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誰よりも軽やかな風  作者: 雪原たかし
第2章 『高楼大陸にて』
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第21話 「歌声だから」

 振動はずっと微かなものだったから、今となっては気にならない。窓外の景色は、地下を走行している時よりも変化が大掛かりで遠い。ブレッドを食べ終えてから身動きをせずに荒原を眺め続けて、色の移ろいから、背後の夕日を想像してきた。そのとおりだとすれば、今はまもなく日没となるくらいの高度のはずだ。

「あぁもう暇ぁ!」

 チエが『やさしい代数』を勢いよく閉じるのが見えて、いくらかぶりに視線を車窓から外す。

「できたの?」

 アラシはいつの間にか仮机を出して紙類を広げている。

「できるわよこんなの」

「やったの?」

「やった」

 チエがアラシの仮机に筆記用の冊子を投げやる。アラシは冊子を開いて目を通し、軽く頷くと冊子を閉じた。

「じゃあ……なにをする?」

「それに悩んでるってえのよ……なに?」

 チエが僕の視線に気づく。

「本を閉じるのが見えたから、目が移った」

「そんなことで気が散るわけ?」

「気が散る……というよりも、関心の相手がなめらかに移った……というような変化だった」

「あぁ……いや、あんたの言いたいことはなんとなく分かるけど、もっとスパッと表現できないわけ?」

 チエが手で縦切りの仕草をする。

「そんなに難しくない表現だったと思うけど?」

「“気が散る”くらいスパッと表現してほしいのよ」

「それ私でも難しいよ」

 どうやら相当の難題のようだ。

「おそらくだが、僕にはそこまで簡潔に表現することはできない」

「……まあ一応は分かったからいいんだけどさ」

 簡潔な表現はチエの好みなんだろうか。

「てかいつまで食べ終わったお皿を置きっぱなしにしてるわけ?」

「皿……そういえば、皿はどこへ持っていけばいいんだ?」

 器洗機の類は見当たらない。

「ああ、お皿はマナジンに入れて“食器類返却”を選ぶんだよ」

「分かった」

 マナジンの使い方には慣れてきたような気がする。自分で運んでいないものを取り出せるというのは、まだ少し奇妙だと思うけれど。

「で、暇なんだけど」

「そんなこと言われたって、物語とかを拒むんじゃあ、私から提案できる暇つぶしなんて無いようなものだよ」

 暇つぶしとやらを考えたほうがいいんだろうか?




 マナジンで皿を返却して数分ほどといったところだろうか。暇を潰す方法が思いつかないのはチエも同じらしく、断続的に「暇ぁ」と声に出している。時々その声が歌のように聴こえるけれど、そう思った時にはもう黙っていたり唸っていたりする。

 あっ、これか。

「チエは歌えるのか?」

「えっ、はぁ?」

 チエが眉を歪める。予期しないという反応だろう。

「あんたってまたこういきなり……で、歌えるかって?」

「ああ」

「そりゃあ、それなりには歌えるわよ」

「それなら、歌って暇をつぶすというのはどうだ?」

「いやいやいや、そんなのダメに決まってんじゃない」

「どうしてだ?」

「アラシは確かに集中してる時はこのくらいの話し声程度なら気にしないで作業するけど、歌だとさすがに集中を切らしちゃうわよ」

「私は聴きたいけど?」

 アラシが唐突にチエのほうへと顔を向ける。

「うわっ、集中してたんじゃないの?」

「してたけど、気になることが聴こえたから」

 作業の手を止めて、アラシは身体もチエのほうへと向けた。

「それで、なにを歌ってくれるの?」

「なぁんでこんな時に歌わなきゃいけないってえのよ」

「暇なんでしょ?」

「暇だからってだけで歌うほど、チイは単純じゃないわよ」

「じゃあ、カームにチエの歌声を聴かせてあげ――――」

「余計に嫌」

 そういえば、ソーロが歌っているのを聴いたのは、まだソーロが僕たちの来訪に気づいていなかった時だったな。

「『夜より告げよ』なんてどう? お気に入りなんでしょ?」

「だからぁ――――」

「聴きたい」

「嫌だって……えっ」

 チエとアラシの顔がこちらに向く。

「おっ……おぉ、ほらほらカームがこう言ってるんだから」

「なんでよ……なんで聴きたいわけ?」

 あっ、えっ、僕が言ったのか?

