Chapter05-2 星空の下で
まさか、旅立ちの序盤で馭者が負傷して、担架で王都まで連れ去られるなんて、誰が予測できたろう。
「いや~~、自分はまだぁ……」
「いやいや、無理はいけない。馬もやられたようだし、荷馬車は明日の朝にでも我々が代わりに運び入れてやるゆえ」
「そうだ。雇い主に言って代わりの奴を手配してもらえ。なんなら口添えもしてやろう」
こんな会話と、複数の足音が荷馬車の横を通り過ぎていく。
「…………」
なんということでしょう。
呆然とする面々の耳に、
カーーン カーーン カーーン
宵闇の向こうから時告げが聞こえてきた。城門の閉門を報せる鐘の音である。
閉門の時刻を過ぎると、何人たりとも城門の内側へは入れない。その逆もしかり。追っ手も来ないかもしれないが、その代わりに野宿か先へ進むかの二択になってしまった。しかも、頼りになるウィルと〈聖女〉様は魔力切れ。
加えて。
「リディア? 大丈夫?」
荷馬車から出るや、へなへなと座りこんだリディアにジーンが心配そうに声をかけた。
「身体の、あっちこっちが……痛くて」
ゴブリン戦で、無理矢理大立ち回りをした反動がきたらしい。涙目のリディア。
さて、どうする……?
◆◆◆
「できるだけ遠くまで飛んでみるよ!」
――あれから。
ジーンのひと言で、メリルを魔法で〈隠し〉、ジーンがリディアを抱えて飛ぶことになった。
馭者と馬を失い、リディアも歩けないとなると、ジーンの翼に頼るしかない。
とりあえず『できるだけ遠くにある人里』をめざすことで、三人の意見が一致したのだ。
「暗くて何も見えないわ」
真珠を砕いて一面にばら撒いたかのような夜空。幾千、幾万もの星々が白く煌めいている。一方、地上は黒闇に沈み、森の稜線らしき凸凹を認識できるかどうか。
「俺は夜目がきくから大丈夫。まだ一面の原野だし、」
どのみち、人里を訪うのは夜明けを過ぎてからになる。深夜の訪問は歓迎されないのだと、ジーンは説明した。
「少し寝ておいたら? 俺は夜しか外へ出られない。夜明け以降は君頼みになってしまうから、身体を休めて」
と、最後は申し訳なさそうに眉を下げてジーンは言った。
湿り気を帯びてひんやりとした夜風が、二人の髪を遊ばせる。ジーンの翼の羽ばたき以外は、風が囁く微かな音しか聞こえない。
「ジーン様は本当におとぎ話の 〈勇者様〉 なのですか?」
満天の星を背負うジーンを見上げ、リディアはずっと気になっていたことを口にした。
〈勇者〉は創世神話――何百年も昔の人物。普通に考えるなら、あり得ないのだ。人間がそんな長い時間を生きられるはずがないから。
「うん……。俺は〈勇者〉だ」
ややあってジーンは肯いた。先ほどまでの明るさが打って変わって静かな声音。少しだけ飛ぶスピードが落ちる。
「どうして……?」
なぜ、それほどの時を生きているのか。
なぜ、夜しか外に出られないのか。
なぜ、翼があるのか。
なぜ、〈厄災〉と言葉が通じるのか。
ジーンはリディアの知る〈勇者〉とはかけ離れている。〈勇者〉は〈厄災〉を討伐するのに……。彼は〈聖剣〉に代わる武器さえ持っていない。以前、リディアを冒険者崩れから助けたときも、彼は戦うより逃げることを選んだ。
〈聖女〉を逃がすと言ったけれど、彼女をどこへ連れていくつもりだろう。すでに彼女の故国は滅びたというのに。
もし、モルドレッドのことがなかったら、彼はどこへ行くつもりだったのだろう。
疑問ばかりが頭をもたげる。
「わからないんだ」
ややあって落ちてきたのは、凪いだ、それでいてどこか悲しみの滲んだ声。
「〈勇者〉はこの世界に必要……そう、信じて疑わなかった。だけど、」
わからなくなってしまった。
何のために続けているのか。
〈セカイノヘイワノタメ〉
以前は確かな意味を持っていたそれは、時を経るごとに色褪せぼやけ――まるで、古い書物が風化し読めなくなるように、少しずつ、少しずつ。
「ごめん。何言ってんだろう、俺」
苦笑し、ジーンは羽ばたく速度を上げた。
また、沈黙――。
地上で少し強めに風が吹いたのか、ザァ……と、森の葉末が音を立て、再び静寂が訪れた。
「私も、わからないんです」
ややあって、リディアは口を開いた。
