第27話 「目的地」
サンセンでは、地上階は三層までと決められている。斜面をなすことこそがサンセンをサンセンたらしめている。そう聞いてもまだそれがどういう意味を持つのかはわからない。
展望台は、サンセンで唯一の、地上階が三層を超える高さを持つ構造物の最上階にある。高楼大陸全土における最高標高地点に建ち、それはつまり、大陸で最も高い場所であるということを意味する。
ソーハンを発つ時には、周囲よりも高い場所からソーモン荒原を眺めた。けれど、遠くへ目を向けるにつれて、その標高は高まっていった。より高い場所が視界にあるのは見てきたけれど、どこにも無いというのは初めてかもしれない。見えないだけなのは、すでに経験したというか、それが常だったというか。
「ここの展望台さぁ、下からの直通エレベーターじゃ行けないの、どうにかなんないわけ?」
鈍赤と焦茶が囲む建物内を数分くらいは水平に歩いている。
「なんでなんだろうねぇ」
そう答えるアラシの軽さから、理由を知らないようには感じない。
「いや、なんでなのかはわかるわよ?」
「へえ。じゃあなんで?」
「乗り降りの頻度とか、そもそも駅とここの間と、ここと展望台の間とじゃ距離が違いすぎるとか」
「まあそんな感じだよね」
やっぱり知っていたか。
角を曲がり、ようやくエレベーターの扉が見えた。駅から乗ったものよりはいくらか小さくて、人もそれほど並んではいない。
エレベーターの前に着く。右方には通路が少し伸びた先に街路が見える。おそらくはサンセンの市街に出られるんだろう。
「大した高さじゃないのがなんとも言えないわね」
「それでもここでは最高なんだからいいんだよ。高さが欲しいなら飛べばいいしね」
「そういうもんじゃないんじゃないの?」
アラシが言ったことがもっともらしく思えたのは僕だけか。
「どういうものだと思うの?」
興味の目だな。
「飛んだらこう……足になにも触らないじゃない」
「航空機なら床があるよ?」
エレベーターの扉が開き、中へと進む。
「そうじゃなくて、地面じゃないでしょ」
「どうやって高まるかが大事ってことかな」
「まあそんな感じよ」
扉が閉まり、先ほどより鋭くも弱い慣性を感じる。
「エレベーターは高まり方としては大丈夫なの?」
「ちゃんと地面を押してるからいいのよ」
「そういう基準なのね。なるほど」
船は……水越しに押しているか。
慣性は弱くて一瞬。すぐに扉は開き――――
「あぁ……」
球型の透明壁に囲まれる。
吸い寄せられているんだろうか。足が進んでしまう。
堅固であるはずの床面が、外殻へ近づくにつれて意識から消えてゆく。その殻は触れることができ、床面からさらに外へとわずかに膨らむ面が、寄りかかれと誘っているかのように思えてしまう。
足先に縁を感じながら、伸ばしていた腕を緩める。身体が球面にぴったりと沿い、浅い俯角を保たせてくれる。
そして、見下ろす。大地が、そこにしかないから。
リウキン大盆地は高楼大陸の中央にある巨大な盆地。サンセンはその周縁にある、高楼大陸の最高標高地点。すでに知っている。
けれど、なにも見上げない、こんな光景は知らなかった。
近くは低層の建造物が広がり、やや離れれば、トーシューモスで覆われた荒原と同じくらい鮮やかな緑の斜面が広がる。斜度は緩いけれど、太陽がまだ低いせいか、陰の部分がいくらか残っている。
「この楽しみ方って、この展望台のおすすめらしいんだよ。まあ、けっこう勇気が要るから、やる人は少ないんだけどね」
「うっそでしょ……信じられない……」
右方からアラシの声。僕と同じように透明壁へ身体を預けているようだ。チエの声は背後から聞こえる。
「ちょっと見づらいけど、あの先にチェルがあるよ」
どこを指すでもない。けれど、わかる。少しもやがかった、あの先だろう。
