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誰よりも軽やかな風  作者: 雪原たかし
第2章 『高楼大陸にて』
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第12話 「ソーロはお姉さん」

 見渡す限りの平地が変化を見せたのは、分布の記録を終えて再び歩き始めてから三〇分が経過した時だった。

「ん……?」

「どうしたの?」

「自然物……いや、違うか……?」

 斜光でやや赤みを増した平地。その手前に、直線的な輪郭を持つ物体が見える。まだかなり遠いようで、輪郭の他には、表面が灰色だということぐらいしか見取ることができない。

「えっ、もう見えてるの?」

 アラシにはまだあの物体が見えていないようだ。

「いやいや、そんなわけないでしょ」

 なぜかチエが答える。

「いや、やっぱり人工物だな。あれがサイトか?」

「もし見えてるんなら、あんたの視力って変態的ね」

「素直に“すごい”って褒めればいいのに」

 物体をよく見ようとすると、眼球が軽く張るような感覚があった。これほど遠くに目を凝らすのは初めてかもしれない。進行方向上に物体があるんだから、とりあえず目を離しておこうか。

「あっ、見えてきた……うん、あれは今日の目的地のサイトだね」

 やっぱりサイトだったのか。

「うそぉ、チイまだ見えてないのに」

「最近のチエさんは暗ぁい機関室の隅っこのほうで端末をいじっていらっしゃったようですし、そりゃあ視力が落ちるわけですよ」

 アラシの言葉遣いがやけに特徴的だ。

「えっ、あ、いや……そっ、そもそも! アラシとそいつの視力がおかしいんだってえのよ!」

 チエが一歩ぶん離れてアラシと僕とを順に指す。風になびく髪が、緋色の空と繋がっているように見える。

「まあ、あと三〇分ってところでしょ」

 視線をアラシの身体と装備とが遮る。それでアラシが歩き始めたことに気づき、慌ててあとを追う。

「まだ三〇分も歩くのかぁ……疲れたぁ……」

「歩かなかったら三〇分どころじゃ済まないよ」

「分かってるけどさぁ……」

 先ほどまで規則正しかった足音が、チエのふらつきで乱れ始める。

「せめて見えてればさぁ……あっ、見えた」

 あっ、また規則正しくなった。




 正確に時間を測るというのも、初めてかもしれない。

 チエがサイトを視認してから三五分と一六秒。僕たちはサイトに到着した。

 サイトは三角錐の構造体で、思っていたよりもいくぶん小さい。見えている部分の大きさは、レイメバナンの喫水上の半分ほどで、どうも“人が集まる場所”のように見えない。それらの典型としてソーハンの行政府を考えているから、そう思えるのかもしれない。けれど、やっぱり大きくはないはずだ。

 灰色の外面に沿って移動し、壁面据付型の端末の前で立ち止まる。

「まだあのババ……じゃなくて、お姉さんいんのかな……」

「ババ?」

「なんでもないわよ」

 ちょうどアラシが端末の操作を終えたところで、壁面がわずかにへこむと、その部分がシュッと右へ滑り、出入口を現した。誰かの声が聴こえてくる。

 中に入ると――――

「地下に広くなっているのか」

「えっ、ああ、そうそう。ここのサイトはそういう構造なんだよ」

 三角錐の底面中心から下方へと階段が伸びている。側面は外観と違って透明度が高く、周囲の様子を外とほぼ同じように見ることができる。階段の周囲には温熱機や椅子がいくつか置かれている。

 けれど、この階層には人がいない。どうやら声の主は階段の先にいるようだ。

「カーム、荷物下ろして」

 振り向くと、アラシとチエは出入口の右隣にある、壁に埋まった銀色の箱のようなものの中に装備を入れようとしていた。

「これはなんだ?」

 装備を入れて顔を上げると、ちょうど正面にチエが立つ形になり、チエはそれに気づくと、僕の訊いた相手がチエなのだと思ったのか、面倒そうな表情になった。

「マナジンっていう、サイト利用者の荷物を管理したり、運んだりしてくれるやつよ。そこのマークがある場所ならどこでも、ここに入れた装備を取り出せるようになるの」

 チエが“そこ”と言いながら指した、マナジンのすぐ真上には、箱と手らしきものを組み合わせた印が描かれている。これは覚えておくほうがよさそうだな。

 それにしても、やっぱりチエは説明をしっかりとやってくれる。面倒そうな表情になるのは、いわゆるクセなのかもしれない。

「さてと、この声がするってことは……」

「やっぱいるわよね、あのバ……お姉さんが下に」

 アラシとチエが階段のほうを見やる。声はまだ聴こえてきている。これはおそらく――――

「歌っている……のか?」

「ここがあんまり使う人のいないサイトだからってあの……っ……お姉さんのやつ……」

 チエの声に呆れが多くなる。

 そういえば、歌を聴くのはかなり前に『箱』で記録媒体再生機を拾って使っていた頃以来だな。




 階段を降りると、ほのかに赤みがかった光源に照らされる幅広な廊下があった。声は正面から聴こえていて、その突き当たりには、廊下の両側に並ぶものよりもやや大きい扉がある。アラシとチエが向かうのもやっぱりその扉で、アラシが把手を掴んでその扉を押し開けると、声はふっと止み――――

