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父であるアンドール侯爵は、デュリオが再びオリヴィアに会うことを渋った。
たった一度の見舞いならばどうにかなるだろうが、今後も会いたいとなると状況が変わってくる。
オリヴィアに定期的に会いたいということは、すなわち確かな約束が必要なのだ。
害にはならなくても、子爵夫妻は俗物すぎる。
その娘となると、将来の侯爵夫人として考えるには難しい。
行儀見習いとして預かるにはまだ幼すぎ、だからといって親から受け継いだ本人の資質を変えるには遅すぎるのだ。
「父さんはオリヴィアのことを知らないから、そんなことを思うんです。確かに僕も子爵夫人は苦手です。だけどオリヴィアは全然似ていません。とても優しくて、可愛くて、謙虚で、恥ずかしがり屋で――」
「わかった! わかったから、少し黙りなさい、デュリオ」
オリヴィアのことを悪く言われたようで、つい感情的になって反論するデュリオを、侯爵は止めた。
デュリオも自分の態度が恥ずかしくて、かすかに頬を赤らめて押し黙る。
そんなデュリオを見て、侯爵は冷静に問いかけた。
「それで、お前はどうしたいと思っているんだ、デュリオ?」
「僕は……僕は、オリヴィアと婚約したいと思っています」
「……そうか」
思い切ったデュリオの答えに、侯爵はそれだけ言うと、大きくため息を吐いて立ち上がった。
言いたいことはまだあったが、デュリオは父の背を黙って見守る。
侯爵は窓際へと進むと、庭で遊んでいる次男のレオンスと三男のジェラールを見つめながら話し始めた。
「今、王宮内は荒れている。王太子妃殿下が王子殿下をお生みになって一気に妃殿下派の勢力が増しているからな。侯爵家は王妃陛下と懇意にしているために王妃派と思われがちだが、そういうわけではないのもお前は知っているだろう? そもそも王妃陛下に妃殿下と争われるお気持ちがないんだ。ただ周囲がうるさくしているだけで」
「はい。王妃陛下はただ後ろ盾のない第一王子殿下を――ノエル殿下を保護されただけなのは知っています。ノエル殿下はお母君が市井の方なので……」
デュリオは父としてではなくアンドール侯爵の言葉として、背筋を伸ばして真剣に聞いた。
王妃派の筆頭と思われているアンドール侯爵家の子息であるデュリオは、学院でもその言動の全てを注目されているのだ。
「王妃陛下のお考えとしても、ノエル殿下を後継者に推されることはないと思っております。この国には正式なお世継ぎがいらっしゃるのですから」
「その通りだ。私は――我々はこのケインスタイン王国の臣下として、国王陛下をお支えしていく覚悟がある。たとえその方がどのようなお考えでも。もし国のためにならないのならば、勘気を被ってでも諫言しなければならない。第二王子殿下が――ヴィクトル殿下がご即位された時に、その役目を担わなければならないのはお前だ、デュリオ。そしてそのお前を陰になり日向になり支えければならないのが、妻であるアンドール侯爵夫人だ。お前がオリヴィア嬢を気に入ったのはわかった。だが、彼女がその重圧に耐えられると思うか? お前の選択が、彼女を苦しめることにならないか? そもそも、彼女の気持ちはどうなる?」
「それは……」
父の問いかけにデュリオは言葉を失った。
あの優しいオリヴィアを醜い権力争いの中に引き込んでしまう。
それはデュリオの望むことではない。
だが、そんなものはデュリオがいくらでも守ると誓える。
ただ父の最後の問いかけ――オリヴィアの気持ちはどうなのだろう?
デュリオはオリヴィアが好きだと自覚したばかりではあったが、学院で女生徒に〝唯一〟は誰かと問われた時に浮かんだのは、まだ一度会っただけのオリヴィアの顔だった。
オリヴィアの気持ちはわからない。だけど、自分の気持ちはもうはっきりとわかる。
「……時間をください」
「時間?」
「はい、時間です。僕はオリヴィアと婚約します。だけどもし、オリヴィアが僕のことを好きになってくれなかったら……別に好きな相手ができたなら、諦めて婚約を解消します。もちろんオリヴィアに有利な形で」
「では、侯爵夫人としての資質はどうなる?」
「確かに、子爵夫妻ははっきり言って凡庸な人物だと思います。ですが、父さんもお会いして気付いたと思いますが、姉のマヌエラ嬢は良くも悪くも強かな方です。そして兄であるジェストは皮肉屋ではありますが、とても機知に富んでいて優秀な人物です。オリヴィアだってきっと素敵な女性になるに違いありません」
息子の必死の訴えを、侯爵は黙って聞いていた。
そしてまたしばらく沈黙が落ちる。
デュリオは逸る気持ちを抑え、次代の侯爵として落ち着いて見えるように静かに父の言葉を待った。
「――ひと月に一度だ」
「え?」
「オリヴィア嬢に会うのはひと月に一度。約束した日のみに限る」
「それはいったいどうして……」