「桜風の主体はね、チェルからまっすぐ東へ進んで、大盆地の縁を越えてすぐのところの上空にあるんだよ」
同じ方向を見ている。チエも見ているんだろうか。
「今回はチェルからあの向こうのタシ山脈、そのあと大陸の東岸に沿って南下して、シャンゴンまでが高楼大陸の行程になる予定だね。よいしょっと」
アラシが身体を後ろへ戻す。僕は……こうでいたい。
目前にある透明壁が、触感にだけ存在している。いや、風の音が聴こえない。だったら、視覚にだけ存在していないのか。それでも、預けきった身体は、外へ、下へと引かれるまま。
ひと目で捉えきれないほどの巨大さ。その縁をたどってみても、空との境界に紛れてしまってひと巡りできない。この中へ、今から行くんだ。あのもやの中が、目的地――――
「うりゃっ」
「おわっ」
唐突にリュックを引かれ、荷物に乗り上げながら床面に倒れる。
「まったく……長いってえのよ」
明らかになにかを投げた後の体勢。やっぱりチエか。
「時間を限ったほうがいいのか?」
「そんなの知らないわよ。でも――――」
チエが体勢を戻して、見下ろす。
「ずっとやってるわけにはいかないでしょ。特別は特別なのよ」
特別は、特別。
チエの言葉って、こういうものだったか?
いや、チエだけじゃない。アラシも、ソーロも、こういうものだ。いつもじゃなかった。特別だった。
書き留めたい。けれど、きっとチエの目の前ではやらないほうがいいんだろう。すぐに忘れそうもなくて、思い出す時が何度だってありそうな言葉だ。なんだか面白いな。
少し前まで、サンセン駅では乗換えだけにする予定だったらしい。チェルには五つの駅があり、中心部にあるメイユウ駅は高楼大陸の主要鉄道の乗入れが無い。周辺都市の四つの駅がそれぞれの路線の終着駅を担い、メイユウ駅からは連絡路線が伸びている。
鉄道の知識はほとんど無かったけれど、サンセン駅へ戻る道中でチエがなにも言わずに差し出してくる端末で見た路線図のおかげか、とりあえずどうして乗換えたのかわかった。あのままではチェルの中心部から西にかなり離れたメイゲン駅へ行ってしまう。ここからメイユウ駅までは一時間。メイゲン駅経由はその倍らしい。
「リウキン大盆地は『鉄道網の遺跡』って呼ばれるくらいだからね。昔の複雑な路線を残したままなんとかしようとして、いつの間にかみんな諦めちゃって、今やこんなだよ」
またマナジンの列に並びながら、アラシが端末を操作する。もう見分けづらかった路線がさらに増えて、もはや本当に網のようだ。
「いやいや、これはさすがに違うでしょ。管理用路線まで入れたらこうなるのはどこも同じだってえのよ」
無言を破ったチエが操作すると、路線は少し減って網の目が粗くなった。それでもアラシの操作する前よりは増えている。
「まあ盆地の内側は遺跡の名にふさわしいけどね」
「まあ内側はそりゃ……そういえば、さっきこいつ片斜面しか見てなかったわよね」
「えっ、あぁほんとだ。エレベーターの降り口がそっちに向いてるから、まあ気づかないよ」
片斜面と両斜面。見ればわかると思っていたけれど、まさに片方だけわかったんだろう。
「でも、見ようともしなかったってえのはさ、見飽きたって勘違いしてるみたいでなんだか腹立つのよ」
見飽きた。勘違い。どういうことなんだろうか。
「チエはなんだかんだで荒原の荒原っぽさを気に入ってるよね」
「らしさが好きなだけよ」
マナジンの順番が来る。ここへ来た時にはうまくできるか不安があったけれど、遠い出来事のように思えてしまう。気づけば荷物を取って列を抜けているくらいに、慣れの果てに到っている。
「南北連絡線ってあれ?」
乗ってきた鉄道の方向にほぼ垂直をなしている線路をチエが指す。すでに車両が停まっていて、乗降口はすべて開いているのが見える。
「そうそう、三番と四番。予約したのは四番に来てるあれ。座席は一三列の一から三までね」
