6.侵入
炊事場に面する裏口を抜けて居住棟を出た2人の若い神官は、抱えていた水瓶をそれぞれ足下に置き……額の汗を拭いながら、ふうと一つため息をついた。
「……まったく、息が詰まるよ……」
「本当にな」
彼らに水を汲んでくるよう指示した男たちは、神殿の人間どころか、神職にある者ですらないのは一見して明らかだった。
加えて、神殿内の空気が異様に緊張していることや、残っていた参拝者を宿舎に泊めるどころか、適当な理由を付けて敷地内から追い出したことなどからしても……何も知らされていなくとも、神殿が何らかの異常事態にあることは充分に推測出来る。
そして――その原因が、数時間前に駆け込んできた馬車にあることも。
「これって、やっぱり……あの話と関係してるのかなあ」
「あの話?」
「ほら……前に、司祭様方が話されているのを聞いたことがあるだろう?
随分と昔、まだガイゼリック陛下も継承者候補でしかなかった頃、バシリア家の御当主がここで神聖帝国の人間と会っていたことがあるとか――」
「お、おい、やめろって……!」
慌てて同僚の口を塞いだ神官は、周囲に視線を走らせる。
「迂闊なことを口にするなよ。誰かに聞かれたら……!」
「わ、悪い。気をつけるよ……」
「ほら、とにかく、さっさとやることをやって戻ろう」
……たしなめた神官も、同僚と同じような疑念を抱かないわけではない。
だが彼らはどちらも、その思いを上役の司祭にぶつける気などさらさらなかった。
面識も無い男たちの指示に従うよう命令されたことにも、ただ唯々諾々と従い、何も無かったかのように普段と変わらず過ごすこと――。
それが己の身を守るための一番の処世術であると、彼らは理解しているからだ。
「…………?」
側の池から水を引いて作られている水場で、持ってきた水瓶を満たしていた彼らは……その池の方で水音が聞こえた気がして顔を上げる。
先刻から月が雲に隠れたままになっているため、光源といえば裏口に据えられた松明のやや遠い明かりしかない。
それを頼りに、2人はしばらく目を凝らす――が、昏い水面以外、特に変わったものを見出すことは出来なかった。
「……どうせ魚が跳ねただけだろ。さあ、とにかく戻ろう」
気を取り直し、彼らはずっしりと重みを増した水瓶を抱え上げて屋内へと戻っていく。
仕事の遅れにかこつけて、妙な難癖でも付けられたりしないか――という心配の方が、今の彼らにとってはよっぽど大切なことだった。
「……行ったな」
水瓶を持った神官が立ち去り、人気の無くなった池のほとりで――黒い影が2つ、すうっと地面から起き上がる。
――レオとロウガだった。
「……さすがに、ちょっとばかりヒヤヒヤさせられたな。
もう少し距離が近かったら気付かれていたかも知れん」
言いながらロウガは……短剣を使って、池に浮いていた2組の漆黒の凧を手早く解体してしまう。
たっぷりと水を吸っていた墨染めの紙は、バラバラになった骨組みを巻き込み、静かに沈んでいった。
「仕方ない。下準備らしい下準備もしてない、出たとこ勝負で仕掛けてるんだ。
ある程度は派手な立ち回りも覚悟して、臨機応変に行くしかないだろ」
「ま、2人が助けられれば、細かいことは構わなくていいさ。
こいつは〈黒い雪〉としての〈仕事〉ってわけじゃねえんだからな」
凧の処理を済ませた2人は、黒装束の土埃を払い落としつつ、裏口へと向かう。
いつもの通り、手早くレオが鍵を開けてしまうものと思っていたロウガだったが――腰を落として黒曜石の棒鏡で鍵穴を調べた後、レオは何かを思案しているようになかなか動こうとしない。
「……どうかしたのか?」
さすがに変だと思いそう尋ねると、レオはちらりと彼を見上げて小さく鼻を鳴らす。
「扉に比べて、錠が新しい。つい最近付け替えたみたいだ。
前々から、こうしてこの神殿を利用したときのために準備していたってことかもな」
「備えあれば――ってか。
で、難しいものなのか?」
「〈可動障害錠〉だ。難解――ってほどじゃないが、内部の形状がやや特殊なのが厄介だな。
……端的に言えば、精巧なのを最大限利用して、全体的に随分小型化してくれていやがる。
おかげで僕の手持ちの合鍵じゃ、一番小さいのを使ってもまず鍵穴に入りすらしない」
鍵穴を指でなぞりながら……レオは、ポーチから取り出した固飴を口に放り込む。
「他の侵入口を探すか?
もとが城砦となると、窓からってのも難しそうだが……」
「いや……大丈夫。
合鍵が入らないってだけだ、何とかしてみせる」
強気に言って、レオは鉤針金を取り出す。
だがそれは、名の通りただの針金を解錠道具として調整した程度のものなので……簡単な作りの〈固定障害錠〉ならともかく、幾つか設置されているバネ仕掛けの可動障害を、それぞれ絶妙の位置で調節する必要がある〈可動障害錠〉を解錠するには今ひとつ頼りない道具だ。
ロウガもそれぐらいは理解しているが、同時に、少なくとも鍵開けに関してレオが何の考えも無くあんな自信を見せるわけもないことも分かっているので……何も言わずにその行動を見守る。
果たしてレオは、少しの間何をするでもなく、先ほど口に入れた固飴をころころと舐め転がしていたが……いきなりそれを力を込めて何度か噛み砕くと、その破片を空いた手の平に吐き出した。
そして、その中から適当な大きさのものを選り分けると、鉤針金の先にくっつけて、鍵穴に差し入れていく。
「溶けかけの飴で、可動障害を固定するのか……!」
「引っかかる程度で、固定ってほどじゃないけどな。
だが、いい位置を、数秒だけでも保持してくれれば――」
答えながらも、予めイメージを立てて対処を計算していたのだろう。
レオは矢継ぎ早に幾つかの飴の欠片を送り込み――言葉通り、10秒と間を置かず鉤針金を捻った。
……カチャン、と――拍子抜けするほど軽快な音が、闇の中に静かに響く。
「さすが、お見事」
口笛を吹くマネだけをして、ロウガはレオの肩を叩いた。
「まだまだ。ここからだろ」
重厚な作りのドアをゆっくりと開きつつ、レオは呆れたようにロウガを振り返る。
「ふん、まあな。しかし――」
レオの作った隙間から中の様子を窺って……ロウガは小さく拳の骨を鳴らした。
「……やはりだ。
サヴィナが一緒のお陰で、見つけるのはそう難しくなさそうだぜ」
「そいつは何よりだが……そういえばさっきの神官、気になることを話してたな」
静まりかえった炊事場に人の気配がないことを確かめ、内側に滑り込んだレオが、そうぽつりと呟くと……後に続いたロウガも相づちを打つ。
「ああ。まあもっとも……陛下の即位前の話となると、嬢ちゃんどころかお前も生まれる前だろう?
今回のことと直接の関係はなさそうだが……引っかかりはするな、確かに」
「…………。
確かめてみるか……機会があれば」
ほんの僅か、足を止めて考えを巡らせたあと――レオは小さく一つ頷いた。




