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誰よりも軽やかな風  作者: 雪原たかし
第2章 『高楼大陸にて』
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第7話  「偽らない夕日」

 一七時半。レイメバナンに戻ると、アラシは操舵席で手帳を広げ、なにかを書いていた。

「ただいま」

 チエが声をかけると、アラシは手帳を閉じて操舵席から降りた。

「おかえり」

 戻るべき場所へ戻った時のあいさつと、その場所で出迎える時のあいさつか。きっと僕もしたほうがいいんだろう。

「ただいま」

「はいおかえり」

 チエの時と同じように、アラシが微笑みを返してくる。

 あいさつというのは面倒だな。ぼんやりしていたらすぐに忘れてしまいそうだ。

「仲良くなって戻ってくるとは思ってなかったんだけどなぁ」

 アラシが僕とチエの間の、やや低い辺りを見ながらニヤつく。

「はあ? なに言って……あっ!」

 つないでいた手をチエが乱暴に振りほどく。

「これは違うから! こいつの文化に仕方なく合わせてやっただけだから!」

「へーん」

 ああそうか、もうレイメバナンに戻っているんだから、別に手をつないでいなきゃいけないわけじゃないんだな。

 それにしても――――

「あれはお前たちの常識なんだろう?」

「……なにが?」

 チエが真顔で訊き返す。

「手を差し出されたら握るというのは常識なんだろう?」

「……いや、あれは“早くついて来い”って合図のつもりだった」

「えっ」

 外界……じゃなくて、世界の常識はどうもひとつじゃないようだ。

もしも人によって常識がそれぞれ異なっているんだとしたら、僕が覚えないといけない常識は、いったいどのくらいあるんだろう?

「ははぁ、こんな狭い世界でも異文化交流ってあるんだねぇ」

「笑えないわよ……」

 笑っているのはアラシだけだ。

「でも、こんなに特殊な異文化なんてそうそうないよ? 私とチエだけでしょ、『箱』の文化を知ることができるのって」

「てゆうか、そもそも『箱』に文化なんてあんの?」

 チエの視線がキッとこちらに向く。

「あ、えっと……」

 文化のことなんて、そう深くは考えたことがなかった。そもそも文化が存在できるほどの集団が無かったように思う。孤独の時間がほとんどだったし、時々なら誰かに遭遇することがあったけれど、いつもすれ違うばかりだった。

 あの老翁との会話なんて、いつ以来の会話なのかが思い出せないほどに久しぶりだった。『箱』には、音があっても言葉はほとんど無かった。言葉があっても声はほとんど無かった。

「文化は無かった。そもそも人がほとんどいないんだ」

「だそうよアラシ」

「大丈夫。カームにも文化はあるよ」

 アラシが自信ありげに言ってのける。本当だろうか?

「カームが私たちや他の世界の文化を学んでゆくのと同じように、私やチエもカームの文化を学ばないとね」

 アラシがチエの頭に手を添える。

「それって、これからずっと、手を出したらこいつに捕まる心配をしなきゃいけないってこと?」

 チエがアラシを見上げながら不服そうな表情になる。

「うーん……異文化交流の方法はいくつかあるけど、どちらか一方だけが我慢や妥協をするっていうのは、まあ好ましくないよね」

「じゃあどうすんのよ?」

「その答えはカームとチエにしか出せないよ」

 アラシはただ笑顔を返すだけだった。




 夕食は一九時からにすると言われ、何時間ぶりかで自分の居室に戻った。装備や食料は収納した時の場所にそのまま残って――――

「……ん?」

 いや、食料は無くなっているな。おそらくアラシが食料庫に収納したんだろう。そういうのは、あの分の食料を受け持った僕の仕事なんだろうと思っていたんだけれど。

 こういう時は感謝の言葉を贈ればいいのか?

 まあ、はっきりとは分かりかねるけれど、今はとりあえず、この少しだけ変わった僕の空間を、また意識に象りなおそうか。贈るにしても、時間が経てば食堂に集まるんだから、その時でいいだろう。




 空間の把握にはあまり時間がかからなくて、終わってからずっと船窓の向こうの空を眺めている。僕の記憶が正しいなら、雲越しに赤紫の斜光を放っているあの太陽は北西に沈むはずだ。

 そういえば、夕日や日の入りを実際に見るのは、これが初めてになるのか。よく考えてみれば、今朝の窓越しのものを除けば、まだ日の出や朝日だって見たことが無い。

 そうだ、僕はずっと、空を見るためには天頂を仰ぐしかなかった。しかもそうしたところで、見えるのは投下口の小さな点だった。

 けれど、あの空は、太陽は、想像でも偽物でもない。

 きっと無意識はもっと早くからこのことに気づいていた。さっき甲板で周りの景色を眺め続けていられた理由はこれだったんだろう。そこにあったのはひとつの未知じゃなくて、捉えようも数えようもない未知に満ちる世界だった。こうして窓に切り取られていても、あの太陽は僕の未知だ。だから延々と眺めていられるんだ。

「ふぅ……」

 もう一度、甲板に出たいな。




 今日だけで梯子の昇降にはかなり慣れたように思う。

 無人の甲板。さっき上がっていた時とは色合いだけが違う。

「すぅ……」

 息を吸う。鼻の裏を撫でてゆく、海の匂い。これが海の匂いだと分かったのは、今日のこと。港湾や海を見たのは、今日が初めてだ。

「ふぅ……」

 息をはく。無意識のうちに上がっていた肩が、ゆっくりと下がる。なぜか目が閉まる。レイメバナンのわずかな揺れが足裏に伝わる。ドック一八〇を出て、北大洋を渡ったのは、今日のこと。『箱』を出たのは、きのうのこと。

