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エリゴス・ライン攻略戦 ③

 唸りを上げる鋼鉄の獣たちは、睨み合いを続けながら雨の中を駆けていく。スチュアート軽戦車隊は優秀な足回りの性能を存分に生かし、速度や動きに緩急を付けて、Ⅳ号戦車に狙いを絞らせないように小刻みに動く。時折M6三十七ミリ戦車砲を放ち、相手を挑発している。対するⅣ号戦車は沈黙を守っていた。

「なんでどのⅣ号も撃たないんです?」プリムラが言う。

「迂闊には撃てないのさ」と私は答えた。


 行進間射撃で、しかも細かく動く相手へ砲弾を命中させる事は容易では無い。Ⅳ号戦車の長砲身四十八口径七十五ミリ砲の砲弾は、スチュアートのどこを狙っても装甲を貫通する事ができる。しかし、一度外せば次弾の装填という隙が生じる。そして密着されてしまえば、七十五ミリ砲の長砲身ではスチュアートを狙えなくなるのだ。Ⅳ号戦車のどれかが迂闊に攻撃を仕掛けて外せば、ハリーズ中尉はそれを見逃さないだろう。一気に全車で斬り込み、三十七ミリ戦車砲の砲弾をⅣ号戦車の横っ腹にぶち込む。

 逆の捉え方をすれば、スチュアート隊が勝利を掴むにはその手段しかないのだ。スチュアートの貧弱な備砲では、Ⅳ号戦車にダメージを与えるには側背面を狙うしかない。そして確実に命中させる為には、ギリギリまで近づかなくてはならない。更には、一撃では完全に沈黙させるには至らないだろう。相手の隙を突いて肉薄し、小さなナイフを何度も突き刺すように砲弾を撃ち込むしかない。

 あるいは黒豹のⅣ号ならば回避行動を取っているスチュアートへ砲撃を命中させる事も可能であろうが、ハリーズ中尉はそれこそを誘っている。この部隊の心臓はエースである黒豹に他ならない。たとえ損害を被ろうが、黒豹を葬る事ができればゲ二アの戦車隊は崩れる。


 そしてゲ二アが攻撃を控えている理由のもう一つ。それは私たち、強襲偵察隊だ。

 今や私たちはⅣ号戦車隊のすぐ後ろに付けている。百メートルも離れていない。だが彼らは、私たちへ砲口を向ける訳にはいかない。しかし無視もできない。ブローニングM2重機関銃でも、肉薄してⅣ号戦車の背面を狙えば十分にダメージを与える事ができるだろう。あるいは限界まで接近して、エンジングリルの上に手投げ弾を放るという事も警戒しているはずだ。しかし実際には、私たちはそれらよりもずっと強力なM1バズーカを装備している。私たちはⅣ号戦車に閉じこもっているゲ二ア兵の予想をはるかに超えて、彼らに損害を与える事ができる。


 しかしそれでも、私たちは追い詰められていた。有利な点など一つも無かった。

 ゲ二アは確かに迂闊に動く事はできなかったが、その必要も無かった。ルディたちはもう目と鼻の先だ。すぐにでも私たちやハリーズ中尉は、黒豹たちの進攻を妨害するためにこちらから仕掛けなければならない。もちろん、大出血を覚悟して。黒豹率いるⅣ号戦車隊はそれを迎え撃てば良いだけなのだ。あるいは何も起こらなくとも、いずれ黒豹たちは目的を果たす。

 後はタイミングだ。ほんの小さな切っ掛けで良い。黒豹たちの警戒が一瞬でも逸れるような事さえあれば、その瞬間に全てが動く。


 バタバタと鉄帽子を叩く雨音も聞こえない程に、私の心臓は早鐘を打っている。視界は狭まり、手足の筋肉は強張る。指先は冷え切って、既に感覚が無い。途轍もないストレスだった。緊張しているのか。いや、これは恐怖だ。事態が動き出せば、瞬く間に多くの命が失われるだろう。黒豹とゲ二アの戦車兵たちを相手にして、無傷の勝利などあり得ようも無かった。私は自身の死について恐怖を覚える事は未だに無かったが、今や機甲砲科特務隊の少女たちの命が散ってしまう事を、何よりも恐れていた。それはこの世のどんな悪夢より、耐えがたいものに思えたのだ。

