10.鎮魂の碑文
――第四妃テオドラの実家にあたる、スフォレトス家……。
今は無きその一族が代々葬られてきた墓地は、アドラ盆地からほど近い同家の旧領地内、物静かな池の畔の小高い丘にあった。
降り注ぐ朝陽と、それを受けて輝く池の水面、そして秩序立てて植えられた低木の瑞々しい緑が、墓石の白と美しく調和し……。
大抵の墓地が纏うような、墓地ゆえの陰鬱な雰囲気を遠ざけて――神殿のそれにも似た、厳かで清廉な空気をもたらしている。
「家の人間は、もういないってのに……。
ここ、思った以上に綺麗にされてますね、おやっさん」
「スフォレトス家に仕えてた人間が、まだちゃんと管理をしてるってえ話だからな。
……しかしそれにしたって、家が滅んで10年以上経つってのに、これだけきっちりと整備が行き届いてるたあ……スフォレトス家ってのは噂通り、貴族としての位はそれほどでなくとも、領民に慕われる立派な家だったみてえじゃねえか」
いかにも行商人らしい身なりの東方人の2人――ドウジとその部下の若いマシラは、そんな言葉を交わしながら、居並ぶ白い墓石の間を歩く。
……アドラ盆地の村で聞いた、特別に埋葬された義勇兵の数と、墓石の数が合わないという話――。
その真偽を確かめるため、2人は調べ上げた埋葬者のリストと墓石を、実際に照らし合わせてみようとこの墓地にやって来たのだった。
他より比較的新しい墓石が並ぶ一画を、一つ一つ、丁寧に確認しながら進む2人。
やがて彼らは、一通り墓地を見回った後……改めて、中央付近の墓石の前で揃って足を止める。
その墓石には、墓碑銘らしき文章が刻まれているだけで、埋葬者の名が無かった。
「墓石の形も明らかに他と違うし、位置も位置だ。
他は、埋葬者と墓石もキッチリと合ってたし……一種の祈念碑として作られたのを、誰かが普通の墓と勘違いしたとか……そんな感じですかね?」
「……さて。ンな単純な話かどうか……」
屈み込んだドウジは、刻まれた文章にもう一度目を通す。
――母よ、水にあれ。想い出よ、自由たれ。
その青玉を目印に、さらばと――
七処女の末、頭に冠戴く汝が名は継がれゆく。
しかし慈悲深き神々は過たず、汝の清き御霊を迎えるだろう。
安らかに眠れ、ただ安らかに。
「……初めの一文は、恐らく……昔の詩人の詩の一編だ。見覚えがあらぁな。
だが、その後の文章は、この墓石のために書かれたモンらしい。
――フム……。
『七処女の末』ってのが、この国の神話に出てくる、七女神の末裔だとかいう英雄を指しているんだとすれば……確かに、埋葬者の武勇を讃えた鎮魂の碑みてえだが……」
皺の目立つ顔に、さらに皺を刻みつつ、唸るドウジ。
その隣で、マシラもまた首を傾げつつ、声に出して碑文を読み返していた。
「ええー……っと、……なになに……?
母……水……想い出……。
……青玉……目、印………さらば……?」
「おい、マシラぁ……! ったく、テメーは――」
読み取りは若干苦手なのか、単語ばかりを拾い上げてリズム悪く読み上げる声に、思考の邪魔をするなとばかり、一度は凄い形相でマシラを睨み上げたドウジだったが――。
その瞬間、何かに気付いたらしく……いきなり、勢い良く立ち上がった。
「はん、なるほどな……」
「お。おやっさん、何か分かったんですね!?」
目を輝かせるマシラの問いには応えることなく、しばらく険しい顔付きで押し黙っていたドウジは――。
背負っていた荷物を下ろし、紙を2枚とペンを取り出すと……素速く2枚ともに碑文を書き写し、マシラに押し付けた。
「マシラ、てめえは今から馬ぁかっ飛ばして央都に戻れ!
そいつをレオさんと親方に届けるんだ、急げ!」
「え。でもおやっさん、これ、もとの文章しか書いてませんけど……」
「俺なんかじゃ、何か見落としてるかも知れねえだろうが……! 下手に余計な先入観植え付けるぐらいなら、そのままの方がいいんだよ!
