第19話 「深地下まで」
踊り場を持つ階段。反転を繰り返しながら降りてゆく。
同じ長い階段でも、『箱』の側面のものとはかなり違っている。光源に明るく照らされていて、両側には壁があり、手すりがあり、終点は見えない。踊り場までの区間が何度も繰り返されている。
あの時は登っていたけれど、今は降りている。誰とも出会わず、追われてもいないのは同じ。結局のところ、アラシとチエは昇降機というものを使うことにしたようだ。
自分のことを自分に任せてもらったのか。放り出されたのか。
靴がぬそっぬそっと音を立てる。不透水カバーはもう必要が無いはずだから、脱いでおこうか。
ひた、とた、と靴音が少し軽くなる。なんだか気分がいい。
靴はずっと必需品だった。なにを踏んでもいいように、底の厚いものを見つけては、持ち帰って予備として積み上げていた。けれど、底の厚さや摩耗の少なさ以外の要素を考慮したことは一度も無い。あって当然。身体と同じ。
それが、今こうして……いや、装備としてこの靴を選んだ時から、いくつかの要素を好みとして求めるようになっている。底の硬さ。スパイクなどの付けやすさ。そして、靴音。
人間は好みを選択の基準要素にすることが多いんだそうだ。僕も好みを持っていいんだろうし、むしろ持たなければいけないのかもしれない。食器を選ぶ時には砂紋を好んで選んだし、靴音が好みと違うから、不透水カバーを外した。
階段を降りる速さが増してゆく。靴音が輪郭をはっきりとさせてゆく。思いつくままに段を飛ばしてみれば、視界の単調さを逃れて音は変わり続ける。角ばった螺旋をなぞって、上へ、下へ、靴音は駆け去ってゆく。タッ、タッ、タタッ……タンッ、タッ、タッ。
「ふはっ……ははっ……」
跳ね上がる。飛び跳ねる。身体だけじゃない。感覚が心を捉える。
タッ、タッ、タッ、タッ、タタッ、タッ、キッ。
「……長いな」
あの階段を登っている時には、こんなことを思わなかった。
たとえ遠くても、そこまで道が続いているようには見えなくても、終点が見えているというのはとても頼りに思えるものだったんだと思い知る。
足が止まれば、変化はすぐに失せてしまう。
あの階段よりはきっと短い。しかも降りるばかり。
だから、進める。だから、進もう。
変え続けていないと、止まってしまうんだから。
今になって思えば、この世界での時間よりも、『箱』での時間のほうがはるかに長い……はずだ。いや、実のところは、『箱』での時間の長さは自分でもはっきりとは掴めない。時間の意識を持って生きるようになったのはここ数日のこと……そう、ここ数日のこと。そのはずなのに、時刻の意識が自然に身についているのはどういうわけなんだ?
そんな習慣を、僕はこんなにも短い時間で、誰に教えられるでもなく身につけたというんだろうか?
そうは思えない。この短期間で数多くの未知と出会ったけれど、そのどれとも違う対応になっているんだから。
予想だけは固まっている。けれど、それを肯定しようと思えば、途端に思考と感覚が冷たく締め上がる。ただの予想なのに、ただの可能性なのに、まるで意識がそれを恐れ、拒もうとしているように。
時刻窓を見やっただけでこんなにも深刻な思考になってしまった。怖がるようなことじゃないはずなのに。
過去のなにを怖がることがあるんだろう?
これだけ長いと、使う人間は少ないのかもしれない。あるいは、いないと言ってもいいのかもしれない。階段を登るのは疲れるし、痛み無く降りようと思えば力が必要になる。昇降機ならそのような労力を使わずに済むんだろう。僕も昇降機を使えばよかったな。
どうして階段を降りているんだろう?
理由が分からない。自分のことなのに。
あぁ……どうして気づかなかったんだろう?
踊り場に“現在地の深度”と“駅までの残り深度”があるなんて。
しかも、もう駅までいくらも残っていない。
あっ、微かに人の声が上がってきているじゃないか。
……まあ、もう着くならいいか。
長い階段だったな。
五段。四段。三段。二段。一段。
階段の終点。半円筒の通路が続き、少し向こうで左へ折れている。
平らな場所なのに、まだ誰もいない。声だけが聞こえてくる。
踏み出して――――コンッ。
あぁ……これだ。やっぱり、これがいい。
「やあ、数十分ぶり」
駅の出入口と思しき、半球状の巨大な空間。通路からそこへ出た瞬間に、すぐ隣から声がやって来た。
振り向けば、軽く手を挙げているアラシと、腕を組んでため息をつくチエ。二人とも防寒着を着ていない。そういえば、ここは上と違って暖かいな。
「あと一〇分遅かったら、こっちから迎えに行くところだったよ。途中で止まったりしなかったの?」
「何回かは止まった。二回……そう、二回だな」
防寒着を脱ぎながら答える。
「あんたさぁ……昇降機使えば一分で着くってえのに、なんで階段なんか使って降りてきたわけ?」
「……自分でも分からないんだ」
「うわぁ、しかも真面目に言ってんだもんねこれ」
「まあ結局こうして無事に着いたんだからいいじゃない。発車までまだ時間はけっこうあるし」
アラシが歩き始め、チエが後を追う。向きは空間の反対側のほう。改めて見ると、階段からのもの以外にも何本かの通路がこの空間につながっている。半球面は白色で、距離があるせいではっきりとは分からないけれど、模様のような陰影から察するに、彫刻が表面に施されているようだ。模様はどことなくソーハンの家具に彫られていたようなものに似ている。
