第15話 「贈られる言葉」
「ん……」
肩が痛い――――
「んっ」
ベッドの上に座り、低い平面部分に突っ伏している。手帳は頭の下敷きになっている。
「寝て……」
頭を起こすと、手帳のページが視界に入って――――
「なっ……」
右のページまでは整った記述になっているのに、左のページでは最後の文字から伸びた線が余白を斜めに思いきりよく走っている。
ん? 右手になにか――――
「あぁ……」
ペンをしっかりと握り締めている。紛れもない証拠だ。
ただ、確かきのう、ペンの側部にあるボタンを触りながら書いたものをなぞると消すことができるという機能を見つけたはずだ。
夢じゃないなら――――
「消えた……はぁ……」
斜線はきれいに消えて、余白が蘇った。きのう間違えてかなりの文字を消した記憶も蘇って、肩がさらに痛むような幻覚を感じる。
「…………」
ペンを置き、ページを戻してみる。記憶どおり、かなりの枚数を文字で埋めている。
そういえば、なにを書いたんだっけか。
「そっちの分厚いほうが、もう書いたやつ?」
「うわっ」
不意にソーロが声をかけてきた。それだけでも十分に驚くようなことだけれど、そのうえ――――
「上にいたのか」
「キミがワタシのベッドで寝てるから上に追いやられたんだよ」
ソーロがベッドの上段から逆さまにぶら下がった体勢でこちらを見ている。危なそうだけれど、大丈夫だろうか?
「おはようカロゥム」
「おはようソーロ」
今までよりもあいさつがすんなりと言葉になった。この調子なら、他のあいさつもきちんと身につくかもしれないな。
「それにしても早いねぇ。まだ五時だよ? いくら外は明るいって言っても……あ、そうか、キミは早めに寝ていたんだったね」
そういえば、僕は何時に起きたんだろう?
「……ん?」
ふと気づいたのは――――
「どうして“ソーロの部屋”にいるんだ?」
「それはワタシのほうが訊きたいよ。アルゥシも困ってたよ」
「それは……えっと……きのう手帳に書き残すために部屋へ行って、それから思い出せる限りのことをずっと書いていて、いつの間にか眠ってしまって……」
「そういえば、アルゥシはキミが自分の使う部屋を見ていないって言ってたけど、やっぱりそれで知ってるワタシの部屋に入ったってことかな? キミを誘拐……じゃなくて招待した時に承認者として入室権限をあげちゃってたのが良くなかったね」
けれど、もしもそうなのだとしても――――
「まあ、だからって部屋が分からないならアルゥシに訊けばいいと思うんだけどねぇ。そんなにワタシと一緒に寝たかった?」
ソーロと……誰かと一緒に寝る……
「いや、それはむしろ断りたい」
「えっ」
あんなふうに拘束されるのは――――
「……ああ、これか」
「はい?」
嫌うということ。あんなに不明なものだったというのに、書いてしまえばもうこんなにも簡単に現実と組み合う。
「やっぱり強いな……」
こんなことなら、最初から忘れずに筆記具を装備に入れておけばよかったな。数日分でページの半数が埋まったんだから、もうすぐ別の筆記具が必要になるはずだ。
「おぉい?」
「……ん? なんだ?」
視線を向けると、ぶら下がったままのソーロは困惑していた。
「キミは……やっぱり不思議な子だね」
「そうなのか」
不思議も異質だというから、ソーロの言うとおり、おそらく僕は不思議な存在でもあるんだろう。
これは……まあ、書き残さなくてもいいか。
「そういえば、きのう書いていて思い出したんだが……」
「ん? なにを?」
開いていたページから数枚めくる。きのうのことだから、後ろのほうにあるはずなんだけれど――――
「えっと……あった。きのう、ここへ連行されてからお前に訊いたことのうち、“どうして連行したのか”という質問には実のところ答えが無かった……というより、まったく別のことを答えのように僕もお前も思い込んでいたようなんだが」
「えっ、そうだったっけ?」
「結局、あれの答えはなんだったんだ?」
「えっ、ワタシはきのうそれになんて答えたんだったっけ?」
記述を追う。
「んと……お前が愛のために土を――――」
「あぁ! そうだそうだ、確かにまったく違う話をしていたね」
「それで、答えは――――」
「もちろん、キミがかわいくて純粋だったからだよ」
どうして“もちろん”なんだ……?
