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誰よりも軽やかな風  作者: 雪原たかし
第2章 『高楼大陸にて』
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第20話 「停滞する変化」

 仮机を出し、ベッドの上に脚を伸ばして座る。アラシもベッドの上に座って……いや、寝転んだな。手には板型端末を持っている。チエは『やさしい代数』と筆記冊子を広げ、ペンを冊子に走らせている。

 今は僕たち全員がとても緩やかな姿勢でなにかに向かい、静かな時間を過ごそうとしている。これまでとはまた違う状況だ。

 仮机の上に『ダ・イエラ』を置き、開く。読むのは久しぶりだ。前はどこまで読んだか……

 そうだ、僕も復習をしようか。




 ポーン、キーン。

「なっ」

 突然の音。思わず身体が跳ね、声が出た。

 けれど、アラシとチエはまったく動じていない。

『ホンチョワン鉄道・四番系統・ソーモン線・寝台特別急行五一号メイゲン行、発車定刻となりました。乗降扉を閉めます』

 あっ、上部の隅に拡音機があるのか。

 “発車定刻”……ということは、いよいよ鉄道が走り出すのか。今の時刻は……分からないな。

 遠くでシュウゥと滑るような音。そして、車両の扉から、ガチッという施錠音らしき音。

『発車いたします。加速慣性にご注意ください』

 音声が止むと――――身体がクッと横に引かれた。

「んっ」

 身体がこわばる。最初の瞬間を最大に、それからわずかだけ弱い力が、身体を倒そうとする。

 ベッドの上にいるから、そのまま倒れても怪我はしないはずだ。けれど、なんだかどうしても抗おうとしてしまう。抗えないほどの強さじゃないからというのは、理由に入っているんだろうか?

 窓の向こうに見える黒い壁のようなものが、過ぎる速さを次第に増してゆく。短くとも数分は慣性力が弱まることなくかかり続けて、それがゆっくりと消えてゆき、停止していた時と同じような感覚に戻った。微細な振動と、かすかな中低音が加わっている。

『この度は、ホンチョワン鉄道のご利用、ありがとうございます。当列車は寝台特別急行五一号です。スーコン駅の発車時刻は一五時五〇分ちょうど。加速時間は一〇分。いずれも定時どおりでした。以降の停車駅、到着・発車時刻に変更はありません。なお、本日の地上到達時刻における太陽高度は約四四分前、到達から日没までは約一時間一〇分でございます。それでは、スーコン・スーカン間の情報をお伝え――――』

「ねえ、切っとこうよ車内放送」

「そうだね。えっと……“『車内放送省略』を設定します”」

「『音声操作を確認しました。これ以降の車内放送を省略します。緊急時、加減速時、降車駅到着時には放送が入ります』」

 拡音機が静まる。音声操作機器なのか。珍し……くはないのかもしれないな、この世界では。

「なあ」

「ん?」

 アラシが振り向く。

「この列車は地上に出るんだな?」

「そうだよ」

「いつ頃に出るんだ?」

「えっと、四時間くらいだから、二〇時……いや、もう少し早めに出るかな」

 ということは、窓外の黒壁が四時間ほど続くということか。

「…………」

 手が本を開こうとしない。目に留まらない速さで過ぎてゆく黒の平面を目が捉え続けている。まるで画面に不規則な陰影模様を投影しているかのように見える。この車両が通っている地下空間の側面には無数の物体があるんだろう。もしも一様な面ならば陰影模様はできないはずだ。

 絶え間なく、それぞれには絶えながら、車窓を水平に横断して、線を描く。僕が動いている証。僕が進んでいる証。

 僕はこんな変化を好んでいるのかもしれないな。




「ちょっとぉ? おぉーい?」

 僕の肩がトントンッと何度も叩かれている。

「なんだ?」

「きゃっ」

 振り向くと、すぐ隣にいたチエが飛び上がった。

「また……もう、あんたってほんっと分かんないわね」

「少し早めに夕食にしようかなってね」

 アラシは通路側の扉……だったか、とにかくまだ使っていない扉の前に立って、こちらを見ている。

「今は何時だ?」

「えっと……一九時半ぐらい」

 もうすぐ地上に出るということか。

「食堂車に行こうかって話になったんだけど、それでいい?」

「それ――――」

 喉が、締まる。顎が引いて、視線が落ち――――

「――――はよくない」

「えっ」

「はぁ? なんでよ?」

 アラシも、チエも、驚いている。けれど、僕だって驚いている。一瞬の断絶を経て、返答がまったく変わってしまったんだから。

 なにをもって“よくない”と答えたのかすらも、分からない。

「この寝台特急の食堂車ってめちゃくちゃ人気なのよ?」

「チエ、ちょっと――――」

「それがアラシのスポンサーのおかげで優先利用できるってえのに、あんたはなにがよくないって言いたいわけ?」

「チエ、やめて――――」

「あんたの意味不明な反対――――んぐっ」

「ちょっと黙って」

「……んん、んんっん」

「…………」

「…………」

「…………」

「……予約してたわけじゃないし、ここで食べよっか」

「なんっ……はいはい分かったわよ」

 顔を上げてはいけないような気がする。

 じゃあ、いつまでこうしていなければいけないんだろう?

