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脱出劇

……………………


 ──脱出劇



 汎人類帝国によって秘密裏に行われている越境作戦──エスポワール作戦。


 ここで問題が生じた。


 その日飛び立った空中騎手はジャン・カザーレ大尉で、既に12回もエスポワール作戦による極秘越境飛行に従事したベテラン騎手だ。


 彼は汎人類帝国の情報将校1名とコンテナを乗せて深夜に基地を飛び立った。


 相変わらず魔王軍は魔力探知機を入手できておらず、越境はいつも通りスムーズに行われるはずであったが、ここで問題が起きる。


 ひとつはニザヴェッリル上空の気象が急に悪化したこと。


 この世界ではまだ気象予報は十分に発達していない。フライトが決定されたときは良好な気象であったのが、どういうわけか急速に雷雨となり、ベテランのカザーレ大尉でも飛行が困難になった。


 もうひとつはコンテナ内の装備の固定が不十分であったこと。


 コンテナ内の銃火器が雷雨にとって崩れ、コンテナの重心が大きくずれたことでグリフォンが悲鳴のように鳴いた。


 それから墜落までは一瞬のことで、立て直すこともできなかった。


「少佐、少佐! クソ……!」


 墜落で一瞬意識を失ったカザーレ大尉は力尽きた相棒のグリフォンと、首の骨が折れて死んでいる情報将校を見つけて呻いた。


「不味いぞ。脱出しないと……」


 今、三国同盟と魔王軍の間で緊張が高まっているのは、カザーレ大尉も知るところだった。そんな中で三国同盟が越境していたという事実を知られれば、魔王軍に開戦の口実を与えることになる。


 いざとなれば自決用の毒薬を使わなければならないが、今はまだ希望を捨てたわけではない。カザーレ大尉はこのニザヴェッリル東部占領地域から脱出するつもりだ。


「最後に確認した地点はここだから、流されたとしてもこの範囲だろう」


 まずは現在地の確認である。カザーレ大尉は空中騎手として敵地で墜落した場合の脱出訓練も受けている。この手のことにはなじみがあった。


 現在地を把握するとグリフォンとともに落ちていたコンテナを開いて、そこから携行食料を回収する。


 可能であれば情報将校の死体を埋めたかったが、その余裕はなさそうだ。


「あの星座がある方向が南で、あっちが西だ。よし、行くぞ」


 武器もカービン仕様の小銃を手にし、カザーレ大尉は脱出を開始。


 この時点で魔王軍はまだカザーレ大尉の墜落に気づいていなかった。だが、先に発令されたソロモンの要請による内務省警察軍の警備強化によって、あちこちに警察軍のパトロールが展開しているという状況だ。


 カザーレ大尉は気づかれていると思い込み、より慎重になった。


 結果としてそれは功をなし、カザーレ大尉の脱出を支えた。彼は泥を顔に塗ってドーラン代わりにして闇夜に溶け込み、人狼の将校がいるパトロールに出くわした時は、常に風下で伏せていた。


 食料はまだあるが、水は少ない。雨の後で水たまりこそあれど、腹を壊せば脱出は完全に望めなくなる。


「落ち着け。冷静に対処しろ」


 カザーレ大尉は近くに光を見つけた。魔王軍が建設した集団農場の光だ。


 そこには井戸があった。あの井戸に辿り着ければ……。


 カザーレ大尉はどうにかして井戸にたどり着く方法を考えたが、思い浮かばない。周囲に魔族の姿は見えないが、集団農場ではドワーフたちが鎖に繋がれ、奴隷のように働かされているとは聞いていた。


 カザーレ大尉は思い切って集団農場のドワーフに接触して頼むことにした。このままならばどうせ脱水で死ぬことになる。それぐらいならば、と。


 そして、カザーレ大尉は地面に伏せながら集団農場に接近。


「魔族はやはりいないな……」


 何度も確認したが、集団農場の周りに魔族はいない。


 ドワーフたちの姿も見えないが、家屋と思しきものからは光が漏れていた。カザーレ大尉はその家屋に向けてさらに進む。


 家屋の窓から中を覗き込むと、ドワーフたちが食事をしているところだった。ほんのわずかな、質素すぎる食事をドワーフたちはしており、そこに笑顔はない。


 だが、彼らは鎖にはつながれていなかった。


 三国同盟の宣伝とは裏腹に魔王軍は流石に全てのドワーフを鎖につないだりはしていない。鎖で繋がれるのは反抗的なドワーフたちだけで、その他のドワーフは魔王軍の見張りの下で強制労働をさせられているだけだ。


 今回この農場の見張りがいないのは、やはり演習の影響であり、特に問題を起こしてこなかったこの農場の見張りはパルチザン狩りに動員されていたのである。


 カザーレ大尉が民家に近づいたとき、ちょうどドワーフが出て来た。


「おい。こっちだ」


 カザーレ大尉が大陸共通語で呼び掛けるとドワーフが驚いてカザーレ大尉を見た。


「に、人間……?」


「ああ。人間だ。水を貰えるだろうか?」


 ドワーフは若い男でカザーレ大尉から話しかけられるのにうろたえた様子を見せたが、大声があげなかった。


「一体どこから来たんだ……?」


「越境してきた。頼む。水をくれ」


「わ。分かった。こっちへ来てくれ。今は魔族はいないが、いつ戻ってくるのか分からないし、他の人間に見つかりたくない」


「ああ」


 ドワーフたちの間では密告が推奨されたせいで、不信感が広がっていた。このドワーフも真っ先に自分が他のドワーフ密告されることを恐れた。


 この若いドワーフの案内で、カザーレ大尉は井戸に行き、無事に水を手にした。カザーレ大尉は一心不乱に水を飲み干す。冷たい水が喉を潤し、カザーレ大尉は安堵の息を吐いたのだった。


「ありがとう。恩に着る」


「あんた、西から来たんだろう? 要塞線を越えて」


「……ああ」


「なら、早く行った方がいいけど、気を付けて。要塞線には今や恐ろしい数の魔族がいるという話だったから。国境を抜けるのは難しいかもしれない」


「そうか。何か別の手を考えてみるよ」


 幸運にも情報も得られて、カザーレ大尉は脱出を続けた。


 要塞線の方には大規模な魔王軍部隊が移動しており、やはり国境の要塞線を抜けるのは不可能。で、あるならば、だ。


「海だ」


 そこでカザーレ大尉が思いついたのは、北の海からの脱出だ。


 現在の北方海は魔王軍にとっても、三国同盟にとっても完全に確保できていいるとは言い難い場所であった。


 汎人類帝国海軍から艦隊が派遣され、ニザヴェッリル海軍もわずかながら立て直しを始めているが、基本的に戦力不足だ。魔王軍においてもそれは変わらない。広大で、荒れやすい北方海を常に押さえておくのは至難の業だ。


 いざ戦争になれば両軍は互いの艦隊を潰すことを狙うだろう。それまでは北方海は誰のものでもなかった。


 そうであるが故にカザーレ大尉はそこに望みを託した。沿岸部でどうにかしてボートを手に入れてグスタフ線に帰還するのだと。


「よし。北に向かうぞ。こんなところで死んでたまるかっていうんだ」


 そして、彼は北に向けて危険な旅を始めた。


……………………

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