母娘
「ええと、それはわたくしの事かしら?」
湖から首をのばし、タエが問い掛けると、若い女性が息を飲んで後ずさった。
無理もない。湖から巨体がせり上がったと思った瞬間、ぎろりと上から見下ろされたのだ。
腰を抜かさなかっただけ立派である。
「わ、わたしは……っ」
怖さで震えそうになるのをぐっと我慢して、なんとか言葉を紡ぎ出す。
そして、彼女は褐色の肌に映える青い目で、きっとタエを睨みつけた。
「ラトファ……いえ、ジーネと申します。竜神様、不躾なお願いと理解してはおりますが、どうか、私の母を助けて欲しいのです!」
「お母様を?」
「はい。竜神様は、この国に仇を成さない者に対してはお優しい方だと聞きました。わたしたちはそれを証明できます。ですから、どうか助けて戴きたいのです!」
「まあ、それは大変!」
タエが目を丸くする。
「もちろん、わたくしで出来る事でしたら、何でもいたしますわ。でもね、一つだけ申し上げさせてくださいな。わたくしは神様などではなくて」
「タエさんちょっとちょっとー!」
ロイが慌てて声を張り上げる。それを聞いて、タエがはっと我に返った。
もごもごと口ごもり、空に向けて火柱を吹き上げる。
溜息をついたつもりだったのだが、つい、炎になってしまった。
その迫力にジーネが雪原にへたり込んだが、タエはタエでうろたえている。
「か、神様などではない…では、いけないのですよね。ええと、あの……何て申し上げたら?」
と、助けを求めてレリウスを見る。
だが、こちらに聞かないでくだされ、と視線でやんわり拒否された。
「あの……」
途方にくれてラタを見る。
すると、すぐに返事が帰って来た。
「だいじょうぶだよ。タエさまは、みんなが好きなんでしょ? 僕達がタエさまを好きなのとおんなじだよね。違う?」
「そ、そうそう! み、皆様のお側にいたくて、こうしてここに居るのです……!」
完全に場当たり的な言葉だったが、それでも、初の竜邂逅に緊張していたジーネは、とにかく竜神に嫌われなかったという事に安堵したようだった。
緊張でこわばっていた顔に、たちまち笑顔が広がって行く。
年相応の、明るい表情だ。
「で、では、母を呼んでまいります! どうか、このままお待ち下さいませ!」
「ええ、喜んで」
タエがうなずくと、ジーネがぱっと立ち上がって雪原に駆けて行った。
そんなタエの後ろで、ちょいちょい、とロイがレリウスの袖を引っ張って耳打ちする。
「あれってさ、ラトファーラ姫だよね」
「いかにも」
レリウスがうなずく。
まるで山賊にでも襲われたかのような服の破け方は王族らしくないが、それでも、顔立ちですぐに判る。
「何で彼女がここにいるわけ?」
「ううむ。何らかの方法で追い出し、シシリに浚われた事にした、というのが妥当なところじゃろうな」
「それは勘?」
「そうとも言うし、過去に学んだとも言うがの」
過去にも、似た話はあったのだ。
ゼレの代ではないが、「王族が行方不明になった、そちらの竜が浚ったんじゃないか」と、ナティマから怒鳴り込まれたという記録が王国図書館に残っている。
その時は、単に王族が他の平民と駆け落ちしていたというオチがついたのだが、似たような事を思いつく者がいてもおかしくはない。
「じゃあ、戦争?」
「その心配ならいらんじゃろう。我が身一番の王族が、わざわざ、我が身を危険にさらすような争いを起こす事はせんだろうしな。タエ殿は、伝説上では心を読むと言われておるからの。そんな存在に、やましいことのある輩が手出しする事はなかろうて」
「ふうん、そう」
こくりと、ロイがうなずく。
そこに、ジーネが駆け戻って来た。
「竜神さま!」
と、声を張り上げる彼女の側には、襤褸を来てうずくまる母、エルバの姿。
熱でもあるのか、真っ赤な顔をしたエルバを見下ろしたタエが、はっとしたように背後を振り返った。
「ご、ごめんなさい。殿方は今すぐ場から離れてくださいませ!」
「え、なんで?」
「こんな場所で、家族でもない方の前では、ちょっと……!」
タエにしては珍しく、強い感じの口調。
そんなタエと、ジーネの母を見比べたレリウスが、「ふむ」と顎髭を撫でた。
