせずに――」
「いや、今日は私が約束よりも早く来ただけだから、気にしないでいいよ。シルー夫人からオリヴィアはここだって聞いてね、迎えに来たんだ」
そう言うと、デュリオはオリヴィアを抱き寄せる。
「少しくらい、戻るのが遅くなっても、シルー夫人は見逃してくれるかな?」
「で、ですが……」
「冗談だから、そんなに不安そうな顔をしないで」
オリヴィアが戸惑っていると、笑いながらデュリオはすぐに離れてくれた。
そして程よい距離から軽く頬にキスをする。
「今はこれくらいで我慢しないとね」
デュリオは悪戯っぽく言って、未だに顔の赤いオリヴィアの手を自分の腕に添えさせた。
そのまま温室の出口へ向かいながら話し始める。
「実は今日、オリヴィアに紹介したい人を連れて来たんだ」
「紹介したい人、ですか?」
「うん。今はシルー夫人がお相手をしてくれている。子爵夫人はたぶんいい顔をしないだろうから、お留守の時にしたくてね」
「まあ……」
オリヴィアは驚いて、間抜けな返事しかできなかった。
確かに母はある伯爵家のお茶会に招待されており、意気揚々と出かけていった後だ。
デュリオのすること言うことなら何でも賛成するだろう母がいい顔をしないというのは、余程の人物なのだろう。
オリヴィアはなんだか楽しくなって、くすくす笑った。
そんな彼女を見て、デュリオが優しく微笑む。
「よかった。あれからオリヴィアはどんどん元気をなくしてしまっていたようで、心配していたんだ」
「デュリオ様……」
「だから今から会う人物と話をすれば喜ぶんじゃないかと思ってね。もしくは逆に怒るかもしれない。その時はどうか許してほしいな」
デュリオと一緒に過ごすのはとても楽しく、いつも笑っていられた。
だが、デュリオはちゃんとオリヴィアの不安を感じ取ってくれていたのだ。
それだけでどれだけ嬉しいか。――とは思ったが、その後の言葉が意味深すぎて感動も長くは続かなかった。
「いったい、どのような方なのですか?」
「それは会ってからのお楽しみだよ」
問いかけてもデュリオは教えてくれなかったが、応接間まではそれほど時間もかからずに到着した。
デュリオがノックをして応答を待ち、ドアを開けてくれる。
期待に胸を膨らませてオリヴィアが室内に入ると、見たことのない老齢の紳士がゆっくりと立ち上がった。
「オリヴィア、こちらはサイモン・ジステモ教授。教授、こちらは私の婚約者のオリヴィア・カルヴェス嬢です」
オリヴィアはかなり驚いていた。
まさか、著名な教授にこうして会えるとは思ってもいなかったのだ。
それでも長年鍛えたマナーを総動員して、挨拶をする。
「はじめまして、ジステモ教授。オリヴィア・カルヴェスと申します。教授の著者は全て拝読し、かなりの参考にさせていただいておりますので、まさかご本人にお会いできるなんて、とても光栄に思います」
「はじめまして、オリヴィアさん。私もあなたにお会いできてとても嬉しいですよ。あなたのことは毎日毎日デュリオ君から聞かされていましたからね」
「やめてください、教授。毎日だなんて私は――」
「毎日でしたよ。ですが、こうしてお会いしてみれば、なるほど。納得ですね」
教授というと、もっとお堅い人物なのかと思っていたが、ジステモ教授は明るく親しみやすい人のようだ。
何冊もの著書を全て読んでいたオリヴィアは、それこそ「なるほど」と納得していた。
文章は人柄を表す。
たくさんの経験談が含まれている教授の著書は、学術書としてだけでなく、伝記のようでもあり、冒険小説のようでもあった。
そんな教授とデュリオはかなり親しそうだ。
「失礼ですが、お二人はどちらでお知り合いになったのですか?」
お茶が運ばれ落ち着いたところで、オリヴィアは不躾に質問してしまった。
今のところ発行されている教授の著書からは、このケインスタイン王国へ訪れたことはないように思える。
ということは、やはりデュリオの遊学中に出会ったのだろうかと気になって我慢できなかったのだ。
すると、二人ともオリヴィアの不作法は気にした様子もなく、教授が答えてくれた。
「ふた月ほど前にメイアウト王国で出会ったんですよ。何でもデュリオ君は私の熱烈なファンらしく、各国を転々とする私を追ってきていたそうです。そしてついにはメイアウト王国のとある街で、私が下山するまでずっと待ち伏せをされて、捕まってしまったのです」
「人聞きの悪いことを言わないでください。私は諸外国を周るついでに教授にお会いしたかっただけです。少しお話させていただければ失礼するつもりだったのに、それをあれやこれやとこき使われて、いつの間にか私は教授の助手として認識されるようになったのですからね」
「こき使うとは、それこそ人聞きの悪い。君がオリヴィアさんから手紙が届かないとぐじぐじ落ち込んでいるから、気を紛らわせようとしたんじゃありませんか。君、便利だし」
「最後、本音が出ましたよね? 便利って」
「いや、だって、デュリオ君は炎魔法も水魔法も自在に操れるから、ちょっと火加減の難しい実験の時とか重宝しますし、光魔法まで扱えるんですから、暗い時にはホント便利で。これ以上ない助手でしたよ」
「ですから、助手ではありません!」
教授の言葉から始まった二人の応酬を、オリヴィアもシルー夫人も呆気に取られて見ていた。
いつもの紳士然としたデュリオとまったく違う。
その姿がおかしくて、オリヴィアは堪えきれず笑いだしてしまった。
