牛鍋ならぬ豚鍋
一眞を通して紫苑に助けを求めた結果、激怒した彼が皇后に相談し、同じように激怒した皇后が皇帝にこの件を耳打ちしたことで、嵯峨野勘助との縁談は白紙となった。一眞も裏で動いてくれたらしく、情報を記者に流したり、蛇ノ目という名の犯罪者の捕縛に協力したりと、大活躍だったようだ。
「ようございましたね、お嬢様」
紫苑からの手紙を読んで、お佳代は朝から上機嫌だが、胡蝶は別の意味で気が気ではなかった。
「まさか皇帝陛下がお父様を叱責なさるなんて……」
「お嬢様が気に病むことではありませんよ。自業自得なんですから」
「けれどいっそう嫌われてしまったわ」
「そんなの、今更でございましょう? お嬢様に限らず、侯爵様は根本的に人嫌いなんですよ」
言われてみれば確かにそうかもしれない。
悪く言えば冷酷な人間だが、よく言えば平等――家族に対しても公平な態度を貫いでいる。
「それにしても、麗子夫人も気の毒ね」
「痴情の縺れから愛人に毒を盛られたんでございましょう?」
何度も読み返した形跡のある大衆新聞を握り締めて、お佳代は鼻息荒く言った。
「命があるだけ儲けものですよ」
「お父様はなぜあの人と別れないのかしら」
「さあ? 夫婦間の問題は、当事者でないとわかりませんからねぇ」
色々と思うところはあったものの、
「あら、いけない。そろそろ夕飯の支度をしないと」
空腹には勝てず、いそいそと台所へ向かう。
その後ろからお佳代もついてきた。
「今日はお祝いにパーと行きましょう、お嬢様」
「パーっと、そうね、だったら今夜は豪勢にすき焼きにしましょうか? お肉は豚だけど」
「あたくしは牛より豚のほうが好きですわ。癖がなくて」
材料が揃っていることを確認したら、早速料理を開始する。
まずは豚肉を焼いて、焼き色が付いたらお砂糖と多めのお醤油を入れる。先に火の通りにくいお野菜―ー白菜や長ネギの芯などを入れて、お酒、醤油、砂糖をさらにくわえ――る前に、胡蝶はそれらの調味料を先にお味噌に混ぜてからくわえた。お味噌を入れたほうが味に深みが増すと、胡蝶は思っている。だいたい火が通ったら、残りの野菜――長ネギや白菜、しいたけなどを入れていく。お野菜から水分が染み出してくるので、お水は加えない。味を整え、お豆腐とお麩を入れたら、最後に春菊をくわえて完成だ。
「お味噌を入れて正解でしたね、ご飯が何杯でもいけますわ」
「豚肉も柔らかくて美味しいわ。脂身もちょうどいいし」
「長ネギは最後のほうで頂きましょうかね」
「そうね、しっとり柔らかくなるまで煮込むと、甘味が増すのよね」
よく味の染み込んだお肉や野菜に、青空市場で買ったばかりの、新鮮な卵にからめて食べると、ほっぺたが今にも落ちてしまいそうだ。しめにうどんをいれるべきか、薄いお餅を入れるべきか悩んでいると、
「僕はうどんがいいなぁ」
ぎょっとして見れば、いつの間にか縁側に紫苑の姿があった。
「いそいで来たつもりですが、夕食には間に合わなかったようですね」
「……驚かさないでよ、紫苑」
露骨にショボンとしているので、「材料ならまだあるわよ」と言いつつ、お佳代のほうを見ると、
「……いない」
既に隣の部屋に隠れてしまったらしい。
しかたなく一人分の材料をお鍋にくわえて、調味料を追加する。
「せっかく来たのだから、上がって食べてらっしゃいな」
「もちろん。そのつもりで来ましたから」
「ちゃんと玄関から入ってね」
「わかりました」
その間に台所でお鍋を火にかけて、ご飯と生卵の用意をする。
「今回は貴方のおかげで助かったわ。なんてお礼を言っていいか」
「礼なんて必要ありません。僕と姉さんの仲じゃないですか」
にこにこと上機嫌な紫苑に、胡蝶もにっこりする。
「ですが油断はできませんよ。ほとぼりが冷めれば、またこのような事態が起きないとも限らない」
「そ、そうね」
「ですから僕なりに対策を考えてきました」
お鍋に蓋をして十分に火を通したら、ちゃぶ台の上へ持っていく。
「熱いから気をつけて」
「ありがとうございます、それで本題なんですが……」
首を傾げつつ、紫苑の前に座る。
彼は咳払いすると、あらたまった口調で言った。
「姉さんに決まった相手――婚約者がいれば、望まぬ縁談を押し付けられることもないかと」
それはおかしい、矛盾していると口を挟む前に、紫苑が補足してくれる。
「婚約といってもあくまで形だけのものです。お互いの意思でいつでも婚約解消できますし、そう難しく考えないでください」
「けれどそんなに都合の良い相手がいるかしら」
「幸い、姉さんと似たような事情を抱えている人間を、僕は一人だけ知っています。その男は女嫌いの軍人で、意地の悪い冷酷な男ですが、もうすぐ親の決めた相手と結婚しなければならないそうで、それを回避するために、僕の案に乗ってくれました」
女嫌いの軍人、意地の悪い冷酷な男――当然、紫苑の偏見も入っているだろうが――ちょっと怖そうな相手だと感じる。けれど既に女官の申し出を断っているし、ここで嫌だと言ったら、それは単なるわがままだ。それに皇子直々の紹介であれば、さすがの侯爵も否とは言えないだろう。
「歳は25歳、公爵家の長男なので、年齢的にも身分的にも釣り合いが取れるかと」
「……お名前はなんとおっしゃるの?」
紫苑は、ほんの少し恨めしそうな声で言った。
「姉さんもよく知っている相手ですよ。龍堂院一眞です」