――おら、央都までどれだけの距離があると思ってやがるんだ、つべこべ言ってねえでとっとと行け!」
渡された紙片を手に、首を傾げるマシラの尻を、ドウジは思い切り蹴り飛ばす。
「あだっ! こ、これぐらいなら伝書鳩使えばいいじゃないですか!」
「鳩は後でまた使うかも知れねえんだよ!」
この上まだ文句を言うなら――とばかりに、脚を振りかぶるドウジ。
そのおっかない様子に、マシラは文字通りに飛び跳ねながら、大慌てで駆け出していく。
やれやれとため息をつきつつ、そんな部下の情けない後ろ姿を見送ったドウジは、改めて墓石へと目を落とした。
「……お頭の思った通り、ってわけか……。
あとは、こっちはこっちで出来る限り裏を取っておかねえとな……」
* * *
王宮内の離れの一つ――王の私的空間として使われている、人工池の上に浮かぶその物静かな宮の一室で……。
昼の公務に一区切りをつけたガイゼリック王は一人、肘掛け椅子に深くかけたまま、大きく天井を振り仰いで身体を休めていた。
……王という仕事は、激務以外の何ものでもない。
いや、その一挙手一投足が即、国のことに関わってくるとなれば、〈私〉の差し挟む余地無くすべてが〈公〉であらねばならず、仕事という表現すら適切ではないだろう。
それはすでに、生き方そのものだ。
そんな、身を粉にして人生そのものを賭し続ける行為が、楽なはずがない。
ただそれも、王という生き方に真摯であれば、の話だ。
その責任から目を背け、その地位に胡座をかくなら、楽な生き方は幾らでも出来る。
しかし、彼はそれをしなかった。
そうして、責任ある立場にいる者が、責任を放棄した先に待つのが――それが1年後か、はたまた100年後かは窺い知れないが――国の破滅であると、そう認識しているからだ。
国を導く立場にある者は言葉通りに、己のすべてを擲つ覚悟で国策に望まねばならず――それを放棄するなら、国は決して良い方向に向かいはしないと。
だがそうは言っても、彼とて人間である。
こうして一時公務より離れ、身体を休めていれば……疲れは眠気を訴えもするし、公人たるべく押し込めていたはずの様々な感情が、このときとばかり頭に湧き上がってきたりもする。
過労で倒れるなど以ての外ではあるが、さりとて今は眠るわけにもいかず――。
眉間を指で押さえながら身を起こした王の目に、ふと留まったのは、側の装飾棚の引き出しだった。
引き寄せられるように伸びた王の手は、その中から、小箱で大切に保護されていた――割れて使い物にならない、古びた眼鏡を取り出した。
「……自らは良かれと思いながら、選ぶ道は大事な者を不幸にしてばかり、か……」
昨日のテオドラの言葉を繰り返しながら、王は割れた眼鏡をそっと棚の上に置く。
「わしとて、人のことは言えんか……。
病床にある妻の手前、大見得を切りはしたが……このままではお前に申し訳が立たぬというものよ――なあ、ラーゼス」
そこにその眼鏡の持ち主がいるかのように、王は親しげに語りかける。
……いや、実際彼の目には、消しようもないその男の姿がありありと浮かんでいた。
いかにも眼鏡の似合う、華奢で理知的な、それでいて豪胆でもあった男。
武人の身でないにもかかわらず、その知性と人徳を買われて、代表として義勇兵をまとめ上げ、ゾンネ・パラスの侵略に抗い、そして――。
「…………」
そして、彼を庇い命を散らした、誇り高く勇気ある男――その在りし日の姿が。
「功績も名も残らなくていい。ただ望むのは……」
最期のとき、彼が最後に遺した言葉。
頭でなく、心にしかと刻み込んだその言葉を思い返していたとき――王は、部屋の外から呼びかける者があるのに気が付いた。
「……アスパルか。構わん、入れ」
「失礼いたします」
王の返答に応え、堅苦しいほどに一分の隙もない礼儀に則って、アスパルが入室する。
「お休みのところ申し訳ありません、陛下。
実は、お願い致したいことが――」
アスパルの言葉が中途で止まる。
――彼の視線は、割れた眼鏡に注がれていた。
「陛下、それは……ラーゼス殿の……?」
「……柄にもなく、感傷的になってしまってな」
ごく自然な苦笑が王の顔に浮かぶ。
「しかしアスパル、お前が余に願いとは珍しい。
ユニアを妻に――と、乞うたとき以来か?」
「それは……その……恐れ入ります」
「……ふ。いやすまぬ、茶化すつもりではなかったのだが」
気さくな調子でそう言ったかと思うと、王は表情を引き締め――改めて、アスパルへと向き直る。
「……それで、願いとは何だ? 申してみよ」
王の怜悧な視線に宿る言外の迫力は、並大抵のものではない。
しかしアスパルは、退くどころかむしろ一歩前に進み出、落ち着いた声で告げた。
「――明日の夜。
〈聖柱祭〉前夜ということを承知の上で、お時間を頂きたく存じます――」




