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誰よりも軽やかな風  作者: 雪原たかし
第2章 『高楼大陸にて』
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第8話  「熱く、痛く」

 アラシに言われていた食事の時間をもう過ぎている。

 降りること二階層。食堂の扉を開けると、アラシが椅子に座って小冊子ほどの大きさの紙を広げていた。数枚は文字で埋まっている。

「おかえり……って、船の上にいたならそもそも帰ってるかな?」

 アラシがこちらを見ながら手元で紙をまとめる。

「遅れてすまない」

「分かってるならいいよ。あんまりしょっちゅうは困るけどね」

 チエの姿が見えない。夕食を終えて居室に戻ったんだろうか?

「今日の夕飯はレトルトだから、冷めるとかが関係ないしね」

 とりあえずアラシの前の席に向かう。

「そういうものなの――――うわっ」

 近づいて見えるようになった、長机の向こう側の下方。そこに、チエがいた。腰だけを椅子に置き、身体のほとんどはアラシの腿の上に預けられている。小さく丸まって横向きに寝転ぶような格好だ。

「どうしたんだ?」

 ついさっき……といってもいくらかは経っているけれど、体調が悪そうな気配なんてまったく感じられなかったというのに。

「ああこれね、そういう時間だから、あんまり気にしないでね」

 アラシが僕の視線の先に気づいて、腿の上のチエに視線を落とす。

「そういう時間……って、どういうこ――――」

「んあぅ……ん……」

 唐突なチエのうわ言に、思わず言葉が途切れる。アラシがチエの額にそっと指を揃え当てて、柔らかく撫でる。

 おそらく眠っているんだろう。けれど、だからといってあの鋭い雰囲気がここまで柔らかく――――というよりむしろ“弱々しく”という表現が近いようなものに変わるとは、まったくの予想外だ。

「まあ、ざっくり言えば、夜のチエは昼みたいな強気の女の子じゃなくて、幼くて甘えたがりの女の子になるって感じかな」

「……どうしてだ?」

「どうしてなんだろうね」

 息が、くっと止まった。

 ほんのわずか、アラシの声に含まれた無力さ。そんなものを感じ取ってしまっても、理解は及んでくれない。

「大きな子供だよね……」

 今はもう、優しさと慈しみばかり。微笑みにも、撫でる仕草にも。

 けれど、さっきの一瞬には、確かに異質な感情があった。

 ……どうしてそれが異質なんだと分かったんだろう?

「まあ、見てのとおり、楽に動ける状態じゃないから、食料庫から自分でなにか持ってきて、ここで食べて」

「ああ、分かった」

 食料庫は確か、通路に出て奥のほうだったか。

 扉まで歩き、ふと気づいて振り返る。

「どのくらい持ってくればいいんだ?」

「えっ、どのくらい? んーとまあ、今は乏しいわけじゃないし、好きなだけ持ってきてもいいよ」

「好きなだけ……」

 なにを参考にして決めたらいいんだろう?

「あー、ちょっと待った」

 把手に掛けていた手を止めて、また振り返る。

「えっとね……これだって思ったものを片手に二個ずつにしようか。種類は被らないようにして、だから四箱とか四袋になるね」

「ああ、分かった」

 それなら、なににするかだけ考えればいいな。




 通路に出て、右へと進む。すぐに突き当たって、左側には光沢のある黒灰色の扉、右側にはそれよりも軽そうな見た目の扉がある。確か片方は水タンクだと言っていたか。

 どちらが食料庫なんだろう?

 アラシのこだわりようなどを思い出すと、左のような気がする。ただ、船内をむやみに濡らさないようにするためには水密のことを考慮する必要があるらしいから、左は水タンクのような気がしないでもなくて――――

「あっ」

 ふと視線を上げた瞬間、思わずそんな声が出てしまった。

 左側の扉の上方に“水貯蔵区画”と書かれた札が付いている。

 悩む必要は無かったというわけか。

 右側の扉を開ける。中にはいくつもの半透明なケースがベルトで縛られて両側に並んでいる。こちらが食料庫で合っているようだな。

 カンパンの多さが目立つ。けれどそれは手前のケースに固まって入っているからで、奥のほうにはまだ見たことのない包装のものがある。

 奥のほうから見てゆくほうがよさそうだな。

 一〇歩くらい歩くと奥に突き当たって、そこでくるりと振り返る。両側を交互に見やると、昼に行った店で見たものに似ている複雑な文字が目に留まった。そういえば、あの店の文字が表していたのはいったいなんだったんだろう?