「んん……」

 最後まで肺を絞る。そうすれば、息が吸いたくなる。呼吸が波となって、僕に海を教えてくれている。ただの呼吸なのに、今だけはそうじゃない。いや、今だけなのかどうかは、まだ分からないか。

 いったいどれだけのことを知ったんだろうか。

 今でこそ思考にも感覚にも鮮やかに残っている。けれど、時間が過ぎれば薄められてしまうかもしれない。

 筆記具が欲しい。筆記具を装備に入れなかった理由が、自分でも分からない。ただ忘れていただけなのかもしれない。それ以外には考えつかないだけだ。

 目を開ける。暗闇から赤紫へと変わる視界。世界を最外で象る空。無数の未知とわずかな既知とを抱えている世界を進むなら、きっとまた筆記具が欲しくなるんだろう。

「まーたここにいんの?」

 チエの声だというのはすぐに分かったけれど、振り向かない。

「ああ、夕焼けを見てんのね」

 声が隣にやってきたのを感じる。

「なあチエ」

「なによ」

 相変わらずの鋭い反応。これにも慣れた……のかもしれない。

「お前にとって、日の入りってなんだ?」

「は?」

「夕日でもいい」

 やっぱり振り向かなくて正解だったようだ。

「……あんたにとってはなんなの?」

「未知」

 自分でも驚くほどの早さで答えが出た。

「……意味分かんないんだけど」

「今まで日の入りや夕日を実際に見たことがないんだ」

「そんなわけ……あるの?」

 否定が疑問へと和らげられる。この反応は初めてだな。

「『箱』ではそもそも空がほとんど見えないんだ」

「ああそっか、地下にあるんだもんね。てことはさあ、やっぱ上も閉じちゃってるわけ?」

「上……ああ、あれのことか。上面には投下口があるから、完全に閉じているわけじゃないけれど、底面からは点にしか見えないんだ」

「そんなだと『箱』の中って真っ暗なんじゃないの?」

「いや、底面が弱く光っているから真っ暗じゃない。底面が見える場所が所々にあるから、そこで明かりを採ることができるんだ」

「さすがに明るいわけじゃないのね」

「まあ、たぶんそうなんだろうな」

 今のところ、世界には『箱』よりも明るいところが多い。世界に生きてきた人たちの明暗の基準は、きっと明に寄っているはずだ。僕にとって『箱』の中は暗くないんだけれど。

「それで、どうなんだ?」

 ようやくチエのほうを見る。困惑の表情だ。

「どうって……ああ、チイにとっての夕日ね」

 表情こそ面倒そうだったけれど、チエは少し考えて――――

「あんたってさあ、世界地理とかの知識はあるわけ?」

「本は読んだ。行っ――――」

「行ったことはないのね。分かった分かった」

 追い払うような手の仕草が視界に入る。

「じゃあ、チイのさっきの質問と交換で答えてあげる」

 チエが僕から目を離して夕日のほうに顔を向ける。僕もつられて夕日のほうへと目を戻した。

「ソーハンだと緯度が高すぎるからちょっと違ってくるんだけど、チイの生まれ故郷にはね、一年の決まった時期に夕日を尊ぶ慣習があったのよ。えっと……一年を寒気・暖季・暑季・冷季に分けて、そのうちの冷季に夕日を眺めるのが、昔からふさわしいこととして続いていたのよ」

「今みたいなことをしていたのか?」

「そうよ。でも、チイは別に楽しくなかったのよ。普段はほとんど考えることもない夕日のことなんてどうでもよかったし、みんながやたらと『きれいだ』って言うんだけど、ただ明るいだけじゃん、ただ色が朱っぽいだけじゃんって思ってたのよ。それがさあ……」

 チエの伸ばした手が視界の端に映り込む。曖昧ながらも、夕日のほうへと向けられている。

「いつの間にかチイも夕日をきれいだって思うようになってたのよ。本当にきれいだなって」

「どうして考えが変わったんだ?」

 なぜかチエのほうを向くことができない。

 得体の知れない、予感。

「自分でもさっぱり分かんないのよ。むしろ嫌いだったはずなのに、たまに気づいたら夕日を眺めてて、気持ちいいため息をついてて、すっごくいい気分になってるの」

 太陽が境界に差しかかる。ゆっくりと、欠けてゆく。沈んでゆく。

「でもね、ひとつ分かってることがあんのよ。もしチイが欠かさず夕日を眺めるようになったら、いつかきっとそういう気分は消える。忘れかけて、でも忘れてしまう前に思い出すから、いい気分になる。だから、そうね……」

 チエが夕日に背を向ける。思わず振り向くと、チエは操舵室へと歩き始めていた。

「チイにとっての夕日は“飽きるのは嫌だなってだけのもの”かな」

 チエはそのまま操舵室の中に入り、もう一瞬さえも夕日を見ずに、下層へと降りていった。




 飽きるのは嫌。何度も見れば飽きて、なにかを失ってしまう。

 今の僕には、どうも理解できない思考だ。

 太陽が欠け始めると、それまではほとんど分からなかった明度の変化が大きくなった。ぐっと青く、暗くなって、それでもやっぱりゆっくりと変化してゆく。

 けれど……なんだろう?

 甲板に出ようと、夕日を見ようと、そう思った時にあった感覚が、今はなんだか違ってしまったかのように思える。

 これは、チエの答えを聞いたからか? 僕がその答えでなにかを知ったからか?

 僕の手の届かない場所で、太陽が沈む。鮮やかさも眩しさも失い、空を暗みに譲る。あまりにも大きな現象。絶対の未知。

 なのにどうして、こんな感覚なんだ?

 ほら、沈むじゃないか。初めて見るじゃないか。

 ほら……

 ほら……なあ……

「…………」

 ああ……そうか。

 違うんだな。

 じゃあ、今はそれでいいか。

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