「マックス様とお別れして、家にも戻れなくなって」
口にしたら目頭があつくなって、リディアはギュッと空っぽの両手を握りしめた。
先のことは何にもわからない。でも、意地でも何でもリディアはマックスに別れを告げたのだから。
もう、マックスは隣にいない。
レモングレーズのようなキラキラと甘酸っぱい世界は、夢のように消えた。
その代わり……。
「うわぁ、綺麗!」
顔を上げれば、何もかも忘れて見入ってしまいそうな星瞬く夜空がどこまでも広がっている。
「こうならなかったら、こんな綺麗な星空は見られなかったわ」
身体の弱い自分は、一生王都から出ることはないと思っていた。こんな絶景に出会うことも、夢のまた夢だった。
夜空のキャンバスは、吸いこまれそうな群青色。正面、一際明るい星は船乗り星。その傍らに輝く大小の明るい連星は、通称『女神の花冠』。黒々とした水平線に今にも飲まれようとしている恒星たち――アルタルフ、メレフ、ピオトゥス、ナーンは、遥かアクベンスでは天頂に輝く大星座だ。
「ああ。綺麗な空だな」
ジーンも穏やかに首肯した。
「同じ空なのに、王都から見ると月と船乗り星しか見えないの」
それに王都の空はこんな明るい群青色ではなかった。もっと暗くて黒い。
「街の灯りに星の明るさが負けているんだよ。不思議だな……。街とは明るさが逆さまになるなんて」
頭上からは微かな笑みの気配。キラリと船乗り星の傍で星が瞬いた。夜空の涙――流れ星だ。
「私、マックス様とお別れして、もう幸せになれないんだって思ってた。でも……もしかしたらそれって、たくさんの小さな星たちみたいに、『見えない』だけじゃないかって」
家のために結婚して血を繫ぐ。巡り会えた伴侶と好き合えれば――それがリディアの考えていた『幸せ』。でも、それが壊れて、安全な鳥籠から放り出されて。
「私はとても狭い世界で生きていたの。未来がわからないのは怖いわ。でも、だからって何もかも諦めることはない。……そう、考えようって」
きっと、これからも大変なことはあるだろう。もうリディアは十重二十重に守られる『令嬢』ですらない。
でも、『幸せ』になれない、と決まったわけでもないのだ。
現に、この心奪われる美しい夜空を目にして、暗い気持ちが少しだけ拭われた気がする。
ここは鳥籠の外。今までの幸せ不幸せの物差しが当てはまらない環境なのだ。きっと、この先にリディアの知らない『幸せ』もきっとある。
……そう、思うことにした。不安で怖がりの心を支えるために。
「私、力もないし 〈黒魔法使い〉で世間知らずでそのうえ鈍くさいし。メリルにも怒られてばっかり。あんまり役に立たないけど。そんな私でも、話を聞いて一緒に悩むくらいはできるわ」
ジーンの『わからなくなってしまったモノ』――〈勇者〉の存在意義。
たくさんの『なぜ?』
いったいどうしたら答えがみつかるのか、想像もつかない。リディアごとき小娘には計り知れない難しい『問い』なのかもしれない。
それでも敢えて明るい声で。
「旅をしていたら、何か手がかりがみつかるかもしれないわ。何か思い出すかもしれないでしょう?」
にっこりと笑って、リディアはジーンを見上げた。
「一緒に……」
探しましょう?
そう言おうとしたのに、トロンと瞼が落ちて……ジーンの顔がぼやけた。身体がフワフワする。星空……とても綺麗な群青色……。
(不思議……。不安で不安でしかたがなかったのに。この空を見ると……安、らぐ……の……)
…………懐かしい。
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「ちがうよ、ちがうよ。これは昼間の空色でしょ? 夜の空はこんな色で……」
「もう……仕方ないなぁ」
遠い遠い日――。
部屋に星空が欲しいと強請った子に、母さんは壁に魔法をひと刷毛。壁を空色にする魔法――。
でも、魔法は昼間にかけたから、壁は一面昼の明るい空色になって。むずがった子に、母さんはしぶしぶ梯子を出してきて、慣れない絵筆で壁にニセモノの夜空を描いた。
遠い遠い、昔のこと……。
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