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誰よりも軽やかな風  作者: 雪原たかし
第2章 『高楼大陸にて』
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第29話 「あとで知る」

「そういや、『風の空白』を読んだって感じのこと言ってたわね。よく考えたら、『果ての箱』にあったってえことは、捨てたやつがいるのよね。なんてことすんのよまったく……」

 表情は苛立ちを感じさせるけれど、声量はかなり抑えられている。静かにするのは、ここではとても意味のあることらしい。

「捨てられなければ僕のもとには来なかったかもしれない。だから、捨てられてよかったと思っている」

「そんなこと思うなってえのよ。大切なことがどれだけ込められているのかわからなかったから捨てた。そうに決まってんの」

 僕は、偶然に拾い、読んで、捨てなかった。大切なことがそれに込められていると感じたから。そういうことなんだろうか。

「まあ、ここでカームに言ってみたってどうにもならないわよね。えっと、『風の空白』は……検索したほうがいっか。そこ上ったら左に曲がって真っすぐ行って。たしか端末があったはずよ」

 言われたとおりに進む。二階まで上ると、僕の背丈よりもかなり高い棚が整然と並ぶ、広大な階層に入った。左に曲がると、高さがそれぞれに異なる円筒状の端末が三台、壁沿いに並んでいた。

「自分でやってみる?」

「なにをだ?」

「本の検索。たぶん難しくないから。小さい子でもできるし」

「やってみる」

 これまで見てきた限り、端末の操作だけなら今の僕にもできそうではある。中央の端末が僕にはちょうどいい高さのようだ。

「『探す』、『名前』、えっと、『かぜの』……これか?」

 書名を入力しようとしたら、いくつか同じような名前が出てきて、それらの最上に『風の空白』とアラシの名前が並んだものがある。

「そうね。選んだらここまで運ばれてくるけど、場所だけ表示して自分で取ってくることもできるわよ。たぶんあんたなら――――」

「自分で取りに行ってみたい」

 チエが戸惑うことなく話を中断する。予想どおりだったのか。

「まあ、ここに実書があるか知らな……あるみたいね」

 チエが横から指した部分に“実書閲覧可能”とある。

「微小体との連携がうまくいけば誘導表示が見えるはずよ。どう?」

 チエの言うとおりで、腰辺りの高さの宙に白っぽい流れが見える。この導きに従えばいいんだろう。

 幅の広い通路に出る。五歩くらいの間隔で、棚が通路から横へと伸びている。どの通路も真上からまっすぐに照らされていて、床の赤い不織布の……ここの床は不織布だったんだな。気づかなかった。

「こら、前を見なさいよ。カームだけの道じゃないんだから」

 後ろから襟の少し下を引っ張られる。同じ通路には僕たちの他に三人いる。気配からして、他の通路にも何人かいるらしい。

「あと、前が見づらい」

 チエが右隣に並ぶ。それでもこの通路はじゅうぶんな幅がある。横の通路に入るまでは、そうだな、並んでいてほしい。

 けれど、白い流れはもうそこで右に曲がっている。

「あっ、ここなのね。へぇ、もう新書じゃなくなったんだ」

 棚の側面には“紀行”と掲示されている。流れは少し進んだ先で終端になっている。そこに、あるんだな。

 何歩進めば着いてしまうんだろう。進めばわかってしまう。あぁ、進んでしまった。何歩だった? そんなことを考えたいんじゃない。棚に向かい、視線を縦に動かして――――

「あっ……た」

 声が出た。ここでは静かにしなければいけないんじゃなかったか。

 頭のすぐ上辺りの高さに、三冊の『風の空白』が収まっている。目を閉じても思い描ける書名の文字。触れなくとも感じられる表装。無数の本が静かに並ぶこの場所にも、あるんだ。

「見たかっただけ?」

「えっ?」

 チエがいつの間にか背後にいる。

「いや、手にとって読んだりすんのかなって思ってたから」

「いいのか?」

「まぁ、汚したり傷つけたりしないんならね」

 もう一度、『風の空白』に向かう。かかとを上げると、ちょうど指が背表紙の上端に掛かった。このまま引き出して――――いや、背表紙の両脇に指を差し入れて、もっとしっかりと掴まえてから、まっすぐに引き出す。

 求めて、探し出した本。あの時は、手に収めることが所有を意味していた。けれど、いま僕の手にあるこれは、僕のものじゃない。奪ったわけじゃなくて……そう、借りている。借りているんだ。