どうにも理解ができていないんだけれど、ソーロはどうやら答え終えたつもりらしく、ベッドから降りて微笑みを向けている。
こういう時は、それを理解するためのなにかを欠いているということなんだろうな。まだ『箱』を出てから数日しか経っていない。そうすんなりと理解は進んでくれないらしい。
「ところで、まだ書くの?」
「いや、今はもういい」
「あ、そうなんだ」
あの斜線の始点となった文字は、きのうまでの記述の終点だった。今のところは新発見が無いから、書き加えるものも無い。
「じゃあ、ちょっと付き合ってくれるかな」
ソーロが身体を上へと伸ばす。
「なにをするつもりなんだ?」
手帳を胸元の内ポケットに入れ、ベッドから降りて立ち上がる。
「キミたちは今日ここを発つ……あっ、キミは聞かされていないんだったね」
「えっ、ああ、そうなのか」
それは確かに初耳だ。
「まあ、とにかく今日が最後だから、ちょっと特別なことをしようかなって思っているんだよ。アルゥシやチェレちゃんの予想なんて飛び越えるような、そういうなにかをね」
「……そのなにかが決まっていない、ということか?」
「あ、察してくれるんだ。じゃあ話は早い。ちょっと一緒に考えて」
ソーロが考え込む。
考えようにも、目の前で仕草や振る舞いを見ていても分からないというのに、アラシやチエの予想することを予想するなんて、僕にできることじゃないと思うんだけれど――――
「ソーロはアラシやチエのことをよく知っているのか?」
「ん? ああ……まあ、知ってはいるけど、そこそこって感じかな」
「そうなのか」
「えっ、どうしたの?」
「ん? なにがだ?」
「あ、いや、キミがいいんならそれでいいんだけど」
ソーロがまた考え込む。なんだったんだ?
いや……そもそも、僕はなんのためにさっきの質問をしたんだ?
「そうだ、料理はしたことある?」
ソーロが唐突に人差し指をクッと向けてくる。
「えっ、料理……調理は今までしたことが無いな」
きのうの朝……じゃなくて、昼の食料の準備は調理じゃないと、確かチエがそう言っていたな。
「そっか。じゃあ料理教室だね。朝からするのは珍しいけど」
ソーロは扉へと踏み出しながら僕を手招いた。
「あれ? 光源が……ってカーム?」
調理を始めてから間もなく、アラシが食堂へとやって来た。
「おはようアラシ」
「おはようアルゥシ」
ソーロとほとんど同時にあいさつをする。やっぱりあいさつには慣れてきたようだ。いいことだろうな。
「あっ、おはようござ……っていやいやいや、なにをして――――」
「あーあ、これじゃあ飛び越えるところまではいかないね。残念」
ソーロが計量用のカップを調理台の上にコンッと置く。
「飛び越え……なんのことですか? いや、それよりも、カームに調理はまだ早いんですって! きのう言いましたよね?」
「言ってたね。やけどしたんだっけ?」
アラシとソーロとで口調の鋭鈍の差が大きい。
「そうですよ! だから――――」
「だからちゃんと早めに教えておくべきだろ」
「っ……」
アラシの口が声無く震える。
「でも……約束なんです」
「あっ……」
気づき、思い出し、声が出る。
そうだ。僕はアラシの言葉を待たなければいけなかった。
僕はまだ未知だらけで、調理は未知のものだったんだから。
「なにを誰と約束したんだい?」
「未知の物事に接する時には私の許可を待つという約束を、事故の直後にカームと交わしたんです。」
どうして僕はそれを思い出さなかったんだ?
「えっ、本当に?」
「はい」
「……それはすまなかった。キミたちの間で決めた約束があるなら、ワタシが介入しちゃいけなかったね」
「いえ……でも、ソーロ姉さんの言うとおりなんです。教えておくべきでした」
言葉が絶える。空気が圧を増してゆくような幻覚。
「アラシは……僕に調理をさせることを避けていたのか?」
アラシの視線が足元まで下がる。
「……うん」
固く結ばれる唇。こんなことは今までに無かった。
「僕がおとといの夜にやけどをしたからか?」
「うん」
どうして僕は謝るより先にこんなことを訊いているんだ?