「えっと……」

 なにを言った? いや、それは分かっている。

 どうしてだ? どうして僕は聴きたいんだ?

「聴き……たいんだ」

「えっ、いや、それ説明に――――」

「聴きたいんだ。それだけなんだ。それ……だけなんだ」

 なんだ……この言葉は。

 説明がまったく存在しない。すらすらと言えもしない。声だけが弱まらずに出た。

「チエはここまで言われて退く人間じゃないよね」

「なっ……うわぁ、アラシもそんなずるい説得するのね」

「今回だけね」

「そう言う人は“今回”を何度だって更新してくんのよ」

 チエが身体を大きく使って長いため息をつく。

「分かったわよ。なんの補正も効果も無いからひっどい歌声になるけど、それでもいいんでしょうね?」

「おうおう照れ隠しだ」

「事実よ事実」

 チエがベッドから立ち上がり、やや広めに空いている場所へ移動して、ため息を挟んでからこちらへ向き直る。

「えっと、あんたは『夜より告げよ』って知って……いや、そんなわけないわね、サンベイルの古い歌だし」

「ああ、知らない」

「そもそも、知ってる歌ってあんの?」

 歌や音楽は聴いたことがあるけれど――――

「どれも曲名が分からない」

「全部分からないってこと?」

「ああ」

「どんだけ歌に興味無いってえのよ……それで『聴きたい』なんてどういう考えしてんだか」

「これは……発声練習というものか?」

「そんなわけないでしょ」

 言おうとする前から違うとは思っていた。

「まあ、それじゃあ『夜より告げよ』で」

 チエがため息をつく。いや、ため息じゃない。そんな投げやりなものじゃなくて、どこかに確かな柱を残しているような――――


“陽に晒せば還るのみ”


 今までと、違う。

 息の吸い方。声の出し方。響きも。通りも。

 なにより、言葉がただそれだけに留まらない。


“ならば夕刻に始めよ”

“夜を渡りきれずとも”

“待ち人座する夜半に到り”

“告げよ 幾世を経てもなお”

“荒れずここ在る今夜の言”


「ふぅ……やっぱぶっつけはきっつい」

 なんだ……さっきのは……

 チエだった。チエだった……のか?

 ずっと言葉だけでなく声色まで荒れていたというのに。

「よかったよ。さすがチエだね」

「久しぶりだしやたらと長音の多い歌だしですっごく疲れた」

「だろうね。けど、なんで統一語のほうで歌ったの?」

「どっちでもいいじゃない。気分よ気分」

「カームが分かるようにって気配りじゃないの?」

「一発で歌詞を聴き取れるわけないでしょ。どっちでも同じよ」

「ふぅん」

「またそういう顔してさぁ……」

 チエが振り向く。思わず身体がわずかに退く。

「それで、お望みどおり歌ってやったわけだけど、これで満足?」

「えっ、ああ」

 今までのチエだ。さっきまでの透いた歌声のチエじゃない。

「ていうか、そもそも暇つぶしを探してたはずよね。それがなんでこんなにまともな時間の使い方してるんだろ。わけ分かんないわよ。おまけに歌ったのが『夜より告げよ』ってさぁ……」

 歌だったからなのか? チエが歌ったからなのか? チエがそう歌ったからなのか?

