胡蝶、逃げる
自分の両親に会って欲しいと言われ、いそいそと一眞の後をついてきた胡蝶だったが、時間が経つにつれて何かがおかしいと感じていた。柳原の家を出て、すぐに黒塗りの自動車に乗せられたものの、一眞はほとんど口を利かないし、車はものすごいスピードで進んでいくしで、徐々に不安になってきた。
「一眞様、いくつかお聞きしたいことがあるのですが」
「……どうぞ」
「御堂様はこのことをご存知ですの? 何も言わず家を出てきてしまったものですから、心配で」
「特に問題はありません」
一言で片付けられてしまい、もどかしい気持ちになる。
「一眞様は、御堂様のお気持ちを知った上でおっしゃっているのですか?」
「……どういう意味でしょう?」
『幼い頃から混ざり者だと蔑まれ、娼婦に身を落とした私を、あの方だけが気にかけ、救いの手を差し伸べてくれました。今の私があるのは、あの方のおかげ――以来ずっと、あの方だけを想って生きてきた。必要とされるために、必死に努力をしてきたのです』
木乃葉の熱を帯びた声が、今も耳について離れない。
「ご存知でなければ、私の口からは言えません」
きっぱりと告げれば、一眞は不思議そうに首を傾げる。
「もちろん御堂木乃葉のことはよく知っていますよ。元部下ですから」
「……彼女のことがお好きですか?」
思わず突っ込んだ質問をしてしまい、慌てて撤回した。
「今の質問はお忘れください。無作法でした」
「そうですね」
苦笑いを浮かべられて、落ち込んでしまう。
「私が浮気をするような男に見えますか?」
「い、いいえ、そういう意味ではなくて……」
そもそも嘘の婚約をしているだけなので、浮気にはならないと思うが。
「一眞様は私のことを、避けておられるのかと」
「……なぜそう思ったのです?」
突然、自分の警護から外れたから?
会いに来てくれなくなったから?
何を言っても単なる自分のわがままで、相手を困らせるだけな気がして、口ごもってしまう。
散々悩んだ末に、
「一眞様は私のことをどう思っていらっしゃるのですか?」
勇気を出して訊ねてみたところ、
「好ましいと思っていますよ。でなければ婚約などしないでしょう」
あっさりと受け流されてしまい、唇を噛み締める。
「私の言葉が信じられませんか?」
「ええ、信じられません。だって私は混ざり者ではありませんから」
胡蝶の言葉に、一眞は意表をつかれたように目を見開く。
「御堂様はおっしゃっていました。自分は一眞様と同じ混ざり者だから、貴方の抱える葛藤や苦しみを理解できると」
「……そうですか」
「それにこうもおっしゃっていました。一眞様が私と婚約したのは、あくまで同情からだと」
「私より、彼女の言葉を信じるのですか?」
信じたくはない。
信じたくはないけれど、
「私と婚約したのは、紫苑の命令だからでしょう? それなのになぜ、今さら私を……」
感情が高まり、言葉に詰まる胡蝶に対して、一眞は訳がわからないといった顔をする。
「私の親に会いたくないのですか?」
「……そういうわけではありませんわ」
うつむいて涙をこらえる胡蝶に、一眞は困った顔をする。
「つまり貴女は、御堂木乃葉に嫉妬しているのですね」
違和感を覚えたのはその時だった。
まるで他人事のような口ぶりに、あらためて一眞の顔を見返す。
――やっぱり、おかしいわ。
外見は一眞以外の何者でもないが――物腰柔らかな話し方といい、木乃葉のことをよく理解していないような口ぶりといい、彼らしくないと感じる。そもそも互いの親を騙して婚約期間を長引かせると言っていた彼が、なぜこれほど性急に親に会わせようとするだろうか?
少し考えて、胡蝶は慎重に口を開いた。
「ええ、嫉妬していますわ。だって私、一眞様のことを心からお慕いしておりますもの」
「それは光栄ですね」
やはり彼は一眞ではない。偽物だ。
確信した瞬間、パニックに陥るどころか胡蝶は冷静になり、恥じらうふりをして目を伏せた。
――私が気づいたことを、悟られないようにしないと。
一体誰が、何の目的でこんなことをするのか、自分を攫ってどのような得があるのか疑問だったが、今はこの場を逃げ出すことが先決だと頭を切り替える。
「そういえば、龍堂院家にはどれくらいで着きますの?」
「まだしばらく時間がかかるかと」
車の扉はロックされているし、走行中は外へ出られない。はしたないと思いつつも、胡蝶は膝をこすり合わせるようにして座り直すと、ちらちらと窓の外を見る。
「どうかなさいましたか? 落ち着かない様子ですが」
「あの、実は、大変言いにくいのですが……」
「何でしょう?」
「お花摘みに、行きたいのですけど」
ああ、と一眞に扮した男は得心がいったようにうなずく。
「我慢できませんか?」
「……できません」
ふるふると首を横に振ってうつむくと、ため息をつかれてしまった。
おそらく内心では舌打ちでもしているのだろう。
彼は運転手に何か伝えると、取繕うように笑顔を浮かべる。
「もう少し行けば休憩所がありますので、そこで一休みしましょう」
まもなく車は止まり、食事処と書かれた店の前で下ろされる。
怪しまれないよう、胡蝶はゆっくりとした足取りで店に入った。
「私はお茶でも飲んで待っています。何かお召し上がりになりますか?」
「いいえ、結構ですわ」
言いながら厠へ向かい、中に入るとほっとした。
さて、ここからどうやって逃げ出そう。
幸い、すぐに換気用の窓を見つけることができた。
着物の帯が窓枠につかえて降りられるか不安だったが、なんとか外に出ることに成功する。
――あの人に気づかれる前にここを離れないと。
膝のあたりまで着物の両裾の端をぐっと持ち上げると、胡蝶は勢いよく走り出した。