「借り物は返すもの、だったな」

 どうして求めたのか。僕を導いたものが実在していて、きちんと収められているのを確かめたかったから……だった気がする。

 いま僕のリュックの中にあるものは、この世界で、この場所で、大切に収められているものと同じなんだ。それがわかったら、もうじゅうぶんな気がしてきたな。

 最後に損なってしまわないように、ゆっくりとまっすぐに戻す。

「えっ、読まないの?」

「ああ。この本は、これでいい。読むなら自分のもので読む」

「じゃあなんのために……いや、アラシも手にとるだけで読まないことあったわね。あれは自分で書いたからだったけど……あぁもう、やめやめ。考えるだけ無駄」

 チエが手を小さく払う。少しの気流が僕の顔に触れた。

「無風なんだな、ここは」

 図書館では静かにしなければいけないというのに、なぜか言葉がすんなりと声になってしまう。

「無風? あぁ……言われてみればそうね」

 チエが周りを見回す。

「まあ、静かな場所だし、そういうとこってどこも無風って言えるかもしれないわね。風って音をよく運んじゃうから」

「だったら、メルクレイムは静かな場所には吹かないのか?」

「えっ、メルクレイム? 静かな場所に……どうなんだろ……」

 チエが眉を寄せ、考え込む。

「負感情型も風である以上は吹けば音が鳴っちゃうはずよね。でも、まだチイの知らないメルクレイムもあるんだろうし、もしかしたらそういうのだってありえるかも?」

 これは、独り言だな。声が大きくないうちは止めないでおこうか。

「音もなく吹くとして、どんなふうに感じる? 肌とかじゃなくて、もっと内側? 他の風と違いすぎたら、そもそも風だってことすらわからなくなっちゃったり……あっ」

 はっきりと目が合う。終わったらしい。

「……うるさくなかった?」

「声はじゅうぶんに小さいままだったと思う」

 そう答え終えるなり、チエはぐたっとうなだれた。

「そんな……ほんとにアラシの言ったとおりじゃない……」

 なにがアラシの言ったとおりなんだろうか。

「まぁ、チイの知ってる限りだけど、静かな場所には吹かないっていうより、吹いたら静かじゃなくなっちゃうわね。風鳴りのせいで」

 風鳴り。北方大陸に改めて踏み出す直前のことが思い出される。

「たしかに、すぐに静かではなくなっていたな」

「なんのこと?」

「北方大陸で再出発したときのことだ。アラシが外への扉を開けて、風は吹き込んでこなかったが、風鳴りは聞こえていた。だから……いや、あれはメルクレイムの名残……違う、コワシュルテが名残を打ち消すとも言っていたから、チメルレイムか」

「ねえ」

 チエが手のひらを僕の顔の前に出す。

「なんだ?」

「やっぱチイたち喋りすぎ。談話室に行くわよ。そこなら話しても大丈夫だから」

 そうか、喋るのは控えるべきだったな。




「で、北方大陸だっけ? そういや、北方大陸でなにがあったのか、チイなんにも知らないわね」

 三階に上がってすぐの、一〇歩四方ほどの一室。扉を閉めてから、チエは話を戻した。

「カームってさぁ、『果ての箱』を出てからどのくらい北方大陸にいたわけ?」

 いつもと変わらない声量だ。ここなら喋っても大丈夫なのか。

「どのくらい……わからないな。ただ、出てすぐに倒れてしまって、目覚めてから一日と経たずに出発して、その日の昼にはもうチエに会っていた」

 目覚めた時にはもう日の入りだったか。

「北方大陸って、やっぱ寒いの?」

「いま着ているようなものではとうてい防げないくらいに寒かった」

「そりゃそうでしょ極北なんだから」

 今なら、自分でもそう思える。

「感覚で知る前だったから、今より少しだけ厚い程度の装備だった。それで『箱』から出て、強烈な風に吹かれて、倒れた」

「よく死ななかったわね」

 死ぬ……そうか、そうなるかもしれなかったな。

「アラシのいた拠点からだと、『果ての箱』の立入禁止領域まではけっこう近かったのよ。アラシの信用があったからそこを使ってもいいってことになったんだけど、まあ見事だったわよ、侵入警報が鳴り響いた時のみんなの静まり具合は」

 チエが息をつく。少し揺らすように。

「なにを思って侵入したのか知らないけど、結果としては大発見。チイあんまり詳しくないけど、『果ての箱』って、発見されてから今まで調査隊員以外の人間が出てこられたことが無いらしいのよ。しかもその調査隊でも何人も帰ってこなかったって」

 アラシがソーハンでバンホウに言っていたことだな。自力で出てきた唯一の人間。それが僕なのだと。

「その辺りを知っておいたほうがいいのは同感だな」

「ここならたぶん『箱』の調査に関する本とかもいっぱいあるわよ。あんたはちょっと自分の……珍しさ? そういうところをちゃんとわかっておいたほうがいいわね。さっきは読まずに戻してたけど、次はちゃんと読むのよ。ここの本は、読まれるために在るんだから」