「あはっ、やっぱりそうか。また会えると思ってたよアルゥシ! それにチェレと……誰?」

 歌声の主――――不思議な発音をする、アラシよりも少し身長の高い深緑髪の女は、アラシとチエとをうれしそうな表情で順に眺め、僕を見た瞬間に笑顔が虚ろになった。

 えっと、こういう時は確か自己紹介を――――

「風旅の新しいメンバーよ」

「えっ、チェレちゃん後輩持ちになったのかい? 似合わないなぁ」

「ソーロ姉さんもそう思います?」

「ちょっ、なに言ってんの二人して!」

 ダメだ、会話が目まぐるしいうえに速くて、思考が追いつかない。

「で、キミの名前は?」

 茶色の瞳が僕を捉えて――――

「あっ、かっ、カーム・ウェストロイズだ」

 歯が舌を掠めた。危ないあぶない。

「うわっ、なんだこの子……すごくかわいいなぁ」

 女は白桃色の手の両方で鼻と口とを覆い隠した。目の辺りを見る限りだと……なんだろう、この振る舞いや目が示す感情は……

「えっ、そいつのどこがかわいいわけ?」

「自分の名前なのに詰まっちゃうくらい緊張してるとこ」

「うわぁ……」

「こら引くな引くな。なあアルゥシ……キミも引いてるのか」

「いやぁ、さすがにソーロ姉さんが危険に見えるというか……」

「元から危険でしょ」

「ひゃー、それだよそれ。チェレちゃんがもしカロゥムくんぐらい初々しかったら、そりゃあもうとんでもなくかわいいってのになぁ。いやぁ、もったいない」

 やっぱりダメだ。追いつけない。じゃあ、空間の把握を――――

「あっ、カロゥムくん!」

「……僕のことか?」

 カロゥムって……やっぱり不思議な発音だな。

「キミにはワタシの名前、ちゃんと教えてなかったでしょ」

 名前は先ほどからアラシに呼ばれて――――

「というわけで、ワタシの名前はイライナというんだ。よろしくぅ」

「あ、ああ……ん? ソーロじゃないのか?」

「ああ、そっちはあだ名だ。イライナ・メトゥルハックが本名だよ。でもまあ、キミもワタシを呼ぶ時にはソーロ姉さんって呼ぶといい」

「お前は僕の姉ではないぞ」

「少し歳上の女の子のことは“お姉さん”と呼ぶんだよ。これ常識だぞカロゥムくん」

「そうだったのか」

 ならばアラシは……いや、アラシは“少し”の歳上ではないな。

「四六歳の人がなにか言ってるわね」

 チエはそもそも歳上じゃないし――――

「えっ、四六歳!?」

「“少し”だよ少し」

 あぁ……また分からなくなってしまった……




 ソーハンの沖合定食の店ほどの広さであるということと、光源が廊下よりも少し明るく、色も少し白くなっているということを把握したところで、この部屋に対する僕の理解は止まってしまっている。それ以上の把握を許さないほどに、ソーロ姉さ……いや、やっぱりソーロと呼ぼう。ソーロは明らかにアラシやチエよりなにもかもが速い人間で、しかも僕を放っておいてくれない。

「それで、カロゥムくんはどこから一緒なんだい?」

「アラシとは『果ての箱』からで、チエとはソーハンからだ」

「ほんほん、ワケありなんだね」

 頭上から、ソーロがアラシのほうを向いた気配がする。アラシは小さく頷いた。

 そう、“頭上から気配がした”というのは間違いじゃない。

「なあ、ソーロ」

「なにかな?」

「僕はお前に拘束されなければならないことをしたのか?」

「そんなことな……あっ、いやいや、キミはこうしておかなくちゃいけないんだよ」

 椅子に座らされ、背後から肩越しに腕をまわされている。拘束は緩いけれど、頭頂にある感覚はおそらくソーロのあごが触れているものだろうから、動かないほうがいいんだろう。前しか見ることができなくなるのは窮屈だけれど、なんだかアラシに似た性質があるように思えるから、脱出を試みるのは事態が切迫してからにしよう。

「それは……どういう理由なんだ?」

「キミがかわいいから、チェレちゃんに毒されないように守ろうと思ってね」

 そうか、守るためにかなり密着しているのか。

「そいつのほうが毒かもしれないってえのにまあ……ソーロは人を見る目――――」

「チェレ、違うでしょ、ワタシは“ソーロ姉さん”だよ」

「あ、はい、ソーロ姉さん……」

 抑揚が消えたソーロの声に、チエは静止して――――

「あ、いやいやおかしいでしょ。カームは呼び捨てにしたじゃない」

 そうかと思えば、また唐突に動きを取り戻した。

「カロゥムくんはいいんだよ、かわいいから」

 背中に重みがかかる。さらに窮屈になった……

「……かわいいけど性格が完全にクズな男に騙されてボロッボロになればいいのに」

 歯を見せるチエの肩を、アラシが後ろから掴んで軽く引き寄せる。

「こらチエ、ソーロ姉さんの異性関係にはあまり触れてあげないでおこうって前に決めたで……あっ」

 あ、重みが消えて……腕も解かれて……

 なんだか状況が――――

「男……ヘヒッ……男ねぇ……」

 振り返ると、ソーロは腕を力なく下ろして俯いていて――――

「土と仲良しな男なら大丈夫とか思ってたっけねぇ……」

 顔を覗き込むと――――

「でも、カロゥムはきっとまだ間に合う……だからっ!」

 脇に手が差し込まれる。

「うわっ!」

「この子の純粋はワタシが守るっ!」

 ソーロはそのまま僕を勢いよく持ち上げた。

「なっ、ちょっ、どうしたんだソーロ!」

「そっ、ソーロ姉さんダメっ!」

 僕とアラシの声はソーロに届かず――――

「守るぅぅぅぅ!」

 僕を肩に担いで、ソーロは駆け出した。

「ソーロ姉さん待って! カームを放して!」

「こら待ちなさいよ四六歳!」

「四六歳って呼ばないでくれぇぇぇぇ!」

 これは……さすがに抵抗するべきなんだろうか?

 考えているうちに、ソーロは僕を担いだまま部屋を出て、廊下に並ぶ扉のひとつを開け、その中へと駆け込んだ。

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