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7(3).「お手上げじゃないか……」

 秋も深まり、10月下旬の中間考査が迫ってきている。

 佐伯さんが出ていって、僕の生活スタイルもかなり変わった。

 彼女がやってくれていた、というか、やらせてくれなかった炊事、洗濯、掃除は当然、自分でやらないといけない。

 料理のスキルに関しては、ひとり暮らしを決めたときに自炊するのに困らない程度には習得していた。当時はいざその生活になったら新しい料理にも挑戦しようと考えていたものだが、今はまったくそんな気にはならない。

 掃除と洗濯は、手間さえ惜しまなければ誰にだってできる。

 結局のところ、佐伯さんが出ていっても生活に困るようなことは何もなかった――のだが、それでも唯一どうしようもないことがある。

 それは家の広さだ。

 2LDK。

 最初はひとつを勉強部屋に、もうひとつを寝室にして、それぞれゆったりと使うつもりだった。そんな計画の上で借りたはずなのに、改めて見ればずいぶんと広く感じるものだ。

 とは言え、僕の生活空間は相変わらず自室とリビング、キッチンなどで、物理的な環境の更新はない。

 ならば、なぜ以前より広く感じるのか?

 つまりは心理的な問題ということになる。

 笑えてくるな。要するに、とっくの昔に彼女といる生活が当たり前になっていたわけだ。あの明るくて、いつも楽しげに笑っている佐伯さんがいないこの家は、決定的なものが欠けていて、あまりにも静かだ。

 おかげで僕は時折、この静かさに呆然としてしまうことがある。

 ああ、そうか。

 これが寂しいという感覚か……。

 

 さて、単なるエネルギィ補給みたいな食事なら朝からでも作るが、さすがに弁当までは作れないので、基本的には昼食は学生食堂ですませている。が、近頃はそれにも飽きてしまい、今日は駅前でパンでも買ってから登校しようかと思いついた。

 去年、滝沢には家を出たら学食生活だと言っておきながら、結局気が変わったからと毎日弁当を作ってきて、ここにきてさらにまた方針転換で一緒に学食へ行くようになったくせに、それも早々に飽きたとぬかしているわけだ。彼の目にはさぞかしわけのわからないやつに映ることだろう。

 普段より早めに家を出て、駅へと向かう。

 道程は水の森高校へのルートと一部重なり、そこを逆行していると、早い時間ながらも時々同じ制服を着た生徒とすれ違った。

 目指すパン屋は、小さな駅ビルみたいになっている駅舎の中にある。なかなか洒落た店で、2階には買ったパンをその場で食べられるテーブル席があり、いつか一緒に食べにこようと佐伯さんと言っていたのだが――結局、僕がフライングして、ひとりでくることになってしまったな。

 駅が近づいてくると、ちょうど電車がきたところだったらしく、まとまった数の人が駅舎から吐き出されるのが見えた。着ている服も様々なら、向かう先も様々。当然、水の森の生徒はこちらへと向かってくる。

 かくして僕は――、

 その中に佐伯さんの姿を見つけ、

 そして、さらに彼女と一緒に歩くあの眼鏡の先輩の姿も見つけてしまった――。

「……」

 一瞬、何を見たのか理解が遅れた。

 ――佐伯さんがあの男と一緒にいる……?

 不意に思い出したのは、あの日、階段の踊り場で彼女に言われた言葉。

『しばらく、話しかけないでほしいの……』

 それと目の前の光景が嫌な結びつき方をする。――つまりはこういうことなのか?

「……ッ」

 遅れて、見えない何かが僕の胸を圧迫し、息苦しさを覚えた。

 ふたりは一緒の電車に乗ってきたらしい。

 偶然?

 それとも、そうする程度には仲がいいということか?

 僕の心はまるで泥濘の中。

 それでも体は足を動かせば前に進み、彼女たちとの距離が縮まってくる。

 並んで歩くふたりの姿は、知的な印象の先輩とおとなしめの後輩、といったところか。佐伯さんはうつむきかげんに、ひかえめな感じで横につき添い、歩いていた。

 胸が、痛い――。

 やがて彼女も僕に気づき、そして、気まずそうに顔を伏せた。

 話でも途切れたのだろうか、隣を歩く先輩は何ごとかと一度佐伯さんを見てから、正面に目を向け――僕を見つけた。

 目が合う。

 だが、それもわずかのこと。僕は視線を外し、知らぬ振りを決め込んだ。

 ふたつの動点の軌跡が最短になる。

 すれ違う瞬間、横目でふたりの様子を見てみれば、先輩のほうもこちらを窺っていて、なぜだか彼はノンフレームの眼鏡をかけたその顔に、怪訝そうな表情を浮かべて僕を見ていた。

 佐伯さんはずっと顔を伏せたまま。

 僕らは初めて互いの存在を無視した――。

 

