蛇を喰らう獣
「ここまで来ればもう安心ね」
持ち上げていた裾を下ろして、胡蝶は辺りを見回した。とりあえず誘拐犯から離れることばかり考えて、がむしゃらに走っていたので、今、自分がどこにいるのか、どこを歩いているのか、全くわからない状況だ。
――とりあえず、誰かに道を訊ねないと。
車でかなりの距離を移動してきたので、徒歩で家に戻るとなると、今日中には帰り着かないかもしれない。幸い、周辺に民家がぽつりぽつりとあったので、家の戸を叩いて道を訊ねると、案の定、そんな遠いところから来たのかと驚かれてしまった。個人で自動車を所有できるのは裕福な金持ちか、貴族くらいなものなので、誘拐されて自動車に乗せられたと言っても、きっと信じてもらえないだろう。このまま来た道を引き返すとなると、帰り着くのは夜中になるだろうと教えられ、途方に暮れてしまう。
「そういや、さっき、警察の人が巡回してたから、保護してもらえばいいべさ」
警察と聞いて、咄嗟に兄の顔を思い出す。
それはいい考えかもしれないと、その警察官を捜すことにした。
警察官の姿はあっさり見つかり、胡蝶は声を上げてその人を呼び止める。
「ドライブ中に置き去りにされたと言うんですか? か弱い女性をこんな辺鄙な場所に?」
「ええ、そうなんです。車内で喧嘩をしてしまって」
「ひどい男ですね」
嘘をつくのは心苦しかったが、うまく説明できる自信がなかったし、正直に話して大事にはしたくなかった。兄やお佳代に、これ以上迷惑をかけたくなかったからだ。
「相手の男のお名前は?」
「……さあ、誰だったかしら」
「お嬢さん、貴女は名も知らぬ男の車に乗ったのですか?」
「家出をして、自棄になっていたものですから」
「家出?」
怪訝そうな表情を浮かべる警察官の顔を見、知らず知らずのうちに冷や汗が流れる。
「お嬢さんのお名前は?」
「……柳原胡蝶と申します。柳原辰之助の妹ですわ」
「柳原辰之助?」
「ご存知ありません? 兄も警察官ですのよ」
「へぇ、そうなんですね」
まるで関心を持ってもらえず、がっかりした。
「この先に車を停めていますから、貴女を家までお送りしましょう」
「まあ、本当に?」
無事に家に帰れると分かって、涙が出るほど嬉しかった。
どうぞこちらへ、と促され、いそいそと警察官の後をついて行く。
しばらく歩いて、雑木林に入ったところで一台の車を見つけた。
見覚えのあるそれに、ぞっとして足を止めてしまう。
「どうかしましたか?」
「……また私を騙したのね」
振り返った彼からじりじりと距離を取ると、
「車を見て気づいたのですね。根っからの箱入り娘というわけではなさそうだ」
やれやれといったように肩をすくめると、彼は笑った。彼が帽子を脱いだ直後、見知らぬ警察官が龍堂院一眞の姿に変化する。甘やかな笑みを向けられて、「その姿はやめて」と胡蝶は反射的に怒鳴っていた。
「一眞様を穢さないで」
「ひどい言いようですね」
「貴方、誰なの?」
「名乗るほどの者でもありません。一介の商売人です」
「物を買わせるために、私を攫ったとでも言う気?」
「いいえ、貴女様そのものが商品なのですよ、花ノ宮胡蝶様」
男が話すたびに、蛇のように二つに裂けた舌が覗いて、吐き気を覚えた。
「私の顧客の一人が貴女様にいたくご執心でして。座敷牢に閉じ込めて、飼いたいとおっしゃるので、その方の元へ商品をお運びしている最中です」
――商品? 飼いたい?
恐怖よりも怒りがこみ上げてきて、ぐっと拳を強く握り締める。
――私は人間よ。家畜じゃないわ。
「貴女様のように美しく、高貴な血筋を引くお姫様は、人身売買において大変な希少価値があり、需要も高い。闇市場で売りに出せば法外な値段で取引されることでしょう。私としては、貴女様を孕み袋にでもして、高貴な血筋を引く商品を量産したいところですが――今回の取引相手を裏切るとあとが怖いので……」
男の言っていることがまるで理解できない。
そもそも相手が男なのか、女なのかも分からない。
一刻も早くここから逃げなければと思い、踵を返そうとするものの、
「……痛っ」
見れば一匹の小さな蛇が足首に噛み付いていた。
咄嗟に払いのけるものの、傷口がじんじんと痺れて、次第に立っていられなくなる。
「商品にはできる限り傷をつけたくなかったのですが、やむを得ない」
耳鳴りがして、男の声が遠くに聞こえた。
視界が闇に包まれる寸前、「コンっ」と狐の鳴き声がした。
必死に重いまぶたを持ち上げると、男が倒れるのが見えた。
男に覆いかぶさっているのは、大きな大きな黒い獣――尻尾が複数ある黒狐だった。
ああ、彼が助けに来てくれたのだと思い、胡蝶は安心して目を閉じた。