〈くそっ。黒豹め、俺たちをとことん無視するつもりだぞ。勝負しやがれ! おい二号車。お前だケインズ。一発くらい当てろよ、奴を賭場に引きずり出せ〉

 無線機からハリーズ中尉の野太い声が漏れてくる。緊張感や気負いは欠片も無い。まるで競馬場でくだを巻く週末ギャンブラーのようだ。強い男だ、と私は思った。


 不意に後ろから左肩を掴まれた。驚いて振り向くと、イリスが半眼で私を睨みつけていた。

「戦う前から死人みたいな顔をしないでくださいよ。つまらない男ですね」

 イリスの表情は、いつもと変わらないように見えた。隣にいるプリムラやニーナには若干の緊張は見られるものの、やはり大きく動揺している様子はない。視線を前に戻すと、運転席のラナは私に背を向けたまま右手の親指を突き上げた。青い顔をしていたのは私だけのようだった。私はゆっくりと息を吐いた。

「あなたには、もっと余裕が必要です。初めて本部の中庭で見た時から、無理をしているのが見え見えでした。今では殻が割れた代わりに、心が剥き出しになっています。なんというかですね、あなたには無駄が必要なんですよ」イリスが言う。

「無駄?」

「たとえば、明日は何をしようとか、好きな小説の続編が待ち遠しいなとか、ハーシーのチョコレートを食べたいな、とか。そういう他愛のない事ですよ。無理をして完璧でいようとするあなたは、見ていて息が詰まります」

 ねぇ、サミュ。とイリスは言い、私の眼を真っ直ぐに見つめた。

「あなたはもっと、自由でいい。能天気に、未来のことだけを考えていて欲しいのです。それが理想の指揮官というものですよ」


 私は息を飲み、心臓を掴まれたような気持になった。私は彼女たちに、何度気付かされるのだろう。やはり私は未熟者だ。しかし同時に、それを嬉しく思う気持ちもあった。私はこの戦場で出会った人々から様々な大切な物を受け取り、様々な事を教わった。信じて、立ち向かい、受け入れる。それが勇気というものであることを知った。

 どれだけ完璧な兵士であろうとしても、結局私は人間だ。迷い、恐れ、怒り、怯え、喜び、笑う、ごく普通の、一人の人間なのだ。そんな当たり前で大切な感情が、私の中には確かに存在している。その事を教えてくれたのは、機甲砲科特務隊の少女たちだ。

 ルディはPSとして仕立て上げられた彼女たちを人間にしたのは、私だという。だが今や私は、まったく逆のように感じている。私だ。私こそが、彼女たちに人間にしてもらったのだ。


「帰ろう」私は意識せず口を開いていた。「無事にみんなで帰るんだ。帰ったら、またサヴィナに七面鳥でも焼いてもらおうじゃないか。悪くない考えだろう?」

 イリスはわざとらしいため息をついた。

「もう少し気の利いたことは言えないんですか」けれど、その口元が緩む。「サミュにしては、頑張ったほうだと思いますよ」

「最高に嬉しいよ」と私は笑い、プリムラやニーナも笑顔を見せた。


 突然重い砲撃音が轟く。圧力をもった音の波が身体を叩く。ルディたち砲撃部隊の砲撃に間違いなかった。先程と違うのは、砲撃音が随分近くに聞こえるという点だ。その音は戦車の中にいる彼等にも届いたのだろう。スチュアート隊は驚いたようにジクザク走行を止め、逆にⅣ号戦車の車列は乱れた。

 場には鋭い緊張が走っていた。アルテミスの砲撃は全くの予想外だったからだ。十インチ榴弾砲から放たれる重砲弾は爆風と共に破片を周囲に撒き散らせ、その破壊は広範囲に及ぶ。黒豹たちを狙えば、私たちやスチュアートも巻き添えだ。こちらへ攻撃してくる事はあり得ない。