地下にあっても明るい空間。うん、僕がいるのは『箱』じゃない。大丈夫、大丈夫だ。
前方には幅のあるアーチがある。その向こうに見えているのは、規則的に並ぶ扉の列。扉は左右両側にかなり遠くまで続いていて、右側の列の扉は開いている。
僕たちが近づくのも右側の列で、それに沿ってまだ進んでゆく。過ぎる扉を見れば、どうやら扉は引き戸で、しかも扉からわずかに隙間を開けて小空間があるようだ。
「二号車後方扉……あった、ここだね」
アラシとチエが唐突に扉のひとつから隙間をまたいで小空間へと入る。僕も続いて入り――――
「ここは……サイトなのか?」
「えっ、いや違うけど……どうして?」
「マナジンがあるからだ」
アラシとチエは扉から入ってすぐの場所で装備を降ろしていて、そこにはここ数日で見慣れたマナジンの印と箱型の設備がある。
「あぁ、そういうことか。確かにマナジンはあるけど、ここは……というか、これはサイトじゃなくて、私たちに割り振られた寝台車。だから、これがまあ、カームにとっては初めての鉄道車両になるね」
「これが鉄道なのか……」
扉から入った方向の奥行は数歩ほど。マナジンがあるのは手前側。そして、左のほうには直方体の空間がそれなりに長く続いている。サイトの宿泊部屋に似ているけれど、窓があって、三台のベッドが横一列に並んでいる。壁……じゃなくて、側面や家具の色は明度が高めの木材色。どうやら素材自体も木のようだ。寝台車の内部には木を素材とする物体が多いように見える。
鉄道なんだから、このまるで部屋のような空間は移動するはずだ。レイメバナンの居室も部屋が移動していたけれど、あれはそもそも停泊中からすでに揺れがあった。今は揺れがまるで無い。
「こういう大きな寝台車は長距離の旅客鉄道にしか無いんだけどね。後ろのほうの車両はもう少し短い距離で利用する人のための客車になってるんだよ」
アラシが扉を閉める。こうなるとますます部屋のように思えるな。
「てか大きすぎじゃない? 行きは普通の小寝台だったのに」
「まあ今回は終点まで乗りっぱなしだし、たまたま空いてたからね。大きいほうがいいでしょ?」
「どっちでもいい」
「あ、そうなの?」
チエが最奥のベッドに飛び込む。目は開けたまま。眠るつもりは無いようだ。
「乗ったら乗ったで暇ぁ……」
いや、疲れたような表情になった。やっぱり眠いんだろうか?
「暇なんだったら勉強しなよ」
「えぇ……てか、最近はまったく勉強してなかったじゃん」
チエが勢いよく身体を起こす。
「サイトに着いてからの時間に自分でやればよかったでしょ」
「やらずに済むなら、しないほうを選びたくなるってえもんよ」
「免除認定から外れても知らないよ?」
「あんなの余裕じゃん。めちゃくちゃ先の課程まで教えたのは誰?」
「私だね」
アラシがチエの座るベッドの下部を操作すると、側部から平板がせり上がり、支柱の先端を支点として直角に回転して、机の天板のようになった。
「それでもまだ先までやれってえの?」
「うん」
アラシがマナジンに入れた装備の中を探し始める。
「……あぁもう、分かったわよ。で、今日はどこ?」
「そうだなぁ……これの第二章を初めから、かな」
捜索を続けながら、アラシが一冊の中型本を掲げる。それを見たチエが嫌そうな表情になる。
「それ進んでないじゃん。復習じゃん」
書名は……『やさしい代数』だな。
「間隔が空いたんだからこんなものでしょ。復習は大事だよ」
「どうせ先へ進んだらまた復習することになるってえのに……」
アラシが捜索を終え、仮机に『やさしい代数』と筆記用の冊子を置いた。
「今の理解度だからできる復習もあるんだよ」
「はいはい、もう分かったから」
「あ、カームはなにする? というか、荷物は降ろさないの?」
今からはなにかをしなければいけないということか。
なにをしよう? チエと同じように勉強は……できないな。僕は勉強のやり方が分からない。代数も実質を知ろうとしたことは無いから、ただの名詞でしかない。じゃあ、そういった基本的なことを知るためには――――
「本を……読む」
「本? いいと思うけど……カームってなにを読むの?」
「今は……『ダ・イエラ』を読むつもりだ」
「えっ、『ダ・イエラ』って言った?」
「ああ」
「実書を持ってるの? けっこう古い本だと思うんだけど」
リュックサックを身体の前へとまわし、中を探って、底のほうに入れていた『ダ・イエラ』を取り出す。
「これがそうだ」
差し出すと、アラシは手に取って眺めまわし始めた。
「わぁ……これって『箱』から持ってきたんだよね?」
「ああ」
「実書を見たのは久しぶりだよ。まさかカームが持ってるなんて」
ページをめくっては、「あぁ」だの「おぉ」だの「わぁ」だのと何度も感嘆するアラシ。予想には無かった反応だ。
「……読むか?」
「あ、いやいや、読みたいわけじゃないよ」
アラシが本を閉じて返してきたから、受け取って、マナジンの中に装備を入れてから、扉側のベッドに――――
「あっ、それも扉か?」
よく見れば、チエのベッドの向こうに扉がもう一枚ある。
「えっ? あぁ、そうそう。そっちは車内連絡通路側の扉。別車両に行く時はそっちから出るんだよ」
別車両に行く時というのは、いったい――――
「ねえ」
唐突にチエが僕とアラシを睨みつける。
「ん?」
「なんだ?」
「アラシもあんたもさっきからうるさい」
チエがアラシと僕を順に鋭く指す。
「あっ、ごめんごめん」
どうやら勉強は静かな環境を必要とするようだ。




