第25話 「知るべき」
消えゆく運命にある感覚に意識のすべてを浸そうとして、窮屈になってゆく。今、僕は余韻というものを感じているのかもしれない。
アラシやチエに訊けば、これが本当にそうなのか分かるんだろう。けれど、今はなぜか、確信できるところまで自力でたどり着きたいような気がしている。
「さてと、桜風に関係する物語に触れたところで、これから三ヶ月以上を過ごすことになる高楼大陸とチェルのあれこれをチエ先生が教えてくれるそうですよカームさん」
もう浸っていることはできないらしい。
「その話し方、本気じゃないということだな」
「あれ?」
この戸惑いは真実を見抜かれたことによるものだろう。
「見抜かれてますわよアラシさん」
「いやいや、今後しばらくはこうやって二人の行動を促すだけって決めてるんだよ。で、今はチエのほうが高楼大陸のことをたくさん知ってるから、先生役にふさわしい。そうでしょ?」
アラシはなんだか愉快そうにベッドでくつろいでいる。こういう姿にさせてやるのが“楽をさせる”ということなんだろうか。
「……まあ、教えるのはいいけど、なにを教えりゃいいのかが曖昧なのよ。せめて最初になにを教えるかは決めてくんない?」
「そこも自分たちで決めてこそだけど……最初は仕方ないか」
アラシが身体を起こし、少し考え込む。
「じゃあ、まずはチェルのことかな。桜州高原のことも絡められて、そこから桃州連や高楼大陸の国の話に繋がるから」
「あぁ確かに……じゃあそうする」
チエがアラシの差し出す板型端末を受け取り、操作を始める。
「えっと……まあ画像地図があればいっか」
画面上にソーモン荒原で見たものと同じような地図が表示された。
「今いるのはここ。乗車駅はここで、乗り換えのサンセン駅がここ。そのあと降りるメイユウ駅を中心にした都市がチェル。高楼大陸にある二つの国家のうち、北部と中央部を占める桜州高原の首都よ」
チエが地図の表示範囲を南へと移動させながら、都市を示す点を指して教える。
「ああそうか、チェルは盆地の底にあるんだったな」
高楼大陸中央部にあるリウキン大盆地は、『ダ・イエラ』の高楼大陸の章で早めに紹介されていた。サンセンは大盆地の北縁にある。
「ああ、それは知ってんのね。そっか、あんたそういやずっと本を読んでたわね。じゃあチェルのことくらいは知ってんじゃないの?」
知ってはいるけれど、その知識が今と違っていないとは限らない。どう答えればいいんだろうか。
「あっ、でもあんたの『ダ・イエラ』ってけっこう古いやつよね。だったら、桜州高原と桃州連に分かれたのは知ってんの?」
「ああ、知っている」
高楼大陸は桜州高原と桃州連の二国家に分かれて久しい。大陸の北部と中央部を桜州高原が、南部と東西沿岸部を桃州連が占める。そういえば、まだ桃州連の領域に入っていないな。
「じゃあ、大開発でチェルの東西がごちゃごちゃしたってえのは?」
「ごちゃごちゃ?」
言葉の意図はともかく、チェルが東と西に区別されたということなら、それは知らない。
「まあ、ちょっとした内紛ってとこね。西側は開発を受け入れて、東側は拒否したのよ。そしたら、西側は機械街区に、東側は赤練の街並みに、って感じで、まあ全然違う地域に分かれちゃったのよ」
「同じ街なのにか?」
「同じ街なのによ」
チエはアラシの視線に気づいていないようだ。
「同じ街だからこそごちゃごちゃしたのよ。街並みにはいいとこもそうじゃないとこもあるってえのに、お互いの街並みをけなしたり、それぞれの街の自然な姿を壊そうとしたりね」
それはもはや同じとは言えないように思える。
「まあ、そういう激しい対立はあんまり長くは続かなかったけど、それから数百……えっと何年だっけ……まあいいや、数百年経った今でもチェルの東と西はいがみあってるらしいわよ」
「なんだか……ソーハンみたいだな」
考えがあっての言葉のはずなのに、声となった途端に分からなくなってしまった。
「なんでソーハンなのよ?」
「えっと……」
言葉にできるだろうか?
