第11話 「決め事と決まり事」
歩き始めて間もないけれど、分かったことがふたつある。
ひとつは、ソーモン荒原がまさに“荒原”であるということだ。
人の手が入っていない土地にはなんらかの植生が見られる。そう思い込んでいたんだけれど、踏むのも、見えるのも、黒っぽい土と濁った雪塊ばかりだ。
ひとつは、ソーモン荒原に吹く風が、北方大陸のものよりも弱く、そしていくらかメルクレイムに近いということだ。
「なあアラシ」
「ん?」
アラシが顔だけを軽くこちらへ向ける。
「ここの風は……メルクレイムじゃないんだよな?」
「おっ、感覚があるの?」
「うわっ、ちょっ」
アラシが立ち止まって振り返り、チエがその動きに振り回される。
「感覚……というのは、なんのことだ?」
「メル――――」
「メルクレイムが持つ感情を認識できる人間を、レイメトゥーラの分類だと“感覚持ち”って呼ぶのよ」
チエがアラシの言葉を遮って教える。表情は鋭いけれど、どうもチエの行動は表情と結びつけて考えないほうがよさそうだ。
「感情……なのかは分からないけれど、こう……肌の表面に意識を集中すると、触覚とは別の……んん……」
あと一歩のところで繋がりそうな説明。けれど、どうしても表現しきれない。もどかしさが肌を覆っても、僕のものではない感覚は届いているというのに。
「まあ、その感覚って『箱』では無かったものってことだよね?」
アラシの問いに頷いてみせる。
「じゃあ、きっとこれから分かるようになるよ。今はたぶん、感情そのものの区別がそう細かくないってだけだろうし、チエで勉強はできそうだからね」
「えっ、なんでチイで勉強になるわけ?」
「チエって感情が豊かなくせに外見からは分かりづらいし、チエの感情が分かればほとんどの人の感情も分かるようになるんじゃないかなって思ってね」
「あぁ……確かにそうかもしれないな」
これまでの振る舞いを思い出しながら頷く。
「ちょっ、キワモノ扱いしないでよ! ねえ!」
チエはアラシの肩口を叩いた。けれど、アラシは笑うばかりで、それ以上なにも答えずに再び歩き始めた。チエは抗議を続けていたけれど、それもしばらくすれば収まって、風旅は足音と風鳴りとに支配された。
視線が果てまで通ることを許される、ソーモン荒原という場所。けれど、すぐ前を歩くアラシとチエばかりを見ている。
二人の無言は僕のものと違うような気がする。突風で立ち止まる以外は、ほとんど速さを変えずに並んで歩いている。互いの様子に気を配っているようには見えないけれど。
もしも僕がチエのようにアラシの隣を歩こうとしたら、おそらくアラシがいつ立ち止まるのかをずっと覗うんだろう。こうして少し後ろで距離をとって歩くと、前方のアラシとチエが立ち止まっても数歩の余裕がある。今の僕にはこの距離が必要だというのは確かだ。
北方大陸でも縦列だったんだから、これでいいんだ――――
「ねえ、どうして後ろにいるの?」
歩き続けながら、アラシが顔を反らしてこちらを見やる。
「これが最適な形態だと思うからだ」
「うぅん……」
アラシは困ったように目を閉じると、顔を逸らした。
「縦列は最適じゃないのか?」
「いや、まあ確かに複数人で道を歩く時には縦列が基本だけど……」
「えーっ、アラシまさかあいつも隣にする気?」
チエがアラシの腕を下へと引っ張る。
「だって落ち着かないんだもん。筋力と体力があったら、二人とも抱え上げて歩きたいくらいなのに」
「抱えっ……ちょっ、変なこと言わないでよ」
“抱え上げて歩きたい”というのは、どういう願望なんだ?
さっぱり分からない……というか、分からないほうがいいという予感がする。
「抱えたいんならリュックでも抱えてればいいじゃん」
「不格好だからやめてって言ったのはチエでしょ」
「そうだったっけ。まあ確かに不格好だからやめてほしいけど」
「えぇ……ってそうじゃなくて、カーム、ちょっと私の隣まで来て」
「えっ、ああ……」
アラシの右隣はチエがいるから、左隣まで早足で近寄る。
「これでよし」
これだけでいいのか。それなら後ろに戻って――――
「あっ、ちょっとカーム! なんで離れようとするの?」
「えっ――――」
「うりゃっ!」
アラシが僕の防寒着の袖を掴み、ぐっと引き寄せる。
「のわっ、とっ、とぉ……」
なんとか転ばずに済んだ。
「こんなほっそい腕のどこにそんな怪力があるんだか……」
アラシを挟んだ向こう側で、チエがアラシの腕を防寒着の上からあちこちと掴んでいる。
「鍛え方と使い方だよ。そろそろチエも練習してみない?」
「だからやだっていつも言ってるでしょ」
袖を掴まれたままなんだけれど、放さないつもりなのか?