「練習しなきゃなぁ……あっ、チェルに着いてからの予定は?」

「あそっか、まだ決めてなかったね」

「決めるって言っても、ほとんどアラシの提案どおりだけど」

「カームおいで、予定決めするよ」

 視線を向けると、アラシが手招いていた。

「ああ……ん? 予定決めってなんだ?」

「そのまんまよ。予定を決めるの」

「僕も決めるほうなのか?」

「一応ね。自分の予定は自分で決めるのが原則なのよ」

「まあ期間は限るけどね。今回は、そうだね……長くて三ヶ月かな。それからようやく桜風に会いに行くって予定」

 あれ、前に言っていたものよりもかなり延びているな。

「一〇日かかったりはしないんじゃなかったのか?」

「えっ、いや今回はそのくらいかけ……ああ、そうじゃなくてね、桜風に“出会う”のは、まあ一応は出会ったようなものなんだけど、チェルに着いた時になるんだよ。でも、桜風に“会いに行く”のはまた違う場所に行く必要があるってこと」

「“出会う”と“会いに行く”は違うのか?」

「うん。たぶんだけど、カームも実際に“会いに行く”時になれば分かるよ」

「そういうものなのか」

 分かるんだろうか。いや、分かるんだろう。

 僕とチエが集まると、アラシは板型端末を仮机の上に置いた。

「まあ、とりあえず桜風の再採取の出発は八月一五日を予定して、今日はそれまでの間に全員が揃わなくちゃいけない日と、明日から二週間分くらいの各自の予定を確認することにしよう」

「ねえ、こいつの予定って今は立てようが無いんじゃないの?」

 チエが親指を向けてくる。

「そっか、言われてみればそうだね。初めての場所だし、調べ方も知らないって、そういうことか」

「調べ方というのは、チェルについて調べる方法のことか?」

「うん。まあ私のほうで用意してあげても済むけど、今後は自分で知らないことを調べる方法を学ばなくちゃね」

「その端末を使うのか?」

 アラシはなにをする時でも大抵は机上の端末やそれよりも小さい端末を携帯していた。きっと様々な機能を備えていて、その中には調べ物のための機能だってあるんだろう。

「まあ、これでもいいけど――――」

「それを使うには覚えなきゃいけないルールが山ほどあんのよ」

 失敗すればかなりの損失に繋がるということだろうか。

「それを覚えたら自分で調べてもいいということか?」

「覚えても、実際になにかしでかさないってアラシがあんたを信用するまで使えないわよ。それ、めちゃくちゃ古い端末を超改造して使ってるから、いくつか致命的な欠陥があるしね」

「超改造って、そんなにいじってないのに」

 アラシが指で端末をコッコッと軽く叩く。

「外見以外はどこも手が入ってるんだから、その否定は苦しいわよ」

「うーん……まあ、それはさておき、とりあえず固まっている予定から確認するよ」

「はいはい。とりあえず明後日の朝までこれに乗ったまま……てかやっぱこの鉄道の移動が長いのってどうにかできなかったわけ?」

「長いといっても、一応は娯楽の揃ってる移動手段だよ?」

「チイにとってはどれも暇つぶしにもなんないのよ」

「触りもしないでよく言うよ」

「触らなくても分かるわよ。てかこの日は――――」

 ああ、もう日没が過ぎていたんだな。

 窓外では紺青の陰影がゆったりと流れている。慣性力をまったく感じなかったから、車両の速度は変わっていないはずだ。それでも、ゆったりと。色の影響だったりするんだろうか?

 日没をなにか特別なことのように考えていた。

 筆記具は、もうここにある。けれど、書き残そうとは思わない。日没を見逃したことも。今の思考も。感情も。そもそも感情を書き残せているのかは分からない。なぜか今は書いたものを読み返す時じゃないと思える。

 見飽きたわけじゃないとは思う。それはチエくらい何度も見ればなるかもしれないものだろう。ただ見る方法を持たなかったから。直接は見えずとも光色の移ろいで感じ取っていたから。そういった理由なのかもしれない。

 ただ、今はどうしても、落ち着かないな。

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