「街の見た目が分かれている。ソーハンだと、港の人と市場や店の人とが互いに少し穏やかじゃなさそうな雰囲気で接していたように感じた。見た目じゃなくて、感じた。だからおそらく雰囲気だと、そう考えている」
「……あんたって、どこ見てんのかもなにをどう考えてんのかも、ほんっと分かりやすく見せてくんないわよね」
やっぱりうまく伝わる言葉にはならなかったようだな。
「まあ、同じ国にあるから似てもおかしくはないけど、ソーハンとチェルとじゃ、対立の原因になったものがちょっと違うのよ。統一政府の意向が介入したのがチェルで、ソーハンは……あれはもう、あそこの人たちだけで勝手に始めて勝手に続けてんのよ」
チエが呆れ笑う。僕も聞いていてソーハンの人たちの争い方には呆れそうになる。とにかく、不穏を感じる必要は無かったらしい。
そもそも、自分がソーハンの人たちの雰囲気に不穏を感じていたというのは、今になってようやく自覚したことだ。感じたその時にほとんどなにも意識しなかったんだから、やっぱり大したことじゃなかったんだろう。
「チェルのごちゃごちゃで統一政府は方針を改めたってことらしいけど、なんていうか、高楼大陸がずっと統一政府に加わらなかったのがなんでなのか、ちょっと分かる気はするわね。たぶんそういうことが起きるって予想してたのよ」
そういうこと。外からのなにかに内が変えられること。それは、きっとこの世界ではそれなりに起こりうることなんだろう。僕には経験の少ない現象だ。
「めちゃくちゃたくさんの国がある大陸だったのに、減りに減って今は二つだけってえのも、ちょっと変わりすぎてる気がするのよね。まあ、今じゃそんなこと地元の人でも言わないけどさ」
いつも外からのなにかのほうが変わっていた。内が変わることに伴う思いを、僕は知るべきなんだろう。
チエからチェルに関する歴史的な知識をひとしきり教えてもらい、チエがようやくアラシの視線に気づいたのは、きのうの夕食の時間だった。
夕食は客車で摂った。“漉し大豆の小箱”だったか、その料理が名前も味もとても特徴的というか、味はほとんど舌への衝撃に近く、他に食べたはずの料理を思い出せなくなるほどだった。味の詳細な記憶は残っていない。もはやただ衝撃だけが残っている。
そして、何日ぶりか、チエが“幼くて甘えたがりの女の子”へと変わってしまった。
「なあ、アラシ」
思うことがある。だから、眠りつつあるチエの頭をそっとなでるアラシに声をかけた。
「ん?」
「チエはどうしてこういうことになるんだ?」
「『こういうこと』って……こういうこと?」
アラシがその右肩にもたれかかっているチエを見やる。
「ああ」
きっとアラシの意図は外していない。
「『どうして』ねぇ……」
チエが小さな声でなにかを呟き、アラシが少しずつチエの身体を寝かせてゆく。いくらか経って、チエは完全に眠りに入った。
「この子は、サンベイル諸島っていう、高楼大陸の南にある島国の出身なんだよ」
チエの額にかかる髪を、アラシが指でそっと分ける。
「いや……“あった島国”って言ったほうが、今は正しいかもね」
指はさらにチエの目元へと伸びて、そこでようやく気づく。
「『あった』?」
中指の腹に、涙の雫が乗る。
「そう。サンベイル諸島はね、『死火山新生』という大災害で東部行政区のほぼ全域とその住民のほぼすべてを失ったんだよ。当時の私はメルクレイムの調査でその現場の上空にいて、一緒に観測船に乗っていたのが……チエだった」
涙の雫を中指と親指とで挟み、指の腹に擦り広げる。
「離脱途中にね、チエの生まれ育った島の上空を通過したんだよ。まさに大地に呑み込まれるところだった。誰も生き残れないのは、見れば分かることだった」
左膝を立て、左肘をその上に置き、自分の頬を左肩に当てる。
「チエは……それを見てしまったんだよ。チエには絶対に見せないように閉じ込めさえしたのに、どういうわけかチエは抜け出して、目の当たりにして、理解したんだよ。家族のその瞬間が見えるほど低くはなかったけど、それでも、チエは自分の家族がそうなるって理解してしまったんだよ」
そうなる。つまりそれは、命を失うということ。それは分かる。
「その日から、私はチエと一緒に生きてきた。観測船に乗せ、命を救い、家族と引き離してしまった責任を負うためにね。もちろん、今はそれだけで一緒にいるんじゃないけど」
アラシが顔を起こし、僕を見据える。
「チエのこんな姿を受け入れるのは、私の果たすべき責務だから。カームは受け入れなくてもいいんだよ。いつかチエがカームにあの日のことを話しても、チエのこんな姿を受け入れなくちゃいけないだなんて思わなくていい。それでもしもチエがカームを詰っても、それは私がきちんと果たせていない、負いきれていないせいだから」
強さだ。やっぱり、アラシにはこういった強さがある。優しさも、アラシはこの強さとともに持っているんだろう。
僕にはそんな強さなんて無いはずだ。けれど、見据えるアラシに僕は怯まなかった。怯んでしまうものだということは分かっているけれど、そうはならなかった。
欠けているのかもしれない。いや、きっと欠けている。僕には、アラシやチエ、この世界の誰もが持っているはずのなにかが無い。
「これはチエからも聞くべき話だと思うんだが、違うか?」
「ううん、そのとおりだね。ごめん、ちょっと冷静じゃなかった」
今のアラシは、優しい。強さの束が解けてゆく。そんな感じだ。
今のチエは、幼い。鋭さの芯が溶け消えている。そんな感じだ。
今の僕は、分からない。それでも、確かめようとは思っている。人間見習いのままでいるつもりは、無い。