「カームさぁ、チエぐらいベタベタじゃなくていいから、もう少し近くにいてよ」
掴む場所が袖から手袋へと移る。やっぱり放さないつもりらしい。
「お前の後ろにいるほうがいいんじゃないのか?」
「えっと……私が落ち着かないんだよ。前がいやなんだったら隣でいいから、あんまり私の後ろに行ってしまわないでほしいんだ」
「隣なら、それほど不都合も無い……のか?」
「これだけ広い道なら、横一列でも大丈夫だよ」
「チイが困りまーす」
チエが右手を挙げる。
「なにが困るんだ?」
「えっ……」
挙がった手が力なく下が――――
「ほらほら、ちゃんと“冗談だよ”って答えてあげなよ」
「ちょっ、冗談じゃないってえのよ!」
いや、拳を握って勢いよく振り下ろした。ずいぶん力がこもっている。これはおそらく、感情に添った振る舞いだろう。
「じゃあなにが困るの?」
今度はアラシがチエに訊く。
「それは、えっと……アラシの……」
握ったり開いたりを繰り返していたチエの手がカッと開く。
「アラシの手が両方塞がっちゃったら危ない! そう、危ない!」
「両手が塞がるのは、アラシがこの手を放せば済みそうだな」
「えっ、アラシが掴んでんの?」
「だって放したらカームが後ろへ下がっちゃいそうだからさぁ」
「えぇ……もうアラシさぁ……」
チエの頭が垂れる。
「まあ、カームが約束するなら手を放してあげてもいいよ」
チエが一歩ぶん前へと出る。
「約束して、今すぐに」
「なにを約束すればいいのか聞かされていない」
「“アラシの後ろに行かない”って言って」
「アラシの後ろに行かない?」
「なんで確信が無いみたいに言うわけ?」
「確かめなければ正しいかどうか分からないからだ」
「あっ確かめ……まあいいから、もう一回、今度はこれでもかってくらいにはっきりと言うのよ」
これでもかというくらいなら、少し深めに息を吸って――――
「なんだか愛の告白みたいだね」
「ダメ! 中止! 中止っ!」
「ゴッ、ゲホッガハッ、ゲホッ……」
呼吸の混乱が収まってからも、胸の深くがつかえる。
「どうしてだ……?」
「どうしても!」
説明になっていない。
「いいじゃん言わせたら」
「よくない!」
「独占欲ぅ」
アラシがチエの腰元をトントンッと叩く。
「ああもう……とにかくあんたは後ろに下がらない! いいわね!」
「あ、ああ……」
愛の告白……そうか、こういうもの……なのか?
確かにそれも未知だ。けれど、それを知る代償がこの胸の鈍い圧なんだとしたら、あまりうれしくないな。
手は放してもらえたものの、なにかが起こる度に、アラシはまた腕を掴んでくる。僕の進行方向が逸れてしまった時。緩んだ土壌を避けようとする時。そして――――
「ん……」
アラシが前触れ無く立ち止まる。チエは分かっていたかのように止まり、取り残された僕だけがアラシに捕まえられた。
「どうした?」
「ああごめん、この辺りからちょっと濃度がね」
アラシが周囲を見回し始める。チエは手袋を外してアラシの背後へとまわり、アラシの装備を探り始めた。
「なんの濃度だ?」
「メルクレイムの素材……とでも言おうかな? あっ、でも離れてこうなってるんだから、名残のほうが近いかな?」
メルクレイムという単語を聞いて、早くも忘れかけていた感覚を思い出す。あの時にはもどかしさが思考を大きく占めていたけれど、いつの間にかまるで呼吸のように身体と溶けあっている。
感覚があの時よりもわずかに強くなったような気がする。感性が鋭くなったのか、あるいは“濃度”とやらに関係があるのか?
「名残というのは、コワシュルテで言っていたものと同じなのか?」
「あれ、言ってたっけ? あっ、いや、言ってたね」
「はいこれ」
チエがアラシに折り畳んだ縦長の紙と、手のひら四つぶんほどの大きさの板とを差し出す。
「ありがと」
「閉めとく?」
「いや、点を打つだけだから開けたままでいいよ」
アラシが紙の折り畳みをひと山ぶん広げて、板にあてがう。紙を見ると、薄い正方形の模様を下地にして、曲がりくねる線が描かれ、あちこちに打たれた黒点のそばに、矢印と数値、それに短い記述が添えられているのが見える。確かこういうものは――――
「地図か?」
「そうそう。こうして記録しておくの」
アラシが腰のベルトの辺りからペンを取り出し、地図に新たな点を加え、短い矢印を引く。矢印の向かう先には、ソーハンの名前が読める。そして、矢印のそばに“六・三”と添え書かれ、その下に“二水準境界点一〇三”と記された。
「なにを記録するんだ?」
「んー、簡単に言えば、名残の強さと、向かう先だね」
「終わった?」
チエがアラシの前に手を差し出す。
「あ、うん。お願い」
アラシが紙を畳みなおして、板と併せてチエに渡す。チエは再びアラシの背後へと移動して、紙と板をアラシの装備の中にしまった。
『風の空白』によれば、風旅とは“感情の識別”と“感情の分布調査”とで構成されるらしい。今のは後者なのかもしれない。
「ありがと」
「いいのよ」
チエは僕のほうを横目で見やりながら腕を背後へ伸ばした。頭が反っているけれど、これはどういう振る舞いなんだろう?
「さてと、あと一時間くらいかな。出るのは遅かったけど、今日はそんなに進むつもりもなかったし」
アラシが時刻窓を確認する。僕も時刻窓を見る。一七時三六分だ。意外と長い時間が過ぎていたらしい。
あと一時間というのは、おそらくサイトとやらまでの移動時間のことなんだろう。それが長いのか短いのかはまだよく分からない。けれど、少しずつ、本当にほんの少しずつ変わり始めている感覚に意識を集中させていれば、きっとすぐに着くように思えるんだろう。
時間の感じようとはそういうものなんだと知る。それと同時に、筆記具が欲しいと思っていたことを思い出した。




