第5話 「町歩きに世界」
「そんなところに突っ立って、なにか面白いわけ?」
バンホウが去ってからしばらくして甲板に出ていた僕のもとへと、チエが得体の知れない物事を見ているかのような表情でやって来た。
「面白さ……じゃないな。ただ、こう……満ちる気がする」
「はぁ?」
チエが呆気にとられる。僕もしっかりと考えて言ったんじゃない。
けれど、やっぱり“満ちる”というのが合っていると思う。
ほんのわずか、船が揺れている。船上の高みから、港湾の風景を眺めている。何隻かの船が湾内に白く航跡を引き、それがたちまち消えてしまう。未知に満ちている、動的な世界。
「こんな退屈なもんでねぇ……」
チエが納得していないのは、きっと当たり前のことなんだろう。入港した時に見えていたソーハンの町並みのほうになら、面白さを見出せたりするのかも――――
「どうせなら町のほうを見なさいよ。なんなら行っちゃえばいいし」
「……行ってもいいのか?」
なにかの本で、個人籍の不明な人物の入領に対しては厳しい審査基準が適用されると読んだ覚えがあるけれど――――
「府長のことだし、たぶんあんた関係の手続きは済ませてるでしょ」
「そうなのか?」
時刻窓を見やる。一六時。バンホウが去ってから二時間ほどだ。
「あいつ、なんだかんだであんたのこと気に入ったみたいだしね」
僕は個人籍が不明の人間だから、きっと港湾区画から出られないだろうと思っていた。けれど、もしも出られるのだとしたら、狭い場所よりは広い場所のほうがいいに決まっている。
「じゃあアラシに許可をもらってから――――」
「アラシなら許可するに決まってるわよ」
「そうなのか?」
「ていうか、あの様子だとしばらく居室にこもるだろうし、書置きでもしておけば大丈夫でしょ、たぶん」
バンホウを見送ってから、「ちょっと何時間か暇を潰しておいてくれるかな?」と言って、アラシは自分の居室へと降りていった。だから甲板にいたんだけれど――――
「なあチエ」
「なによ?」
「お前の居室はどれなんだ?」
「どれって、アラシと共用だけど、それがどうしたの?」
「居室を選ぶ時にアラシはA以外の部屋を選択肢から除かなかったから、お前の居室はどこなんだろうと思ったんだ」
「あっそ。で、あんたはどこにしたの?」
「Bだ」
「うっわ隣とか最悪……」
チエが明らかに嫌がる。
「違う部屋に移ろうか?」
確かどの部屋も同じ構造だと言っていたし、また慣れればいい。
けれど――――
「いいわよ別に」
先ほどまでの嫌がりようが幻だと思えるほど、チエは急に普通の顔になった。普通といっても、真顔や笑顔の類ではなく、不機嫌の基本のような表情だけれど。
「で、どうするの?」
「どうするって、なにを?」
「だからぁ……町のほうに行くのかってこと!」
そういえば、つい先ほどまでそういう話だったな。
「行けるなら、もちろん行く」
「あっそ。じゃあちょっと待ってて」
「えっ、ああ……」
どうして待たされるんだ?
チエは操舵室へと向かい、下層へ降りて見えなくなった――――と思ったら、すぐに戻ってきた。
「なんだったんだ?」
「書置き。さあ行くわよ」
なんだ書置きだったのか……ん?
「お前も町に行くのか?」
「そうよ」
「僕の監視か?」
一拍、二拍、三拍――――
「あ、そっか、確かに監視しとかなきゃ……」
声量が落ちたけれど、かろうじて聞き取れる。元々の意図というわけじゃなさそうだな。
「ということは、なにか問題があったらお前を頼ればいいのか?」
「えっ、なんで?」
「お前はアラシの代理なんだろう?」
「……あ、そういうことね。ていうか、あんたが問題を起こさないようにすれば、そもそもチイを頼るとか考えなくて済むでしょうが」
確かにそうだけれど――――
「僕にはそういうのを判断する基準が足りないんだ」
「あ、そっか、あぁもう面倒ね……」
重荷を背負ったかのように、チエの姿勢が悪くなる。
「まあ、あんたは自分なりにちゃんと考えて行動して。とりあえず今はそれで許すから」
「ああ」
同行を拒否するわけじゃないんだな。
漁港区域を抜けて、行政府の建物を過ぎると、門が見えてきた。両脇には人が控えていて、通過する人や車両などを見送っている。
「なに警戒してんの?」
「えっ?」
確かに警戒していたようだ。気づかなかったな。
「大丈夫よ、たぶん」
「確かじゃないのか?」
「大丈夫じゃなくても港から出られないってだけでしょ」
「罰則は無いのか?」
違法行為には罰則が課されると読んだ覚えがあるけれど――――
「押し通ったら話は別だろうけど、そのまま引き返せば大丈夫よ」
「そうなのか……」
チエは自然な様子だ。チエの振る舞いを参考にしておけばいいのかもしれない。
歩行者用の道路を進み、門を通過する。確かになんの問題も無く港湾区画の外へ出ることができた。
「なにか身元を確かめる機構があるんじゃないのか?」
「門がそれをしてんのよ」
「門がなにかを読み取ったのか?」
「なにかっていうか、チイたちの身体そのものが証明みたいなものなのよ」
「はあ……」
なんにせよ、前方に続いている道路の先にはソーハンの町並みが見えている。
港湾区画の建造物は、そのほとんどが白を基調とする外装だった。けれど、この区画――――“町内区画”とでも呼ぼうか――――は赤練に由来する鈍い赤を基調としている。
行き交う人たちの服装も、漁港や行政府で見た人たちのものとはまた違っている。漁港の人たちのように汚れているわけではなく、行政府の人たちほど整っているわけでもない。
「それで、あんたはなにが見たいわけ?」
「見たい……んん……」
面白そうなもの……あっ、あれはどうだろう?
