8.元王女はたおやかに笑う −1−
――央都中心街の中でも、運河に沿って大きな荷揚げ場を擁し、また同時に目抜き通りにも面していて、陸上・水上どちらの交通の便も非常に整った、いわゆる一等地。
そこに、いかにも当然の居場所だと言わんばかりに他を圧して居座る、歴史を感じさせる古い商館――。
場所柄数多い商館の中でも、一際目を引くそこが……織物交易を基本とする様々な大小の商人を傘下に収め、さらには銀行業も営む、〈麗紫商会〉の本店だった。
「……なるほど」
お供の侍女とともに、その奥にある最上級の応接室で主人の訪れを待つ、アスパルの妻ユニアは……首だけ動かして一通り部屋を眺め回し、静かに一人頷く。
部屋の造り、装飾、調度品、そしてそれらが総合的に醸し出す雰囲気――。
それらから、主たる人間の為人を推測した彼女は、前情報と照らし合わせて、いざ本人を前にしたときにどういった対応をするか――といった方針を頭の中で組み上げていた。
そうしていると――やがて奥から主人のナローティが現れ、恭しく跪いて遅れたことを詫びてから、改めて挨拶をする。
それは、決して洗練されているとは言い難いが、さすが大貴族バシリア家に目を掛けられているだけのことはあり……単なる見よう見真似のように無様なものでもなかった。
「しかし……まさか、このあばら屋に姫様自らお運びいただけるとは。
まこと、光栄の至りにございます」
「そう言っていただけるのは嬉しいのですけれど……。
私はアルダバル家に嫁ぐのに、地位を捨てた身――もう王女ではありませんよ、ナローティ殿。
どうぞ、お楽に」
ユニアはいかにも穏やかな微笑を以て答えながら、ナローティに下座の席を勧める。
ナローティは一礼して、示されるままに席に着き、ユニアと向かい合った。
「……して、姫様――ああいえ、失礼しました、奥様。
本日はどのような御用向きでございましょうか?」
総身、どこか締まりのない印象があるナローティだったが、そう尋ねて浮かべる満面の笑顔は、いかにも人好きのする自然なもので……。
それが商人として磨き上げた技量がなせるものだとするならば、ただ見事と言うほかない。
ある程度彼の悪評を聞きつけてきた客であっても、その認識を改めてぐらつかせる一手として、充分過ぎるほどだろう。
――しかし、ユニアはその限りではなかった。
幼い頃より王宮という、権謀術数の坩堝を覗き込んできた彼女は……ナローティの愛想の極致のような笑顔の中、腫れぼったい瞼の奥の瞳に、猛禽のごとき鋭い輝きがあるのを見逃さない。
「そうですね。
今日は、妹に――マールツィア王女に頼まれたお使いで、といったところでしょうか」
そう――向こうもまた、探っているのだ。彼女の真意を。
主筋であるバシリア卿とは、政策その他において王の側に付き、対立しているはずのアスパルの妻が、わざわざ自分の下を訪れる理由は何なのか――と。
「マールツィア姫様の? しかし、姫様はご病床の身で……」
そしてそれに気付いているからこそ、彼女は気付いていない振りをする。
……いや、正確に言えば、気付くどころか、そんなことは考えたことすらない――といった風を装う。
いかにも駆け引きなどには疎い、蝶よ花よと箱入りに育てられた、甘えの抜けない小娘を――演じる。
「ええそう、お見舞いに伺っても、私ですら門前払いです。
けれど、夫だけは目通りが叶っているようなので、様子を尋ねましたところ……ならば姫様が希望されていたナローティ殿への使いを頼みたいと、そう仰って」
どんな話し方が、どんな仕草が、どんな振る舞いが『爪を隠す』のに適当か――明確な理論よりも先に、何より彼女は経験と感覚でそれを知り抜いていた。
出る杭は打たれるとばかり、聡明であるがゆえに向けられる悪意もあると……幼い頃既にその危険に気付いていた彼女は、それを事前に回避するため、自らの爪を隠す術を、以来ずっと磨いてきたからだ。
