次男坊の恋煩い再び
「最近、虎太郎兄さんの様子がおかしい? 急に何を言い出すのよ、母さん」
「だって、あの子がご飯をお代わりしないなんて……変じゃありませんか」
夕食の後、虎太郎が厠へ行くと言って席を立つやいなや、お佳代は声を潜めて切り出した。
「それに、食事中もだんまりで……何か思い悩んでいるに違いありませんわ」
「ただ単に仕事で疲れているだけよ」
「いいや、胡蝶、俺もお袋の言う通りだと思うぞ」
辰之助まで何を言い出すのかと、胡蝶は呆れて眉をあげる。
「あいつ、俺ら兄弟の仲じゃ一番親父に似てるからな」
「……嫌なこと言うんじゃないよ、辰。だったらなにかい、あの子がどこぞで借金でもこさえたとでも言う気かい?」
「ああ、間違いない。弱いくせに博打好きだったからな、親父は」
「そうだったねぇ、大勝したのは一度だけで、あとは負けっぱなし」
「それでもやめねぇから、卯京がキレて家を出て行っちまったんだ」
ちょっと待って、卯京兄さんはそんな理由で家を出たわけではないと、胡蝶が口を挟もうとするが、
「こりゃあ、えらいことになったぞ、お袋」
お佳代の不安を煽るように、辰之助もまた声を潜める。
「博打ってのはたいてい、頭の切れる奴や肝の据わった奴が勝つんだ。だから親父や虎太郎みたいなのがカモられる」
「普段は偉そうにしていても、根は小心者だからねぇ」
「いざという時、ビビッてすぐに逃げるしな」
「どうしよう、あたしの老後の資金が消えちまうよ」
「お袋が肩代わりするこたねぇよ。苦労して貯めた金だろ? あいつを家から追い出して、自分で返させりゃあいいんだ」
「なんて冷たいことを言うんだい、お前は。そもそもあの子があんなことになったのはあの人の――」
胡蝶は箸を置いて背筋を正し、すぅっと息を大きく吸い込むと、
「二人ともいい加減にしてっ。虎太郎兄さんが博打で負けて借金を作ったって、まだ決まったわけじゃないでしょうっ」
その声に驚いた二人は弾かれたように胡蝶を見ると、
「馬鹿、胡蝶っ。声がでかいって」
「そうですよ、お嬢様。万が一、あの子に聞かれでもしたら……」
噂をすれば影。
時すでに遅く、
「……なんだぁ、ずいぶんと盛り上がってるじゃねぇか。俺の悪口を言うのがそんなに楽しいかよ」
いつの間にそこにいたのか。
恨みがましい声を出して、障子の隙間からこちらを睨んでいる虎太郎に、お佳代も辰之助もヒッと息を飲む。
「お袋、安心してくれ。俺に借金なんてねぇから。親父のせいで苦労しているお袋を見てるからな」
そうふてくされたように答えると、
「はぁ、なんか気分悪りぃや、ちょっと出てくる」
片手で胸を押さえてため息をつくと、ふらふらと外へ出て行ってしまった。
気まずい沈黙の後で、
「……胡蝶のせいだぞ」
「ええ、お嬢様のせいです」
「お前の声はよく通るんだから……」
「ご近所中に聞こえますわ」
二人に罪をなすりつけられた胡蝶は、
「私、虎太郎兄さんに謝ってくるわ」
慌ただしく席を立った。
「兄さん、待って……虎太郎兄さんっ」
呼ばれて足を止めた虎太郎は、面倒くさそうに振り返る。
「なんだよ、胡蝶。ついてくるなよ」
「いいじゃない、別に」
「俺は独りで歩きたいんだ」
「だったら少し離れて歩くわ。それならいいでしょう?」
虎太郎は困ったように頭を掻くと、
「あとをつけられているみたいで気味が悪いや。並んで歩けよ」
ゆっくりと歩きだした兄の横に並んで、胡蝶は口を開く。
「さっきはごめんなさい。悪気はなかったの。私たち三人とも、兄さんのことが心配だっただけ」
いらぬお世話の蒲焼だと虎太郎がつぶやくと、
「あら、兄さん、蒲焼が食べたかったの? 今度作るわね」
虎太郎は再び「はぁ」とため息をつくと、
「俺の家族はなんだってこうデリカシーがないんだ」
そんな兄の顔をじっと見つめていた胡蝶は、
「……もしかして兄さん、病気なの? ここ最近、食欲がないみたいだし」
「そんなわけ――いや、かもしれねぇな」
思わせぶりに胸元を押さえる虎太郎の姿に、不安がこみあげてくる。
「最近、ある人のことを考えると胸がドキドキするんだ」
「ある人って……?」
「ひと月前に近所に越してきた人でさ。歳は俺と同じくらいで……ものすごい美人なんだよ。濡れたみたいに髪がきらきらしててさ」
それからおもむろに、誰かに立ち聞きされていないか辺りを見まわして確認すると、
「未亡人なんだよ、その人。二度結婚して、二度とも旦那に先立たれたらしい」
こそこそと照れ臭そうに話し出す兄の姿を見て、胡蝶はピンときた。
病は病でも、どうやら恋煩いのほうらしい。
それにしても、
――濡れたみたいな髪、未亡人……。
なんとも聞き覚えのある単語に、「まさか」と口を開く。
「その人、もしかして池上水連さんという方じゃない?」
途端、虎太郎は嬉しそうな顔で、
「なんだ、胡蝶。知ってたのか。一体いつの間に知り合いになったんだよ」
それはこっちの台詞だと、胡蝶は兄に詰め寄った。
「水連さんがここにいるの? 本当に?」




