一難去ってまた一難
水連は柳原家の前でいったん足を止めると、恐ろしい気配のほうへ向かってまた歩き始めた。
まもなく、草むらからカサカサッと音がしたかと思えば、一匹の黒い子狐が水連の前に飛び出してきた。
ちょこんと座ってこちらを見上げる姿は、はた目から見ればかわいらしい光景だが、
「何をしに来た?」
子狐の口から出てきたのは、冷ややかな声だった。
「ここはお前の来るところではない。去れ」
突然、子狐がいなくなったと思えば、いつの間にか目の前に眼帯をつけた男が立っていた。
他者を寄せ付けない視線と態度に、心がくじけそうになる。
その上、
――空気が重い……息が詰まりそう。
彼を目にした瞬間、水連は足がすくんで動けなくなってしまった。
ただただ、彼が恐ろしかった。
なぜかは分からない。
これまでの人生で、彼のような混ざり者に出会ったことがなく、自分でも戸惑っていた。
混ざり者の血が――本能が、絶えず警報を鳴らしている。
彼に近づくな、逃げろ、逃げろと。
――でも今は……。
本能的な恐怖に抗い、水連は勇気を出して口を開く。
「どうしても、貴方にお知らせしたいことがあって……」
水連は話した。
先ほど出会った謎の女――混ざり者の話を。
彼女が何かよからぬことを企んでいるのではないかと心配する水連に、
「それについてはなんの問題もない」
特に驚いた様子も、関心を持った様子もなく、彼は言った。
「要件はそれだけか?」
「それだけって……」
「お前の教育は黒須に任せている。何かあれば黒須のところへ行け。ここへは来るな」
淡々と答えると、瞬く間に子狐の姿に戻り、草むらの中へと消えてしまった。
訳が分からず、呆然と立ち尽くす水連だったが。
「――見ましたわよ」
後ろからぞっとするような声が聞こえ、振り返ると顔を真っ赤にしたお佳代がこちらに向かってくるところだった。
「なんていやしい女なのかしらっ。よりにもよって龍堂院様に色目を使うなんてっ」
いやしい? 色目?
彼女がとんでもない勘違いをしていることに気づいて、
「お佳代さんっ、誤解ですっ。ちゃんと話を聞いてくださいっ」
水連も声を大にして言い返すものの、
「ええいっ、おだまりっ。龍堂院様はあたくしの――じゃなかった、お嬢様の大切な婚約者で、お貴族様ですのよっ。貴女のような、どこの馬の骨とも分からない女が気安く近づいて良い方ではありませんっ」
「ですから、誤解だと……」
「陰でコソコソしなくとも、お嬢様のことを知りたければあたくしが教えてあげますわ。気位が高すぎるだの、わがままで冷酷な元悪妻だのと世間では言われているようですけれど、まったくのデタラメっ。本当のお嬢様は心根の優しい――」
一方的に捲くし立て、掴みかからんばかりに水連に近づいていくお佳代だったが、
「かあさんっ、何をしているのよっ」
息を切らせた胡蝶が、お佳代のあとを追うように走ってくる。
「声が家の中まで響いてきたわっ。ご近所中に聞こえてよっ。大声を出すなといつも私に言っているくせに……あら、そこにいるのは水連さんじゃない」
胡蝶は立ち止まると、不思議そうに水連を見る。
「かあさん、これはどういうことなの?」
「それが、聞いてくださいよ、お嬢様っ、この女ときたら……」
予期せぬ胡蝶の登場に慌てた水連は、お佳代の声を遮って言った。
「ですから何度も誤解だと言っているでしょうっ。私は龍堂院様に色目など使っておりませんっ」
「バカおっしゃっ、貴女の存在そものが色目みたいなものじゃありませんかっ」
あまりの言いように水連は言葉を失う。
「無駄な色気を垂れ流して……きっと、身体が寂しくて仕方がないんですのね」
「かあさんったら、なんてこと言うのよっ」
畳みかけるお佳代だったが、怒りに震えていたのは胡蝶のほうだった。
「水連さんに対して失礼にもほどがあるわっ」
「あら、お嬢様。あたくしはお嬢様のためを思って言っているのに、この女の味方をするんですか?」
胡蝶はわずかに眉をひそめると、
「その言い方は卑怯よ。だってかあさんは私のために怒っているわけじゃないもの。全部自分のためでしょう?」
「そんなことありませんわ。あたくしはただ、お嬢様に幸せになって欲しいだけで……」
その理屈はおかしいと、胡蝶は思わず声を大にする。
「私がいつ、水連さんにひどいことを言って欲しい、傷つけて欲しいと言ったの? そんなこと、一度もかあさんにお願いしていないわっ」
「……お嬢様、ただあたくしは……」
「かあさんはとにかく黙ってちょうだいっ。まずは水連さんの話をきちんと聞くべきよ。そうでしょ?」
乳母とはいえ、お佳代にとって胡蝶は本当の娘ではない。
本来なら、口をきくどころか会うことすらできない、雲の上の存在なのだ。
そのことを思い出したのか、子どもたちに対していつも強気な態度を崩さないお佳代だったが、
「そうですわね、申し訳ありません」
しゅんっと肩を落として、うなだれる。
胡蝶はあらためて水連に向き直ると、
「水連さん、ごめんなさい。母の非礼をお詫びします」
ついお佳代の剣幕に怯んで固まってしまった水連だったが、胡蝶に頭を下げられ、ハッとして我に返る。
「そ、そんな、お嬢様が謝ることではありませんっ。お佳代さんに誤解されるような行動をとった私も悪いんですから」
「……でもきっと、理由があるのでしょう?」
水連は頷くと、じっと胡蝶を見つめた。
初めての経験だった。
女性に嫌われ、ひどく罵られることはあっても、優しい言葉をかけられたことはほとんどない。
ましてや、こんな風に誰かにかばわれたことも……。
「はい、お嬢様、全てをお話します」
涙をぐっとこらえると、水連は口を開いた。