途端にデュリオがはっとして口を噤む。
「まあ、要するに、先ほども申しました通り、私は毎日毎日デュリオ君からオリヴィアさんの惚気を――いえ、自慢話を聞かされておりましてね。オリヴィアさんは植物について独自に学ばれ、研究をされていらっしゃるとか。あなたの『水魔法における浄化作用と毒性植物の無毒化』などは実に興味深い。デュリオ君から概要しか聞けなかったのが非常に残念で、もっと詳しく話を聞けないかと、こうして無礼を承知で押しかけたのですよ」
「ごめんね、オリヴィア。勝手に話したりして。でも、あまりに素晴らしい内容だったから、つい自慢してしまったんだ」
「い、いえ……。こうして教授に興味を持っていただけるなんて、嬉しいです。ありがとうございます、デュリオ様」
「よかった。余計なことをと嫌われたらどうしようかと思っていたんだ」
教授の言葉に驚くオリヴィアに、デュリオは気まずそうに謝罪した。
温室でデュリオが心配していたのはこのことなのだ。
オリヴィアは憧れの教授から研究内容に興味を持ってもらえるなど考えてもおらず、頭の中がふわふわしながらもお礼を言った。
すると、デュリオはほっとしたように笑う。
教授が口にした研究については、温室で育てていた鉢植えの中に、図鑑に載っていた毒性植物がたまたま生えていたことで気付いたことだった。
その植物は図鑑に記載されているような毒性が感じられなかったのだ。
他の植物たちと仲良く共存している姿を見て、オリヴィアは詳しく調べることにした。
そして毒性植物のうちの何割かが、水魔法で浄化した水や洗浄した土で育てることによって無毒化されることがわかったのだった。
もちろんただの女学院生徒であったオリヴィアには発表の場などなく、ただその発見が嬉しくて、デュリオ宛ての手紙に書いたのだが、冷静になってからは婚約者宛ての手紙に書く内容ではなかったと後悔もした。
だがデュリオは、オリヴィアの父のように女性に学問は必要ないという考えの男性とは違い、オリヴィアが学ぶことを応援してくれている。
こんな素敵な機会をくれたことに感謝しながら、オリヴィアはデュリオと教授と植物について色々な話をした。
どれだけ話しても話題は尽きず、シルー夫人などはこっそりあくびをしている。
その時、デュリオが何かを思い出したらしく声を上げた。
「そうだ、オリヴィア。お願いがあるんだ」
「何でしょう?」
突然の言葉にオリヴィアが首を傾げると、デュリオがちらりと教授を見てから続けた。
「実はね、教授がこの国へ来たのは私がお願いしたからでもあるんだ。オリヴィアが以前言っていた……救女院なんだけど、あそこで農作物などの品種改良が行われているのは知っているかな?」
「――はい、私もとても興味がありまして……」
オリヴィアはデュリオの質問に頷いたものの、昨日訪れたばかりだとは言えなかった。
デュリオがいったい何を言い出すのかとドキドキしながら待つ。
シルー夫人も眠気が覚めたようだ。
「うん、オリヴィアならそうだと思った。それでだね、教授に一度あの農園を見てもらいたくて招待したんだ。だけど、あそこは男性は敬遠されがちだろう? それでできればオリヴィアに同行してもらえればと思ってね。お願いできないかな?」
「それはもちろんかまいませんが……。あの、デュリオ様はどうして救女院に関心を持たれているのですか?」
慈善活動に熱心な上流社会の女性たちにでさえ敬遠している救女院は、特に男性が関わる類のものではない施設なのに、デュリオが品種改良のことまで知っているのは意外だった。
そんなオリヴィアの質問に、デュリオは悪戯っぽく笑って答える。
「あそこはあまり知られてはいないけど、創設者は王妃陛下と先代アンドール侯爵夫人――私の祖母なんだ。だから、今でも侯爵家は多額の寄付をしているし、母も慈善活動の一環として、よく手伝いに行っているよ」
「そうなんですか!?」
「うん。だから、オリヴィアが私と婚約を破棄して、あそこに行くって言った時には……何て言えばいいのかわからなかったよ」
「あ、あれは……」
オリヴィアは今、何を言えばいいのかわからなかった。
デュリオと婚約を破棄して、アンドール侯爵家が支援する施設に受け入れてもらうつもりだったのだから。
真っ赤になったオリヴィアに、シルー夫人は笑いを堪えていたが、ジステモ教授が咳払いをして口を開く。
「私にはいったい何の話かはわかりませんが、とにかくオリヴィアさんが院へ同行してくれるということで纏めていいですかね?」
「あ、はい。すみません、教授」
「はい、大丈夫です。話を逸らしてしまって申し訳ございませんでした」
「いや、お二人とも謝る必要はありませんよ。むしろ実に面白そうな話なので、あとでじっくり聞かせてください」
「嫌です」
教授の言葉をデュリオはきっぱり断り、日時はどうするかと話し合った。
残念ながら当分は予定が詰まっているデュリオの同行は諦め、それなら善は急げということで、明日の午後に決まる。
「それでは、明日は侯爵家の馬車を迎えに寄こすから、そのつもりで待っていてくれるかな?」
「はい、わかりました。よろしくお願いいたします」
「うん。それでは私もまた近いうちに会いに来るよ」
名残は惜しいが、オリヴィアはデュリオと教授を玄関まで出て見送った。
その後、デュリオに救女院に訪問したことを打ち明け損なったことに気付き、ちょっとした後悔に襲われたのだった。