「行きましょう。タエ殿があそこまで言うのです。何か事情がおありなのでしょう」
「レリウス?」
「そう不思議そうな顔をしないで下さいませ、ラタ様。タエ殿にはいつもお願いしてばかりなのですから。こう言う時ぐらい、恩返しをしないと」
やんわりと、けれども強い口調でレリウスが言う。
それに押され、ラタがうなずくと、ロイも続けてうなずいた。
「では、ジーネ殿はタエ殿と共に」
「あ、私も行きます。後は竜神様にお任せするので」
「え?」
ロイが不思議そうな声を出す。
「いいのですか?」
ロイに問われ、ジーネが首を横に振った。
「いいのです。確かに、母上の事は本当の母上のように慕っております。けれど、わたしとは血が繋がってはおりませんから」
「なんですと?」
「きちんと説明はします。だって、竜神様にお世話になるのですから」
ですから、行きましょう、と。
笑みにほんの少しの寂しさを滲ませ、ジーネが先に立って歩き出した。
「もうお気づきの方もいるかと思われますが、わたしにはラトファーラという名前があります。けれど、本当の名前はジーネ。ナティマの貴族とシシリの民の間に生まれました」
タエからだいぶ離れた辺りで、ジーネはそう切り出した。
木々の向こうには赤い巨体が見える。大きな翼で何かを包み込むような姿勢になっているのは、その内側に母親がいるからだろう。
心配は尽きないが、今は信じるしかない。
自分自信にそう言い聞かせて、言葉を続ける。
「私の本当の父は、ナティマの富豪だったと聞いています。そんな彼が、どうしてシシリに来たのかは知りません。ですが、彼はわたしの母との間に男の子をもうけ、その男の子を連れて帰ってしまいました。結果としてわたしの母だけが残されたのです。母は別の父との間に子供を産みました。それが私です。兄は母の事をずっと気にしていたようで、何度も連絡をくれたそうです」
全ては、母からの伝え聞きだ。
どこまで本当なのかはジーネも知らない。
「兄はやがて、父ではない貴族に仕えるようになりました。その兄の主だったのが、今の母です。兄は子が生まれずに悩んでいる母に、シシリに行くように言ったそうです。シシリに妹がいるはずだから、どうか子供にしてやってくれと」
その時期は丁度、ジーネの本当の母が流行病に巻き込まれた年だ。
先の長くないジーネの母は、エルバの申し出を喜んだ。
そうしてジーネはエルバの娘となり、エルバに仕える兄は、何くわぬ顔で彼女を令嬢として扱った。
それが一変したのは、エルバが再びシシリに行くと言い出した時だ。
「いま思えば、わたしが何者なのか、他の王妃候補に感づかれたのでしょう。兄はわたし達を国境まで逃がし、一人、屋敷に残りました」
一緒にいこう、と誘ったジーナに、だが、兄は首を横に振った。
かけがえのない二人の命に比べれば、自分の命なんて安いものだと。
その兄はもういない。
投獄されて、死んでしまったと聞いている。
「わたしが、もう少し上手に立ち回っていれば、少しは違ったのかも知れません……」
きゅ、と両手を握り締める。
今度こそ、今度こそ誰も泣かせない。あの時、そう決めたのだ。
「絶対に、シシリにご迷惑はかけません! ですから、どうかシシリにいさせて下さい!」
「なるほどのう」
レリウスがしみじみとうなずく。
その後で、ロイがジーネに問い掛けた。
「ねえ。その兄さんってさ、クルジとか言う人だったりしない?」
「ど、どうしてそれを!?」
「いや、話の流れで何となく」
図星だったね、とロイが言うと、ジーネが目を見開いた。
この少年は兄の最期を知っているのだろうかと、そんな思いが顔に出る。
「だって、兄は、私達を庇って……」
「死んだ、って聞かされたのかな? それならただの早とちり。ちゃんと、元気に生きているよ」
「ど、どこで!?」
「後で案内してあげる。でも、まずはケガを何とかしなきゃね。その格好のままじゃいられないでしょ?」
師であるディラノの言葉を借りるなら、「女性は綺麗にしてやれ」だ。
「温泉って入ったことある? 打ち身とかに良く効くんだよ」
本当だよ、と。
ロイが楽しそうに笑いかけると、ようやくジーネも微笑んだ。