 自分を知るために、本を読む。なにを読めば、どう読めば、そうなるんだろうか。自分を知った自分に。知るための読みに。

「チエは僕がなにを読むべきかわかるか?」

「読むべき、ねえ。『ダ・イエラ』が読めるならかなり難しいやつでも読めるんだろうし、北方大陸の探検の記録とか、調査報告書の解説本とかがいいんじゃない?」

 そういう本は『箱』でも読めていた。

「もっと面白いものはあるか?」

「なにちょっと要求上げてきてんのよ」

 そう言って、チエが目線を落とす。少し頭をかしげて、髪が耳で分けられる。チエの髪はとてもやわらかい。

「面白いっていったら、物語系? 創作が過ぎたら誤解になるだけだし、程々で……難しいわねまったく」

 頭をくりんと回し、今度は部屋の天井を見る。

「カームさぁ、この前の『陸の船』は面白かったわけ?」

「この前……鉄道で観たものか。あれは、そうだな、面白かったと思う」

 出来事の連なりに興味を持っていた。それは、そうなんだろう。

「へえ。あれが面白いんなら……いや、なお難しいわね。でも意外。ああいう物語が好きなのね」

「ああいう?」

「あれって、人の感情の不安定さとか激しさとかが描写されてて、そんな気持ちになったことある人が共感して観る、みたいなとこがあるかもしれないって、チイは思うのよ」

 ああいう物語。そんな気持ち。繋がってはこないけれど――――

「僕がそういうものに共感できると、チエには思えるのか?」

「意外だって言ったじゃない。まあ改めて考えたら、程度がすごいものって感性が圧されるような共感を起こしやすいし、見習いならもっとそうなりやすくてもおかしくないんじゃないの?」

 なってもおかしくない。チエが言うなら、なるべきなんだろうか。

「アラシはあれをカームに観せてもいいって考えたってことだし、最初はあれに近い物語かな。映像記録も借りれるけど、せっかくの図書館だし、本で読んでみたら?」

 提案だ。受け入れられるとわかりきっている。

「そうしよう。ただ……」

「なに?」

 僕のほうへ向かおうとしていたチエの手が宙で止まる。

「桜風とパスツル以外のメルクレイムに関するものがいいんだ」

「なんで?」

 チエの手が返り、手のひらがこちらに向く。よし、そこに向けて言ってみようか。

「桜風はあの物語……『陸の船』か、それでもう観た。パスツルは北方大陸でアラシが名残を僕に触れさせてくれた。だから、今度は新しいメルクレイムが知りたい。新しいものを、いや、知っているものでも、まだこの世界での形や表れに触れられていないものを、新しく知りたいんだ」

 チエの手に言うと、考えがまとまりやすくなるんだろうか。

「まあ、その二つの他にもまだメルクレイムはたくさ……ん?」

 くっ、と手が閉じられる。

「パスツル? カーム、あんたパスツルに触ったってえの?」

「ああ」

「アラシが触らせた?」

「そうだ」

 そろそろチエのこの訊き方がどうなってゆくのかがわかるようになってきたのかもしれない。すまない、アラシ。わけがわからないとしても、そう思っておくべきだろう。

「そう……」

 そういえば、手に視線を落としてから、チエの顔を見ていない。

「……」

 見ても、わからない。怒りの予想に重ならないとだけわかる。

「チイもね、触ったことがあるの。パスツルはアラシの故郷に吹くメルクレイムで、感情種が識別できないほど複雑なのよ。そんなの、初めてメルクレイムを知るってえやつには強すぎるって、わかってないはずない」

 これではない、というのはいくつかわかる。怒りではなく、好みでもない。ソーロが昔語りで見せた諦めとも異なっている。

「なにを思っているんだ?」

「なにをって……」

 いや、僕はなにを訊いているんだ?

「なんだろ、なにを思って……なにか思ってたみたいだったわけ?」

「そうだと思ったんだが、僕にはそれがなんなのかわからないんだ。おそらくまだ知らない思いなんだと思う」

「あぁ……そうかもね、カームが知らなくても不思議じゃないって感じだったかもしれない。でも、チイもはっきりとわかってるわけじゃないから……この話はもうやめね」

 チエが扉へと歩み寄る。把手に触れて、止まった。

「ねえカーム」

「なんだ?」

「メルクレイムの本を探すのは明日にしたいんだけど、いい?」

 訊かれ方の違い。圧せない強さで向けられる目線。わかっても、わからない。

「いい。東の二番街、だったな。そこからここまではどのくらいで行けるんだ?」

 少しの、目線の緩み。これでいいんだろうか?

「えっと、たぶん歩いて二〇分ってえところじゃない? もうちょっとかかるかも」

「明日もついてきてくれるのか?」

「……そうね」

 なにかを決めたらしい。なにを見て、そうわかった?

「チイも、ちょっと読みたいものあるかもしれない」

 チエが扉を開ける。押されるような感覚が来た。向こうのほうが静かで、それならなにも向かってこないはずなのに。

 この部屋で、僕はなにを感じていたんだろうか? こんなにも、わからないものなんだろうか?

 けれど、今はここを出る時だ。今の僕でも、どこかから出るのはしっかりとできる。自分の持つ数少ない確かさを、今は頼ろう。

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