例え愛してくれなくても……
目を覚ました時、血まみれの彼がそばにいて、胡蝶は「ごめんなさい」と謝った。自分のせいで彼に怪我を負わせてしまったようだと、朦朧とした頭で考える。目覚めはいつも悪くないのに、今はどういうわけか、身体が重い。油断するとまた眠ってしまいそうだ。
「謝る必要はありません。ほとんど返り血ですから」
「……お怪我は?」
「俺のことよりご自分のことを心配してください。毒抜きはしましたが、しばらくは動けないでしょう」
彼の一人称が「私」から「俺」に変わっていることに気づいて、微笑む。
「何がおかしいのですか?」
「一眞様は、本物の一眞様ですか?」
つぶやくように訊ねると、「本物ですよ」と即座に返される。
「なんならテストしますか?」
「てすと?」
ふわふわした頭でもう一度「てすと」とつぶやく。
頭の回転が鈍く、思考がまとまらない。
これも毒のせいだろうか。
「何でも訊いてください。すぐに答えますから」
「でしたら、紫苑の嫌いなものは?」
「蜂です」
正解。
子どもの頃、木登りをして蜂に刺されたことがあるからだ。
「好きなものは?」
「もちろん、胡蝶様の手料理ですよ。中でもオムライスは絶品だとおっしゃられていました」
まあ、と胡蝶は弱々しく笑う。
「これで信じていただけましたか? 俺が本物だと……」
「一眞様は、私のことをどう思っていらっしゃいますか?」
ぼんやりした頭で、誘拐犯にした質問と同じ質問を投げかける。
「好きですか? 嫌いですか?」
いつもの自分なら、恥ずかしがって絶対に口にできないような言葉を口にする。毒のせいで羞恥心まで麻痺してしまったらしい。一方の一眞は答えず、目元を赤くして、困ったように視線を彷徨わせている。
「俺は……」
「私は一眞様のことが好きですわ」
ためらう彼の声に、覆いかぶせるようにして伝える。
「狐の姿の貴方も、子どもの姿の貴方も……大きな獣の姿をした貴方も……」
すぐ近くで、はっと息を呑む気配がした。
もっと伝えたいことがあるのに、眠気には勝てず、胡蝶は再び目を閉じる。
「一眞様も、私と同じ気持ちだったら……いいのに」
例え愛してくれなくても、この人のそばにいたいと強く思った。
***
次に目が覚めた時、一眞はそばにおらず、代わりにお佳代と辰之助の話し声が聞こえてきた。
「いい加減、泣きやめよ、おふくろ。胡蝶も無事だったんだし」
「けどお前、このままお嬢様が目覚めなかったら……」
「毒の効果は一時的なもので、安静にしてれば自然に治るって先生も言ってたべ」
ふと視線に気づいた辰之助がこちらを向いた。
「おふくろっ、見ろっ、胡蝶が――」
「ああ、お嬢様っ、お嬢様っ」
涙ながらに抱きつかれ、「かあさん……重い……」と胡蝶はうめいた。
「申し訳ありません、お嬢様っ。お嬢様がこのような目に合われたのも、全てあたくしの責任ですわ。侯爵様には何と申し開きをすればいいのか……」
「かあさんのせいじゃないわ。私だって気付かなかったのだから」
ゆっくりと身体を起こして、そっとお佳代の身体を抱き返す。
「私なら平気よ。だから心配しないで」
「ですが……」
「それより、誰が私をここまで運んでくださったの?」
「もちろん龍堂院様ですわ」
「お前を医師に見せたら、すぐにどっかいっちまったけどな」
ふてくされたような息子の声に、お佳代が即座に反応する。
「なんだい、辰。お前、龍堂院様のことが気に入らないのかい?」
「ああ、気に入らないね。胡蝶がぐったりしてるっつうのに、逃げるみたいに出て行きやがって」
「お前と違ってお忙しい方なんだよ」
「惚れた女が弱っていたら、元気になるまでそばについててやるのが男ってもんだろ」
「お前の物差しで人を測るんじゃないよ。たぶん、何か事情が……」
「……二人とも、やめて」
たまらず声をかけると、はっとしたように視線を向けられる。
「一眞様が早々に立ち去られたのは……たぶん、私のせいよ」
気持ちを押さえきれずに告白してしまったせい。
さぞかし、気まずい思いをしたに違いない。
――ご迷惑、だったかしら。
頭が少し朦朧としていたせいで、あの時のあの人の顔が思い出せない。
すぐに拒絶されなかったのは、自分が毒で弱っていたからだろう。
――もう二度と、ここへは来ないかもしれないわね。
「悪かったな、胡蝶。お前の婚約者を悪く言ったりして」
「辰も悪気はないんですよ。さあさ、お嬢様、すぐに食事の支度をしますから、横になってお待ちください」
「……私も手伝うわ」
今眠ったら悪い夢を見そうで、胡蝶は慌てて起き上がる。
しかしこの時ばかりは、お佳代は厳しい顔をした。
「いけません、お嬢様。安静にしていないと」
「だったら見ているだけにする。それならいいでしょ?」
「ですが……」
「娘のわがままくらい聞いてやれよ、おふくろ。俺が台所まで運んでやる」
二人に甲斐甲斐しく世話を焼かれ、優しい言葉をかけられながら胡蝶は、必死に涙をこらえていた。