 あの反転の理由を思い出すまでだろうか?

 アラシもチエも“顔を上げるな”とは言っていないし、アラシはそう思ってもいないんだろう。チエはそう思っていても不思議じゃないけれど。

 思い出そうにも、覚えていそうにない。

 どうしてよくない? どうしてよくないんだ?

 どうして……“それでいい”と言い直せないんだ?

 どうして……どうして……




 視界の上縁に居残る車窓。ずっと黒い壁。現実で変わっていても、変わっていないように見える。

 駅へと降りる階段と同じ、変化の停滞。それを、今も感じている。

 変化することも、停滞しうる。変化にさえ、停滞がある。だから、変化を変化させようとして、変化させようとして、変化させようとして……いつか止まるんだろう。その“いつか”が遠い未来になるような抵抗は、いつまで続けられるんだろう?

 ああ、そういえばもうすぐ地上に出るんだったか――――

「…………」

 東向きの車窓。地上に出たけれど、夕日は見えない。昼ごろまで見ていた、茶色がちでゆるやかな起伏のある荒原が、今では陽光の朱を薄く受け止めている。ただ暗くなっているだけなのとほとんど変わりは無いように見える。

 けれど――――

「…………」

 淡色ばかりの車窓風景。車両は走っていて、僕は窓外を眺めて、止まろうとしている。変化の停滞を拒みたがる思考が、少し前から絶えていた身動きが、止まろうとしている。

 いや、いつの間にか顔を上げている。顔を上げたのは、おそらく地上に出た瞬間だろう。

 ただ、今はまた止まろうとしている。

 眺めていたくなっているんだ。鮮やかさを、激しさを、眩しさを、すべて薄めたこの景色を。

 止まりたくなっているんだ。眺めるために。

 どちらかだけを続けようとしなくてもいいんだろうか?

 そうなのかもしれない。停滞と変化の両方を受け入れ、求めようとしてもいいのかもしれない。

 続いてゆける。それだったら。

「気は済んだわけ?」

「ああ。さっきはすまなかった」

 車両の進行方向にある角丸の椅子に座っているチエのほうを向く。景色は見えなくなる。けれど、拒みたいわけじゃない。

「謝られても……もう食べちゃったし」

 不満そうには見えるけれど、怒りのようなものは感じられない。むしろ諦めのようなものがあるように見える。

 仮机の上に平たいブレッドらしきものがあるのを見つけ、視線はチエの隣の椅子に座るアラシのほうへと向かう。これも、拒みたいわけじゃない。

「アラシも、すまなかった。実のところ、わけもなく『よくない』と言ってしまったんだ」

「謝られても……もう食べちゃったし」

 言葉だけはチエと同じで、口調も、表情も、感情も、柔らかい。

「ちょっと、真似しないでよ」

「真似してないよ」

 チエが諦めと微笑みを混ぜ合わせる。

「でも、チエだって“なんだかいいな”って思わなかった?」

「なにを?」

「私たちだけの車両でさ、夕暮れの荒原を、夕日が直射しないから存分に眺められて、そういう夕食というのも、なんだかいいなって」

「思……わなかったわよ」

 反転の気配を感じた。アラシもどうやらそれを感じ取ったらしく、ニヤリと笑った。

「カームも夕食にしなよ」

「ああ、そうする」

「私たちは最初の数分くらいは真っ黒な壁しか見えなかったんだよ。でも、カームは最初から風景を見ながら食べられるね」

「まあ、その代わりに料理のほうは冷めてるけどね」

 景色に意識を割きながら、食べる。ブレッドを手で割きながら、食べる。食べるほうに意識を割きながら、景色を眺める。釣りあい、崩れ、また釣りあって。

 風景は変わらないようにも見えて、意識が深まればその移ろいに気づいて、視線を手前に引けば、移動の速さが際立って見える。

 悩みすぎたんだ。きっとそうだ。

 悩むことに慣れていないのに、悩もうとした。まさに愚か者だ。

 変わればいいし、止まればいい。巡ればいいし、逸れればいい。きっと、どちらでもいいんだ。

 ただ、料理は冷めていないほうがいいな。

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