もう痛みも痕も無い右の前腕に、じわりと不快な感覚が漂う。
「っ……」
喉が締まる。出したい言葉が挟み止められ、潰れてゆく。
なんの脈絡も無いとしても、言いたいのに。
他の言葉ならば、すんなりと出せるのに。
「カーム、ごめん。私が間違ってた」
「…………」
どう返せばいいんだろう?
まただ……また分からない……
「ソーロ姉さん、カームにはなにをさせましたか?」
「ん? ああ、えっとね、まずは保存機器の扱いを教えて――――」
調理台の上に置かれたカップを見やる。アラシが来る直前にしていた粉の計量は、何杯ぶん計り取ったのかを忘れてしまったから、おそらく最初からやり直すことになるんだろう。
「なんだ、そんなに教えてないじゃないですか」
「言われてみれば……確かにそうだね。そもそも、キミが来たのが調理を始めてからほとんどすぐだったからね」
「まあそれなら……カーム!」
「なんだ?」
振り向くと、アラシは蛇口に手を置いて僕を見ていた。
「危ないことは先に知っておこうか」
その提案を拒む理由は無い。
「んん……おはよ……って、あれ? なんでみんな起きてんの?」
調理が終わるのとほぼ同時で、チエが目を細めて食堂に現れた。
「おはようチエ」
「おはようチェレ」
「え、あぁ……おはよう」
チエが目を閉じ、しばらくしてパッと開いた。少し視線を動かし、正面へと戻す。
「おはようチエ。ちょうど起こしに行こうかと思ってたんだよ」
アラシが皿を持って調理場から食堂へと移動する。結局のところ、ほとんど調理には携わらなかった……というよりかは、携わらせてもらえなかったな。
「普通の時間になら自分でちゃんと起きるわよ。てか、なんで今日に限ってソーロ姉さんのほうが早起きなわけ?」
「カロゥムが寝かせてくれなかったのさ」
「……カームあんた、なにやってんの?」
アラシが机上に皿を並べ、全員が昨晩と同じように着席する。
「なに……食事を摂ろうとしている」
食器を掴もうとした手を止める。
「そういうことじゃ……ああっもう! やりづらいっ!」
「まあ、たまにはワタシだって早く起きるんだよ。それに、今日はキミたちとの最後の日だからね。そういう時くらいはいつもと違うことをするものさ」
「ソーロ姉さんとなら違う場所でふっと遭遇したりしそうな予感がするんですけどね」
「どうかなぁ。今回ばかりは長くなる予定だからね」
皿の上に視線を移す。プレインケイクという、麦類の粉を練って、丸く焼いたもの。小指くらいの厚さで、二枚重ねになっている間に、赤紫のソースが挟まれている。
「朝から甘いものなのは誰かの好みなわけ?」
「いや、ただの思いつきだよ」
アラシがチエの問いに答え……もう食べ終わっているのか。
「ふぅん。まあ、おいしいからいいけどさ」
チエはまだ四分の一ほどを食べただけで、ソーロは半分ほど。
……僕はまったく手をつけていないじゃないか。
止めたままだった手で食器を掴み、プレインケイクを切り分けて、食べる。うん、チエの言うとおり、確かに甘くて――――
「……酸っぱい?」
「えっ、酸っぱい?」
アラシが驚いてこちらを見る。
「甘いだけかと思っていたんだが、この……ソースか、これが少し酸っぱいように感じたんだ」
「ああ、ベリーはほんのり酸味があるからね」
「ベリー……このソースにそのベリーというものを――――」
いや、思い出した。ベリーは今までに読んだことがある。そうか、これがベリーの味か。
「カーム?」
「えっ、ああ、すまない。ベリーを知らないような気がしたんだが、そうじゃなかったんだ」
「ああそういう……そういう? ん? えっと……まあ大丈夫ってことだよね?」
「ああ」
今の謝りはすんなり出たな。
朝食を摂り終えてから、各自で装備を再確認してマナジンに入れ、全員の出発の準備が完了したのは七時頃だった。
食堂から上階へと向かう。チエが先頭で、アラシとソーロがその後ろに並び、僕は最後尾だ。
「もう会えないってまだ思えないねぇ」
「確かにそうですね」
廊下の光源は緑っぽくなっている。前方の階段は上方ほど明るい。
「独り身が寂しくなってソーロ姉さんのほうから会いに来るでしょ」
