60 遠き眼
「―― 時に、あのフェルン・アウゲ(遠き眼=望遠鏡)なる代物は、いったいどうなっておるのだ。地上の物は遥か遠くまでを至近のように見せることが出来るのに、なぜ天上の世界の覗き見においては、あのような間違った光景を見せてしまうのだ?」
フェリクスとヴォルフラムたちが囲むテーブルに無造作に近づき、勝手に自分も同席し、話し始めるロドヴィーコ。
「間違った光景とはいったいどのような意味でしょうか?」
「月は本来、滑らかで完全な球体であるはずだが、あれで覗くとデコボコとザラついた表面のように見える。これは教会の教えにも反するが、卿はいったいどのように考える?」
「教会の教えと言っても、完全なる球体説は、神の子であるヨハネス自身の言葉ではなく、彼の弟子ピエトロの書簡が出典となるピエトロの主観からくるものでしょう。ピエトロが何気なく、そう見えるものをそう表現しただけであって、それは神からの言葉でも、何でもないのではないでしょうか?」
「おお、これは恐ろしいことを口にするな、卿は。それではピエトロの目や古代の学者たちの説が間違っており、フェルン・アウゲが見せる月こそが、本来の姿であると卿はいうのか?」
「ピエトロは、ヨハネスの生前から数多くの誤解、錯覚を起こし、ヨハネスからも多くのお叱りを受けてきた人物です。そんな彼が書き残した書簡群の中に、何の誤りもない完璧性があると考える方が無理がありませんか?」
「あ、あまり大胆なことを口にするべきではないぞ、ノイシュタット子爵……卿の言には聞くべきところがあるが、どこに教会関係者の耳があるやもしれぬ。万が一、この会話が教皇庁の連中の耳にでも入れば、宗教裁判を受けることにもなりかねぬ。いや、しかし……それにしても面白い話だ。卿は聖書もかなり読み込んでおるようだな。あるいは……」
しばらく黙り込むロドヴィーコ。
テオドールは、フェリクスと視線を合わせ、わずかに左の口角を上げた。
◇
食後も、街の散策はしばらく続いた。
ロドヴィーコは、フェリクスとの更なる対話を求め、二日後に、ヴェローナの家臣たちも含めた質問会を行う約束が成された。ヴォルフラムもこれに同調し、さらにその翌日にはシュタイアーマルクの家臣団とも、フェリクスを質問会を受けることとなった。
「ノイシュタット子爵よ、この借りに対し、私は卿に何を返せばよい?」
夕暮れ、去り際にヴォルフラムは、フェリクスに問うた。フェリクスは数瞬、思案し、――
「シュタイアーマルク伯は、サビールにおける現在のお家騒動をご存じですか?」
「ああ……卿のお抱えの吟遊詩人殿がイルマーニアの連中に訊ねていた例のあれか。多少の事であれば、知っておるぞ。我が領はイルマン教国とも隣接しておるからな」
「それでは万が一の話となるのですが、現在、ザハルに亡命中のサビールの王女サーリマが、シュタイアーマルクに落ち延びてくるようなことがあった場合、その保護をお願いしたいのですが?」
「王女サーリマの保護だと!?」
驚くヴォルフラムとその家臣たちの反応に、同様に困惑を見せるフェリクス。
「え、ええ……王女サーリマのことも何かご存じなのですか?」
「ご、ご存じも何も ―― 」
家臣のひとりが、思わず声を発したが、即座に別の家臣たちが、それを制した。
「い、いや、王女サーリマの件に関しては、頼まれなくとも保護は約束しよう。しかしなぜ、卿の口からサーリマの名が出てくるのだ? もしやあの吟遊詩人、たしかバルデであったか。彼とも何か関係のあることなのか?」
「え、そ、それは……ですね」
フェリクスは、フェリクスで、この件に関し、思い付きで提案を始めてしまったため、バルデについてどう説明するべきか、悩み始めた。シュタイアーマルク勢の反応を見ても、どこまで何を話して良いのかの情報が少なすぎたためであった。
「―― た、たいへんです!フェリクス様!」
突如現れたシュヴァルツブルクからの急使。
彼がもたらしたのは、選帝侯会議が終了し、いち早く自領へと引き返し始めていたバーゼル大司教ステファノの訃報であった。




