65 生存
「―― お、この懐かしい香りはカフワ(=イルマーン語によるコーヒーの意)ではないか。俺にも一杯くれ」
四人の朝食会の現場に、偶然通りがかった風のバルデ。
誰の断りも得ず、テーブル中央の茶瓶から、ビッタートランクを杯に移し替え、ゴクリと飲む。
「うーむ……眠気覚ましには良いが、少し焙煎が足りぬな。俺としては、もう少し苦味とコクが欲しいところだ」
「イルマーニア産のビッタートランクは、深煎りには向かぬ豆種だ。お前が求める苦味はナイルス産の入手まで待つことだな」
フェリクスによるバルデへの返答に「それは初耳だ!」と言わんばかりに、フェリクスを見つめるマクシミリアンとテオドール ―― そして、遠くでくしゃみをするジギスムント。
「この男は何者だい? 配下と呼ぶには尊大な態度にも見えるが?」
ウルリヒが、訝しげにフェリクスとバルデを交互に見遣る。
「俺の名はバルデ。そこにいるフェ……ノイシュタット子爵専属の楽士様だ。そういうアンタは何者だ?」
「なっ……」
バルデの輪にかけた尊大ぶりに面食らうウルリヒ。
「ん、バルデ?……楽士のバルデ? どこかで……あっ!」
「そうだ、俺がそのバルデだ。名くらいは聞いたことがあろう」
ウルリヒも、自身の名声を知る者と思い、ふんぞり返るバルデ。
「プブリウスが申していた旅の道連れのバルデか。ホメロスのオデュッセイアの一節をその耳だけで完璧に盗んだという」
―― ガシャン!
カフワを入れた杯を床に落とすバルデ。
同時にフェリクスも、テーブルの上の杯をひっくり返していた。
バルデと一時、放浪の旅を共にし、バーゼルで異端者狩りに遭い、火あぶりの刑に処された老齢の楽士プブリウス。―― <アリストテレス>の魂が宿っていると推定される男の生存の話に、呼吸をするのも忘れるフェリクス。
「おいおい、どういうことだ。たしかにあやつは異端審問官に捕まり、翌日には火刑に処されたはずだぞ!なぜ、やつが生きている!」心底驚いた顔で、ウルリヒに詰め寄るバルデ。
「私が助けたからな。気まぐれの面談ではあったが、話して見たら、面白い男だったので身代わりを立てて、私が引き取ったのだ」事も無げに答えるウルリヒ。
俺は知らんぞ!と言った表情でフェリクスを見遣るバルデ。
「そ、それでその、アリ……プブリウス殿は現在どこに?」
生唾を飲みながら、ウルリヒに問うフェリクス。
「ああ、この初春に『最期はアルキペラゴスを見て死ぬ』とかおっしゃられて、旅立たれたよ。アガエウス海のことを言っていたようだが、彼なりの呼び名なのだろう。あとスタゲイラがどうのとも言っていたかな……まさか君も、彼と同様に<別の世界>から来たとでもいうのかい?」
ウルリヒの言葉の全てに驚くフェリクス。
スタゲイラは、アリストテレスの出生地。アルキペラゴスは、エーゲ海の古代の呼び名であった。―― フェリクスの転生前の世界において。そして、アガエウス海は、この世界におけるエーゲ海の呼称である。
バルデも、テオドールも同様に、アリストテレスに興味を持ち、彼に関するフェリクス版の著作を読み漁っていたため、事の重大さに気づいていたが、マクシミリアンは、ただひとり蚊帳の外で、気まずさを覚えていた。
【カフワ(=qahwa)】本来はワインを意味する語だが、アルコール禁止のイルマーン教圏では、「酔うことのない黒い飲み物」として呼ばれている名。アラビア語と同じで、実際のコーヒーの語源でもある。
イルマーニア産の豆種は「モカ」。ナイルス産は「ティピカ」あるいは「ゲイシャ」などのアラビカ種と推定される。
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