チエが顔だけ振り返らせる。
「そぉんなチェレちゃんみたいな甘え性は無いよ」
「チイにも無いってえのよそんなの」
階段を登ってゆく。廊下も、階段も、こんなに短かったのか。
「まあ、今回は前の時のような予言はやめておくよ」
「えっ、どうしてですか?」
「キミたちにとっては、ここへ戻ってくるよりも、進むほうがいい。そうだろ?」
アラシがソーロのほうをハッと向き、ゆっくりと顔を戻す。
「そう……ですね」
「なによそれ、まるで本当の予言者みたいな口ぶりしちゃって」
「あはっ、もしワタシが本当に予言者だったとしても、アルゥシのような“真の預言者”には敵わないよ。予言者は未来だけが見えて、預言者は世界のあらゆる時と場所を見せてもらえるんだから」
「えっ、そんな大層なことはできませんよ?」
「謙遜するんじゃないよレイメトゥーラ。キミはすごい人間なんだ。冒険家としてだけじゃなくてね」
階段を登りきる。そこからいくらも歩かないうちに、マナジンの前に着く。
「はぁ……今日は部屋に引きこもって独りに慣れようかな」
「きっとまたすぐに誰かが来ますよ」
マナジンの扉が開いて、装備が出てくる。
「忘れ物は無い?」
「無いはずですよ。もしあったらソーロ姉さんに差し上げます」
「えっ、じゃあチェレちゃんが寝る時にいつも握り締めているあのぬいぐるみとか忘れてくれないか?」
「ちょっ、なんで知って……じゃなくて、忘れ物なんか誰もしないってえのよ!」
チエが乱暴に装備を背負い上げる。僕とアラシも装備を背負い、出入口の前で振り返る。
「では、行って――――」
「あっ、ちょっと待った!」
ソーロがアラシの言葉を遮り、僕のほうへと近づいてくる。
「カロゥム、今あの手帳は出せる?」
「えっ、ああ……」
防寒着の硬いファスナーを引き下ろし、中着の胸元の内ポケットから手帳を取り出す。
「これがどうかした――――」
「ちょっと貸して」
「えっ、ああ」
ソーロは僕の差し出した手帳を受け取ると、ページを送り始め、なにも書かれていないページを見つけると、そこで送る手を止め、胸元からペンを取り出した。
「あっ、書いてもいい?」
「えっ、なにを書くんだ?」
「それは書いてからのお楽しみ。一行だけだから」
「まあ……書いていいぞ」
「よし、じゃあ……」
紙面をさらさらとペンが走り、一行を文字が埋めた。
「うん、これだね。はい」
ソーロが素早く手帳を閉じ、僕に差し出す。素早すぎて、文字が表す言葉は読み取れなかった。
「カロゥムはこれを次にいつ使う?」
「いつ……今日の夜には確実に使う」
手帳を受け取り、しまっていた場所に戻しながら答える。
「なら、その時に読んでおくれよ。それはワタシからカロゥムへの贈り物その二だ」
僕の胸元、手帳をしまった場所をソーロが指す。
「分かった」
今すぐに読むのはよくないんだろうという予感がある。
防寒着のファスナーを引き上げると――――
「では、今度こそ行ってきます」
アラシが手を軽く挙げる。
「いい日々を」
ソーロがアラシと同じくらいの高さまで手を挙げ、二人は互いの手をポンッと打ち合わせた。
「ん」
ソーロがチエの前に移動して、手を少し下げて促す。
「えぇ……」
チエはとても嫌そうな顔をしたけれど――――
「……行ってきます」
「はい、チェレちゃんにもいい日々を」
今度は少し小さな音で手が打ち合わさった。
「ほい」
ソーロが僕の前に移動してくる。手は少し上げた。
これは……あいさつなんだな。
「行ってきます」
「わっ、丁寧な言葉遣いだ。珍しいのかな?」
ソーロの手の動きを見定めて、手を打ち合わせる。少し強すぎたのか、ボンッと大きめの音が鳴った。
「カロゥムにも、いい日々を。アルゥシとチェレちゃんが一緒なら、きっと大丈夫だ。たくさんのことを知って、感じて、素敵な人間になっておくれよ。キミならきっとなれるから」
返すのは言葉でなくともいいと感じて、ソーロの目をしっかりと見据え、頷いてみせた。
出入口へと向き直る。扉がシュッと左へと滑って開き、僕たちは再びソーモン荒原へと踏み出した。




