まりーなビスケットと姉想いの皇子様
しばらくして、何の前触れもなく紫苑がひょっこり顔を出した。
いつものようにお忍び姿で、手土産を持参して、にこにことご機嫌な笑みを浮かべている。
「まあ、ビスケット」
「そうです、姉さん、好きでしょ?」
初めてビスケットを口にしたのは、子どもの頃、花ノ宮家のお茶の席でのことだ。この西洋風の菓子は、当時は高級品で、綺麗な化粧缶の中に入っていて、パクパク食べて良い代物ではなかった。あれから十年近く経った今では、一般人向けにも販売され、比較的安価で手に入るらしい。
「だったら紅茶を淹れるわね」
お佳代は例によって辰之助を連れて、奥の部屋に隠れている。一眞や他の護衛の方々は外で待機しているとかで、部屋にいるのは胡蝶と紫苑の二人だけだった。
淹れたての紅茶にレモンを添えて、いそいそと居間に戻る。
「では、頂こうかしら」
「どうぞ、遠慮なく」
薄く焼かれたビスケットを、壊さないよう慎重に手に取る。いつまでも触っていたくなるような、表面のなめらかな質感、顔を近づけると、ほのかなミルクとバターの香りがして、胸が踊った。一口齧るとさくっと音がして、懐かしい味が口の中に広がる。軽い食感で甘さ控えめ……これならいくらでも食べられると、胡蝶はうっとりしていた。
「姉さんは食べている時が一番幸せそうですね」
じっと見られていることに気づいて、さっと口元を隠す。
嬉しそうな紫苑の顔を見、口に食べカスがついていないか心配になった。
「どうせ食い意地が張っていると言いたいんでしょ?」
「いいじゃないですか、可愛くて」
「貴方の『可愛い』は信用ならないわ」
「どうして? お世辞は言いませんよ」
「子どもの頃、そう言ってよく馬鹿にしてたでしょ」
「ひどいなぁ、姉さんを馬鹿にしたことなんて一度もないのに」
「そんなことより、今日は何の用事で来たの?」
「もちろん姉さんの手料理を食べに……」
答えつつも視線を泳がせる紫苑を見、それだけじゃない何かを感じた。
「紫苑、どうしたの? 今日の貴方、少し様子が変よ」
彼は顔を伏せると、やがて思い切ったように言った。
「姉さん、姉さんさえよければ、皇子付きの女官になりませんか?」
突然の申し出に、胡蝶はきょとんとする。
女官というのは官職を持ち、皇宮に仕える女性のことを指すのだが、
「姉さんなら、最上位の高級女官になれますよ」
「でもそれって……」
いかに高位といえども、皇子付きともなれば侍妾の役割も担うことになる。簡単に言えば、常に皇子のそばにいて、彼の身の回りの世話をしつつ、寵愛を受けることになるのだ。もちろん皇子自身がその女官を気に入らなければ、話は別だが。
「私に貴方の愛人になれというの?」
「やだなぁ、姉さん。考えすぎですよ。僕が大切な姉さんに手を出すわけないでしょう?」
言いつつも紫苑は目元を赤くし、決まり悪そうに視線を逸らしている。
「あくまで形だけです。それに給金も出ますし、嫌な相手のところへ嫁がされることもないでしょう?」
「それはそうだけど」
彼が親切心で申し出てくれているのは分かったが、正直、胡蝶は気が進まなかった。女官の仕事はとても大変だと聞いているし、社交嫌いの自分に務まるとは思えない。それにひと度女官として皇宮に入れば、死ぬまで出ることはかなわないのだ。もう二度と、お佳代や辰之助と会うことはできないし、この家に戻ってくることも許されない。
「ごめんなさい、紫苑。貴方の気持ちはすごくありがたいのだけど」
断ると、紫苑はがっかりしたように肩を落とした。
その上、なぜか泣きそうな顔をしているので、慌てて彼の手を握る。
「貴方のお世話をするのが嫌ではないのよ。ただ……」
「分かっています。気にしないで、ダメ元で言ってみただけですから」
強く手を握り返されて、ほっとした。
「でもどうして急に」
「だって姉さんが、どこぞの馬の骨に、自分を嫁に貰って欲しいなんて言うから」
いじけたような声を出す紫苑に、胡蝶ははっとする。
「なぜ貴方がそんなことを知っているのよ」
しまったとばかりに口を閉じる紫苑に、「やっぱり」と胡蝶は確信を強めた。
「コンをここへ寄越したのは貴方ね」
「……何のことですか」
「とぼけないで。部下に私を監視させているのでしょう?」
怒って手を離すと、紫苑は再び泣きそうな顔で胡蝶を見た。
「怒らないでください。僕はただ、姉さんのことが心配で……」
事実、コンには二度も助けられているため、胡蝶も強くは言えず、
「もしかして清春様が亡くなった件と、何か関係があるの?」
訊ねると、「分かりません」と紫苑は正直に答えた。
「ですが用心に越したことはないかと。昔から麗子夫人は、姉さんのことを目の敵にしていますから」
そういえば、清春との結婚を半ば強引にとりまとめたのは麗子だった。離婚後は会っていないが、今頃、自分の計画がうまくいったと喜んでいるかもしれない。
「あの人が何かの理由で清春様を殺したと、貴方は考えているのね」
「ありえない話ではないでしょう? あの女ならやりかねない」
確かに、と胡蝶も納得してしまう。
そういう事情があるのなら、仕方がない。
「ごめんなさい、紫苑。怒ったりして」
「姉さんっ」
素直に謝ると、紫苑は感極まったような声を出す。
「本当なら、僕が一日中おそばにいて、警護して差し上げたいのですが……」
「馬鹿なこと言わないの」
つい子どもの頃に返った気分で、「よしよし」と彼の頭を優しく撫ぜると、紫苑はなぜか瞳を潤ませる。あまりにもじっと見つめてくるので、次第に居心地が悪くなってきて、胡蝶はおもむろに立ち上がった。
「そろそろお夕飯の支度をしなくちゃ。紫苑は何が食べたい?」
「では……オムライスを」
「いいの? オムライスなんかで」
「はい」