「……これだな」

 ベルトの金具は軽く触っただけで解けた。椀状の容器の口が蓋で閉じられているものをケースから取り出す。ケースの蓋を戻して、ベルトを締め直し――――

「あれ?」

 うまく締まった状態で留まらない。ベルトの端を引いてもすぐに緩んでしまう。似たようなものを触った記憶があるけれど、あれはどんな仕組みだったっけ……

「ん……あれ……おっ、あっ、あぁ……」

 押し込んだり、ベルトの通し方を変えたり、あれこれ試してみるけれど、他のもののようにしっかりと締まってくれない。

 ……あっ、そうか、他のものを見ればいいのか。

 触らないように気をつけながら、他のケースの金具を観察する。バックル型の留め具のように見えるけれど、ベルトは留め具の横側からではなく下から差し込まれて――――

「差し込む場所か……」

 金具には横に溝があるから、そこに差し込むものとばかり考えていた。金具の下部にある溝にベルトの端を差し込むと、ひとりでにベルトが締まってゆき、やがてギッと短く音を立てて止まった。

 あと三つか。




 結局、残りの三つには、カンパンと小袋入りのドライフルーツ、そして、『箱』でも見たことのあるボンテールという携行用糧食を選んだ。

 食堂に戻ると、アラシはまた紙を広げていた。チエのほうは寝たままだ。

「おかえり。なににしたの……わっはあ、面白い組み合わせだね」

 僕の手元の食料を見て、アラシが笑う。

「これが面白いのか?」

「まあね。だって即席麺にボンテールってだけでも偏ってるのに、そこへカンパンって、どれだけ炭水化物を摂れば気が済むの?」

「タンスイカブツ?」

「ああ、栄養素のことだよ。そっか、それは知らないんだね。必要なかったからかな?」

 椀状のなにか以外は、見たことのあるものを選んだんだけれど、どうやらなにかの釣り合いがとれていないらしい。

「まあ、何食か偏ったところで私がちゃんとバランスとってあげるから、心配しないで」

「偏っていたら、なにか心配する必要のあることが起こるのか?」

「まあ、あんまり長く偏り続けてると病気にはなるかな。食べ物は身体の構成要素だからね」

「そうか、だからアラシは食料や食事にこだわるんだな。そこまで重要なことだとは知らなかった」

「えっ……あっ、そうそう、そのとおりなんだよ」

 そういうことなら、僕も食料の知識をしっかり蓄えてゆく必要があるな。

「お皿は使う? それとも袋のまま?」

「そのままでいい」

「そっか」

 アラシは紙に視線を戻し、細いペンを掴んでなにかを書き始めた。アラシの意識が紙と字のほうへと集中するのが感じられる。食堂が静かな空間になって、音を立てる行為に少しずつ敏感になってゆく。包装を開けることに感じる抵抗も、少しずつ、すこしずつ……