「アンドール侯爵家とカルヴェス子爵家。両家のあまりにも不釣り合いな縁組は様々な憶測を呼ぶだろう。子爵家がどのように吹聴しようが、我らがその理由に言及することはない。ただ頻繁にオリヴィア嬢に会いに行くことによって、お前が彼女に入れ込んでいると思われては、彼女自身に悪しき者が近づく可能性もある。よって、ひと月に一度の婚約者へのご機嫌伺い。これならば世間でもよくあることだ」
「……わかりました」
本当はもっとオリヴィアに会いたかったが、彼女を守るためにも仕方ないとデュリオは承諾した。
そもそもデュリオに拒否権はないのだ。
「まだ条件はある」
「……何でしょう?」
「デュリオ、お前が先ほど言った時間だ。時間には制限がある。彼女が十八歳になるまでにお前のことを好きだと明言しなければ、また侯爵夫人としての立場が彼女の手に余りそうならば、婚約は解消しなければならない」
「先の条件は当然だと思います。ですが、彼女が侯爵夫人としてというのは――」
「デュリオ、お前はアンドール侯爵家の後継者だ」
「……父さんは卑怯です」
「それもアンドール侯爵として必要とされるものだろう? だが私なら卑怯とは言わない。デュリオ、時間はまだある。お前の言う〝卑怯〟な手を使うのもありだぞ」
父の言葉にデュリオは一瞬目を見開き、そして苦笑して立ち上がる。
「お忙しいのにお時間を割いて頂き、ありがとうございました」
「何を言っている。可愛い息子との時間を惜しむわけがないだろう」
本心なのはわかっていたが、今はからかわれているとしか思えず、デュリオは頭を下げるだけでドアに向かった。
そこに父の声がかかる。
「デュリオ、私は今でも〝アンドール侯爵の唯一〟なんて言葉は嫌いだ。女性がどうしてああいう世迷言を好むのか理解できんよ」
「……母さんも、好きではないと言っていました」
「知っているよ」
当然だろうとばかりの父の返答になぜか満足して、デュリオは書斎を出ていった。
これから父がカルヴェス子爵に、デュリオとオリヴィアの婚約について話し合ってくれるはずだ。
それにいったいどれくらいの時間がかかるのだろう。
次にいつオリヴィアに会えるのだろう。
そう考えると、ワクワクすると同時に、オリヴィアに本当のことを――名前を偽っていたことを知られることが怖くもあった。
(どうすれば、オリヴィアに嫌われないでいられる? 好きになってもらえる?)
次に会うまでに作戦を考えなければと思い、そこで父の言葉が――〝卑怯な手〟が頭を過ぎる。
だが、オリヴィアの心を操ることなど望んではいない。
もちろんデュリオなら、自分に好意を抱かせることも、オリヴィアが社交術を身に着けるよう手を回すことも、できないことはないだろう。
(でも僕は、今のままの――ありのままのオリヴィアが好きなんだ)
そう思い、デュリオはオリヴィアに再び会える日を心待ちにしていた。
父親同士の間で何を話し合われたのかはわからない。
ようやくオリヴィアと会えることになったのは、あの日からひと月以上経ってからだった。
(どうしよう……オリヴィアに会ったら、何て言えばいいんだろう? まずは謝罪して……いや、どちらに対しての謝罪をするべきかな? 騙していたこと? 怪我をさせてしまったこと? ああ、どうしよう……)
子爵家へ向かう馬車の中でのデュリオの気持ちはとても複雑なものだった。
あれほどに何度も再会した時のことを想像していたのに、いざとなると全てが飛んでしまって考えがまとまらない。
ちらりと隣に視線を向ければ、父であるアンドール侯爵が意地の悪い笑みを浮かべてデュリオの様子を見ていた。
まるで、今後の成り行きを楽しんでいるかのように。
デュリオは将来の侯爵としての力量をも試されているようで、気合を入れ直した。
これはデュリオの我が儘なのだ。
婚約が発表されれば、社交界はちょっとした騒ぎになるだろう。
オリヴィアが〝唯一〟なのだと思われる可能性も高い。
まだ十三歳のデュリオにとっては、本当にそんな相手が存在するのかなどわかるわけもなかったが、とにかく彼女の安全のためには、デュリオの気持ちをあまり見せてはいけないことだけはわかっていた。
子爵家に到着すると、オリヴィアを除く一家全員に出迎えられた。
学院の同学年であるジェストは相変わらず皮肉な笑みを浮かべていたが、デュリオとしては嫌いではない。
そして、子爵夫妻の興奮のしように辟易しながらも、案内されたオリヴィアの部屋の前まで来たデュリオは、痛む胸を少しでも抑えようとするかのように小さく息を吐いた。
オリヴィアはまだベッドから出られないのだ。
「……トム?」
部屋に入ってきた一団を怯えたように見ていたオリヴィアが、デュリオに気付いた時の驚きの顔は一生忘れられないだろう。
子爵夫人がトムの名を呟いたオリヴィアに何か言っていたが、デュリオはズキズキと痛む胸を堪えて笑みを浮かべるだけで精一杯だった。
だから、傷ついた表情のオリヴィアにきちんと説明することもできず、ありきたりな謝罪の言葉しか言えないまま婚約者同士として初めての対面は終わってしまった。
再びデュリオに後悔が押し寄せる。
帰りの車中で一言も口をきかない息子に、侯爵も何も声をかけることなく、二人は侯爵邸へと帰っていったのだった。