少し向こうのほうに見える、食材が並んでいる区画。こと食材において、『箱』ではまともな形状を保っているものは多くなかった。食べるには危険なものが多かっただけに、食材と判別できるものがあれほどたくさん並んでいる光景というのは初めてだ。
「あれだな」
そのほうへと歩き出し――――
「あっ、ちょっ、待て待て待て!」
チエが僕の腕を捕まえて引き留める。
「なんだ?」
「あんたが先に歩くのはダメ。行きたいところはチイに言って」
「お前に了解を取るのが先ということか?」
「だって、あんたの独断に任せたら、予測できない行動に出るかもしれないじゃない」
まあ、確かに僕もチエの予測というのがどのようなものなのかは分からないんだから、そういうことなんだろう。
「分かった」
「それで、どこに行きたいわけ?」
「あの食材がたくさん並んでいる区画が見たい」
「ああ、市場ね。じゃあ、ほら」
チエが僕のほうへと手を差し出す。
そういえば、アラシにも同じようなことをされた。確かあの時は手を握ったんだったな。じゃあそうしようか――――
「きゃっ!」
チエが飛び跳ねる。
「わっ、どうした?」
「えぇ……文化まで違うってえの?」
相手の手を握ればいいんじゃなかったのか?
それなら離して――――
「まあいっか、一応これなら見失ったりしないし」
チエが僕の手を握り返す。
「ほら行くわよ」
「あ、ああ……」
拒んだんじゃなかったのか?
やっぱりどうも分からないな。
日がいくらか落ち、少し明るさが弱まる時間。それでも、市場は多くの人が動き、声が飛び交っている。
「なにか食べたいものでもあんの?」
チエが僕のほうへと振り向く。
「そういうわけじゃない」
「まさか、また眺めるんじゃないわよね?」
そういえば、甲板で話した時も退屈そうな反応をしていたな。
「それでいい……というか、そのほうがいい」
「はぁ……まあ、あんたがそれでいいなら、要らない出費をせずに済むけどさ」
とりあえずは同意してくれたようだ。
通路を歩きながら、脇に並ぶケースの中の食材たちを眺めてゆく。
彩り。形。香り。どれもが豊かだ。名前が分からないものが多いけれど、それでもこの豊かさは変わらない。
「やっぱり魚介類が多いな」
ケースの過半数は魚介類で占められているようだ。加工品が多いけれど、時間を考慮するに、鮮度の問題だろうか?
「『箱』には池とか海ってあんの?」
「え?」
チエが『箱』の内部に興味を持つとは思わなかったな。
「水たまり程度なら時々できていたこともあったけれど、池や海のようなものは無かった」
「じゃあ、魚介類とか初めて見るんじゃないの?」
「いや、魚自体はよく見かけた。生きているものとなるとさすがに珍しかったけれど、水槽ごと落ちてきたことがあった」
「へぇ……」
反応に鋭さが無い。僕を相手にしても、こういう柔らかい反応ができるんだな。
「触ろうとはしないのね」
「触ってはいけないんだろう?」
「あ、それは分かってるのね」
まったくの無知というわけではないんだけれど、どこまで知識が備わっているのかは定かじゃないから、うまく反論できそうにない。
早く外界の常識を……
「そうか、こういうことか」
「えっ、なに? わっ」
この場所を、この世界を、『箱』以外を“外界”だと思っている。そんな状態で、世界を深く知ることはできない。
ここは“外”なんかじゃないんだ。
「いきなり止まって……もう! どうしたってえのよ?」
腕が痛い……あっ、チエがなにか言っているのか。
「……ああ、すまない、考え事をしていたんだ」
チエが呆気にとられ、ややあってため息をついた。
「こんな往来のど真ん中で立ち止まったら邪魔になるでしょうが。考え事をするにしても場所を考えなさいよ場所を」
周りを見る。確かに通路の中央で立ち止まっていて、人の流れを妨げている。
「ああ、気をつける」
世界の常識を、またひとつ知った。
「まったくもう……とりあえず市場を抜けるわよ」
チエが僕の腕を引く。チエが怒っているのかが足音や歩き方から分かるようになってきた気がするんだけれど、今は――――
「遅っ! ちゃっちゃと歩いてよもう! 手が疲れるじゃない!」
「すまない」
あまり怒らせるばかりになるのはよくないんだろう。とはいえ、チエが怒る理由をきちんと理解できないといけないんだとしたら、それは遠い未来の話になりそうだ。