「座ったらどう? ていうか食べないの?」

 唐突にアラシが顔を上げる。

「えっ、いや……」

「あっ、食べさせてほしいの?」

「それは違う」

「いいんだよ? 遠慮しなくて」

 気乗りしているアラシ。なんだか恐ろしいとさえ思える。

「あっ、なあ、これはどういう食料なんだ?」

 椅子に座りながら、椀状のなにかを指して訊いてみる。

「即席麺だよ。食べたことないの?」

「記憶には無い」

「えっとね、お湯をかけて少し待つんだけど……」

 アラシがチエを腿の上から下ろそうとする。

「自分で用意するから、そのままでいい」

 とっさにそう言葉にしていた。

「えっ、大丈夫? お湯の出る栓とか見て分かる?」

「シャワーに行けばいいんだろう?」

「いやいや、あれは食事に使うためのものじゃないよ。温度だってぜんぜん足りないし」

 同じ水ならなにに使ってもいい、というわけじゃないのか。

「えっとね、あそこの壁の右端にある銀色の把手を掴んで、手前に引き下ろしてみて」

 アラシが奥の壁を指す。そこへ近づき、言われたとおりにすると、壁が水平な台になり、同時にその奥から棚や機器がせり出してきた。

「で、そこの左のほうにある流し台……えっと、一段下がっていて、蛇口があるところから、飲用の水と熱湯が出るから――――」

 熱湯が出る蛇口というのは、おそらくこの赤いものなんだろう。長机まで戻って即席麺の容器を取り、またシンクとやらの前へ戻る。

「蓋を開けてみて」

 蓋には小さな余地がある。それをつまんで開けてみると、中には乾燥した黄色い糸が無数に絡み合ったようなものが入っていた。

「それで――――」

「ここに湯を入れたらいいんだな」

「あっ、待って――――」

 アラシの声が急に鋭くなったことに気づいた時には、もう蛇口をひねっていて――――

「つあっ!」

 容器から跳ね返った湯の熱さでとっさに手が引っ込み、手前へと熱湯が飛んでくる――――

「ああっ! うああっ!」

 痛い、痛いっ、痛いっっ!

 右の前腕の内側に、激烈な痛み。左手で強く押さえても、痛みはまったく和らがない。

 なにが……どうして……なにが……っ!

「カーム! 手を放して! 左手っ!」

 アラシが飛ぶように駆け寄り、僕の右腕を掴んで蛇口のほうへと引っ張る。

「ああっ! やめろ! うわっ、ああっ、あああっ!」

 そこは熱湯が……熱湯が出て……っ!

「カームっ!」

 けれどアラシは抗う僕の腕を押さえて蛇口をひねり――――

「ああっ……う……あ……」

 あれ?

 熱く……ない。痛みのない部分に跳ね返る水滴はむしろ冷たい。

「なにが――――」

「カーム」

 声音が低い。痛みから来ていた身体の緊張が、その根を思考へと移す。

「未知ってね、とても怖いんだよ。分かる?」

 声が出ない。頷くしかない。痛んでいた部分の感覚が鈍い。水は流れ続けている。

「なんで怖いのかって、それを知ろうとする時に、なにか間違っていたとしてもすぐには気づけなくて、知ってることで失敗するよりひどいことが起こるかもしれないからなんだよ」

 アラシの声はわずかに震え、かすれてもいる。決して音が大きいわけでも、鋭いわけでもない。

 けれど、厳しい。

「だから未知に触れるときはみんな慎重になるの。そうならなきゃいけないんだよ。そうならなきゃ――――」

「アラシやだぁ……」

 少し離れた床から、声が届いた。

「あぁ、落としたらさすがに起きちゃうか……んん……」

 ぼうっとした表情で、チエが床に座っている。

「アラシぃ……戻ってぇ……」

 アラシのほうを見て、頼りなく手を伸ばす。

「ここまでおいで。チエならできるでしょ?」

 アラシが手招きする。ややあってチエが近づいてきて、アラシの腰元にしがみついた。

「んなぅ……」

 うろんな来訪者に、途切れた言葉。

 けれど、まだ終わらないというのは分かっている。

「カームはまだどうしたって未知だらけなんだよ。だから、いつか既知が多く、深く、確かになるまで、私の言葉を待ってから行動に移して。じゃないとカームを守ってゆけないし、それだと連れてくことなんて私にはできないから。分かった?」

 赤くなった腕。そこにある違和感。そして、アラシの言葉。

「分かった」

 答えは決まりきっていた。




 痛む部分を流水でしばらく冷やし、アラシが近くに運んでくれた食料を摂り、すぐに寝るよう言われて居室へ戻ったのは、二三時。

 半粘性の液体を薄く塗られ、甘い香りがする右の前腕。何気なく腹に添わせ、倒れるようにベッドへ寝転ぶ。

「ふぅ……んん……」

 仰向け。視界の端には丸窓の縁。ほんのわずかに月光が差して、視界をうっすらと横断している。あまり腕を触らないでおくように言われたけれど、いつの間にか左手を添えてしまっている。

 離したくない。そう思っている。

 なにかを忘れている気がする。けれど、身体はもう動こうとしていない。あとは目を閉じて、眠るだけだ。

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