よく見れば線路は奥にもあるらしく、手前の車両の停まっているほうには『四番』と書かれた番号札がいくつか掲げられている。
「かなり違うんだな」
「ん? なにが?」
「車両が、なんというか……より多くの人が入るようになっている」
サイトにあった、大人数が集まる部屋が思い出される。ちょうどこんなふうに席が整然と並んでいた。背面の有無は異なるけれど。
「距離が違うからね。旅というより移動の性質が強いんだよ」
理に適っているということだろうか。
「思ったより空いてるわね」
チエが先頭で車両に入る。
「車両の数が多いんだよ。あと本数もね」
チエがよどみなく荷物をマナジンへ入れる。アラシもそれに続く。背負い方や持ち方がいつもと違う気はしていたけれど、よどみなく上げ下ろしをするためなのかもしれない。しっかり背負っていた時よりも明らかに素早い。慣れは果たしたと思っていたけれど、違うらしい。
車内は通路を挟んで三席ずつの座席が何列も並んでいる。チエはすでに中ほどまで進んでいる。
「チイが窓側ね」
「カームに譲らないの?」
「そいつ酔わないでしょ」
「あぁ……確かに酔わないね」
酔うようなものを摂取しないから当然だ。
「お前は酔うのか?」
「場合によるけど、酔うことはあるわよ。今日はそういう場合の日なのよ」
なにを摂る気なんだろうか。
「まあこの順で座れば、チエ、私、カームの順で座るから、それでいいよ」
アラシは酔う人だったな。なんにせよ、僕は摂らないだけだ。
「窓側に座れば酔わないのか?」
座りながら訊いてみる。
「まったく酔わなくなるわけじゃないけど、酔いにくくはなるね。自分の感覚がずれることで起こるものだから、窓の外を見て自分が動いているって感覚を増やすのは移動酔いの予防になるんだよ」
チエは酔うけれど、酔いたくはない――――
「『移動酔い』?」
「えっ、うん、移動酔い」
あぁ、そうだったのか。まったく違うことを考えていたんだな。
僕はここまで移動酔いをしていない。アラシは僕が酒を否定したことではなくて、僕のこれまでの移動の様子を思い出していたのか。
移動酔いは感覚がずれていることの知覚によって起こる。感覚が鋭敏であれば、ずれの感知も鋭敏になり、移動酔いが激しくなる。アラシが『風の空白』で紹介していたことだ。
僕は移動酔いをしない。ということは、僕は鈍感なんだな。
風旅は感覚が鋭敏であることが資質として求められそうなものだ。鈍感な僕は――――
「良かったねチエ、酔うのはチエだけみたいだよ」
「良くないわよ」
……僕は推測をしないほうがいいのかもしれないな。
きっと、慣れはすぐには果たせない。加速や減速の慣性だって、今は慣れた気がしているだけだろう。鉄道だって、サンセンまでの長い移動を経験して、これで一時間程度の移動も経験したけれど、ただそれだけだ。アラシやチエと比べれば、きっと遠く及ばない。
移動を経て、乗り物から降りる。この動きひとつをとってみても、僕はやっぱり『見習い』なんだろう。そういえば、『果ての箱』を発ってからまだ一〇日も経っていない。理不尽なことはなにもない。
だから、僕は習わなければならない。チェルではゆっくり過ごす。アラシはそう言った。チエと僕はアラシに楽をさせる。そのために多くを見習うことになるだろう。この地で、それをするんだ。
あぁ、これだ。これが、旅にはある。
目的地は今までもあった。けれど、そのどれもが経由地だった。
この地は違う。長く留まるということは、その地にこんな意味を与えることでもあるんだろう。少なくとも今は、そう思っておこう。
「言葉は、突き上がる」
「ん?」
「なによ?」
立ち止まる気配。僕は上方の表示を見上げる。
「やっと着いたな。長かった」
チェル。高楼大陸最大の都市。そして、目的地だ。