 教室に入ると、クラスメイトはまだ半分も登校していなかった。

 自分の机に制鞄を放り出し、崩れるようにしてイスに腰を落とした。肺の中が空になりそうなほど、長い息を吐く。おおよそ朝一番の姿ではないなと、我ながら思った。

「おはよう、恭嗣。……どうしたの、顔色悪いわよ」

 宝龍美ゆきだった。

 教室に入ったときからいるのはわかっていたが、今はわざわざ自分から人に話しかけるのも億劫だったのでアプローチはしなかった。

「朝からいろいろありましてね」

「そう。理由はあるのね。ろくに食べてないとかじゃなくてよかったわ」

 彼女はそんなふうに茶化しはしても、具体的なことまでは聞いてこない。無論、僕としてはそのほうが助かるわけだが。

「何か話でも?」

「ええ。学園祭のとき、あの子と一緒にいた男の子のことなんだけど」

 男の子? ひとつ上の学年の先輩をつかまえて? と思ったが、考えてみれば宝龍さんは留年しているから、もともとは同じ学年なのか。

「あの人なら今朝、佐伯さんといるのを見かけましたよ。一緒の電車に乗ってきたようです」

「そう。それでってわけね」

 彼女は納得し、同時にやりきれない様子でため息を吐いた。

「兎に角、彼のこと。いちおう恭嗣にもおしえておこうと思って」

「聞きましょう」

 知っておくにこしたことはないだろう。

「名前は桑島聖くわしま・ひじり

「桑島、聖……」

 僕はその名前を復唱する。

「言うまでもないけど、3年生。1年のころはまだ私も同学年で、クラスは別だったけど何度か話したことがあったかしらね。確かそのときは眼鏡をしてなかったと記憶してるわ」

 だから顔を見てもすぐに思い出せなかったのね――と、宝龍さん。

「いろいろと恵まれてるみたいよ」

「と言いますと?」

「成績優秀でスポーツ万能……かどうかはわからないけど、テニス部に所属していて、この水の森の、所謂エースというやつね。この前の学園祭のときの親善試合も、彼の試合がメインイベントだったらしいわ」

「……」

 親善試合、か。

 その単語に何か引っかかるものがあった。

「でも、そういうのを鼻にかけない性格で、周りの評判もなかなかね」

「そうは見えませんけどね」

 僕にはあの眼鏡をかけた顔が妙にインテリっぽく映り、ブリッジを押し上げる仕種がキザっぽく見えたものだが。

「恭嗣が誰かを否定するなんて珍しいわね。あの子がからんでるから?」

 宝龍さんは可笑しそうに小さく笑う。 

「ここまでは彼の才能といったところかしら」

「他に何かあるんですか?」

「家柄、というほどじゃないけど、家庭環境も立派なものよ。親が大企業の社長だと聞いたことがあるわ。桑島君はその御曹司ね」

 その言い方だと、おそらく伝聞で入手した情報なのだろ。ということは、彼自らそれを自慢げに言いふらしたりはしていないということか。なかなかどうして、人格者だな。

 それにしても、恵まれている人間というのはとことん恵まれるものらしい。

「なんて会社だったかしら。ええ、確か――『F.E.トレーディング』」

「……」

 続く彼女の言葉に、僕は凍りついた。

「どうかして?」

 宝龍さんは、僕の内面の異変を鋭く察知して問いかけてくる。

「……ああ、そういうことか」

 僕はうめくようにこぼした。

「その『F.E.トレーディング』はね、佐伯さんのお父さんが勤める会社なんですよ」

 佐伯家の片づけを手伝った際、トオル氏の私室で散々その社名を目にしている。そして、これは僕の個人的な印象だが、おじさんは年相応以上の地位にいるようだった。なら、社長とつき合いがあってもおかしくはない。互いに同年代の子どもがいて、しかも、同じ学校に通っている……。

「まさか」

 宝龍さんにも僕が考えていることがわかったようだ。

「……つまり、親同士が決めた仲」

 自然、そういう結論が出てくる。

 思い返してみればおじさんは、学園祭にくる理由には会社のからみがあると言っていたし、当日には佐伯さんにも話しておきたいことがあるとも言っていた。それぞれ、社長の息子への挨拶と自分の娘への何らかの念押し、といったところか。あの日、僕がおじさんと会ったかと聞いたときの佐伯さんも、それには触れて欲しくない様子で不自然に話を変えていた。

 ふたりの関係は学園祭の辺りからはじまったのだろう。彼女はきっと桑島先輩の試合も観戦なり応援なりにいったに違いない。

「お手上げじゃないか……」

 僕のような子どもが口をはさむ余地などない。

 このところ会えばいつも顔を伏せていた佐伯さんを思い出す。あれは今の僕と同じような気持ちを抱えていたからか、それとも後ろめたさと申し訳なさの表れだったのだろうか――。

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