 前線に対しても同様だ。敵部隊が接近している事が解っているのに、のんびりと腰を据えている砲撃部隊などありはしない。黒豹やハリーズ中尉は、当然アルテミスも既に撤退を始めているものと考えていたのだろう。

 だが、私の考えは違った。一度逃げないと言った以上、ルディたちが背中を見せる事は決して無いだろう。彼女らは最後の一瞬まで、自らの役目を全うしようとするはずだ。


「いくぞ。全車攻撃開始!」

 私の指示をプリムラが無線機を通して各車に伝える。ラナはアクセルを踏み込み、最後尾を走るⅣ号戦車のケツがぐんぐんと近づいて来る。

 女神の矢は、はるか上空を雨の軌跡を空に刻みながら飛んでゆく。

 私はフェイスマスク、ゴーグル、手袋を装備し、M1バズーカへロケット弾を装填する。隣ではイリスが同じ準備をしていた。私は発射機を構え、照準を定める。

「撃つぞ!」

 プリムラとニーナが、私の左右で低く頭を伏せる。M1バズーカは発射と同時に強烈なバックブラストを吹き出すため、周囲の人間が避難する必要があった。ラナもハンドルを握ったまま、身体をシートに沈み込ませた。引き金を引いた瞬間、車体が跳ねた。タイヤが何かを踏んだか、溝を乗り越えたのかも知れなかった。ともあれ、そのせいで私の放った対戦車ロケット弾は大きく上へ逸れてしまった。


「くそっ。もう一発だ!」

 私がプリムラからロケット弾を受け取っていると、イリスがラナの名を叫んだ。Ⅳ号戦車の砲塔が旋回し、私たちへ砲口を向けようとしていた。瞬間、二両のシボレートラックが私たちの左右を猛スピードで通り過ぎ、そのⅣ号戦車を左右から挟み込む。オリオンの二号車と三号車だ。二両のシボレートラックからM1バズーカの燃焼炎が噴き出す。二発の成形炸薬弾を受けたⅣ号戦車は大きくよろめき、砲塔の動きも止まった。だが、まだ走り続けていた。イリスの手からとどめの一撃が放たれる。ターレットリング付近に着弾したロケット弾は装甲を貫通し、車体と乗員を酷く痛めつけた。Ⅳ号戦車は今度こそ動きを止め、私たちの後方へ置き去りにされていく。炎の舌と黒煙が車体から上がっている。


 私たちに呼応するように、スチュアートが仕掛ける。Ⅳ号戦車たちの反応は遅れた。予想外の火力を持つ私たちと、迫るスチュアートのどちらを対応すればいいのか迷っているようだった。だが、黒豹だけは違った。鋭い砲撃音と共に牙を放ち、一両のスチュアートが悲鳴を上げる。黒豹の牙は難なくスチュアートの装甲を貫通し、戦車としては軽いその車体を弾き飛ばす。噛みつかれたスチュアートが再び動き出す気配は無かった。

〈くそっ! ケインズ! くそっ、くそっ!!〉ハリーズ中尉の咆哮が無線機から溢れ出す。

 黒豹を守るように、一両のⅣ号戦車がスチュアートとの間に割って入った。放たれた砲弾がスチュアートの装甲を掠める。ハリーズ中尉たちは恐れを知らなかった。黒豹との間に割り込んだⅣ号戦車に肉薄し、横腹に三十七ミリ戦車砲の砲弾を撃ち込んだ。ハリーズ中尉の一両がⅣ号戦車の真横に張り付き、もう一両はケツを抑える。Ⅳ号戦車の長砲身七十五ミリ対戦車砲は役目を果たす事ができなかった。スチュアートが近過ぎて撃てないのだ。対するハリーズ中尉たちの三十七ミリ対戦車砲は短砲身だった。車両が密着した状態でも、相手に砲弾を叩きこむ事ができる。二両合わせて四発の砲弾を撃ち込む頃には、Ⅳ号戦車は立派な鋼鉄の棺桶になっていた。


「残り二両!」ラナの叫ぶ声が聞こえた。


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