「ほう、なるほどなるほど、アルダバル卿を介して……左様でございましたか。
――いや、アルダバル卿には先日ご挨拶させていただいたばかりだというのに、早くもこんな御縁をいただくとは!」
新しい商売を匂わせる話に、表向きは喜色が増したかに見えるナローティだが、むしろ増したのが猜疑心であることは、いちいち観察するまでもない。
そこでユニアは、敢えて――とぼけた具合に、自らその疑いに足を踏み入れる。
「ですが……困ったことに、陛下とバシリア卿が国政において何かと意見を戦わせていらっしゃるせいでしょう、夫もバシリア卿の言動には何かと目を尖らせていまして。
今日も、使いのついでに、バシリア卿が何かを企んではいないか、それに〈麗紫商会〉が荷担したりはしていないか、それとなくナローティ殿から聞き出してこい――などと言う始末で……。
まったく、妻は夫の道具ではありませんのに」
「お、奥様、それは……旦那様に……!」
背後に控える若い侍女が、慌てた様子で口を差し挟むのを、ユニアはキッと一睨みして押し止める。
だからどうした、と言わんばかりに。
「奥様、そちらのお付きの方のご心配ももっともでしょう。
当人である私めに、そのようなことをお話ししてよろしいのですか?」
「構いませんとも。央都はこうして平和だというのに、〈聖柱祭〉も近いこの時期、誰が好き好んで陰謀だ企みだと、国を騒がそうとするでしょう?
何かと心配症の夫の、その悪い病気が行き過ぎただけに決まっています――そうでしょう、ナローティ殿?」
そう言って少女のように口を尖らせるユニアに、ナローティは笑いながら鷹揚に頷く。
「ははは、ええ、もちろんでございますとも。
……しかし奥様、アルダバル卿も国を想ってそのようなことを仰られたのでございましょうから、そのご不満、寛大なお心を以て、どうかお胸の内に」
「ええ……ええ、そうですね。
――つい、見苦しいところを見せてしまいました」
「いいえ、どうかお気になさらず。
……して奥様、催促するようで心苦しいのですが、姫様のお使いとはいったい……?」
ナローティの言葉に、ユニアはすっかり忘れていたとばかりに苦笑しつつ、話が逸れていたことを詫びる。
そして改めて、請われた話を口にした。
「実は姫様は、先日ナローティ殿からお見舞いにいただいた異国の装飾品が、いたく気に入られたそうで。
来る兄王子――今は亡きレオノシス殿下の命日、墓前に捧げる品の一つとしたいので、他に同じような品が手に入るなら、是非買い取りたいと。
……ただ、これはあくまで夫を通しての話ですから――あるいは夫が、私に、先に話したような密偵の真似事をさせるために、わざわざでっち上げた話であるかも知れません」
「……ふむぅ……」
儲け話だと素直に喜ぶことも出来ず、思案顔で唸るナローティ。
そこでユニアは、改めてぐるりと室内を見渡し、嬉しそうににこりと笑む。
「――ですが、こうしてこの部屋を彩る品々を見ると……さすがは〈麗紫商会〉と唸らされます。殿下の命日に、という案自体は悪くないでしょう。
なので、もし夫の話が虚言であっても、私にとっても弟にあたる亡き殿下の為……代わって私が、あなたの見繕う品を買い取ることを約束します」
「おお……! それはそれは、願ってもないお話でございます。
では、亡き殿下の御為だけではなく、奥様ご自身の装いにもお一つ、いかがですかな?
若くお美しい奥様を、さらに引き立てるための〈麗紫商会〉自慢の品々、是非ともご覧頂きたく存じますが」
ユニアの真意はともかくとして、商売として確実に金になるのなら見過ごす気はないということなのだろう。
上機嫌でそう提案するナローティに、ユニアもまたたおやかな笑顔で応じた。
「……ええ、もちろん。
それも目的としているからこそ、夫の頼みを聞き入れて来たのですもの」




