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緋色の月を愛でる夜は――  作者: 二上 ヨシ
第二章  ~ハドレイヒ谷の風に舞う~
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9.ジェイドの警告と不器用な笑顔

 朝――

 日差しに照らされたルナが目を覚ますと、腹の辺りに巻き付いている誰かの腕があった。

 自分は一人部屋であるし、何よりその腕は女のものではないらしい。

「もう……ジェイ、またぁ? お願いだから自分の部屋で……――っ!」

「お・は・よ」

 振り返ったルナの頬に音をたててキスしたのは、ジェイドではなくこの上なく女顔の美形たるこの国の総帥トップ

「ラ、ランスッ! 何でここに!?」

 頬を押さえながら、猛然と距離を開ける。

「何言ってるんだよ、ここは僕の部屋だ・よ」

 そういえばそうだった。彼に大事な話があるからと言って、ここへ来たのだと、ルナは額を押さえる。

 ただ、結局スイーツについて熱く語られただけだったのだが。それとも、本当は何か別に本題があったのだろうか。

「それでは改めまして、ルナ! 僕とモーニングキスっ」

「しませんっ!」

 かなり本気で迫ってきたランスの両頬を、片手で鷲掴む。

「なんれ? 昨日は僕もいひおう、君の役にひゃったふもりなんだけど?」

 顔を掴まれながら、ランスは哀しげに麗しい眉をひそめる。こんな子供っぽい、我が儘な性格でなければ完璧なのに。

「そうね……。ありがとうランス、恩に着るわ。キスはしないけど」

「なんだ、つまらない」

 朱を引かずとも赤い唇を尖らせる。

 机の上には開かれた基幹式の本が置かれ、真っ黒になるほど文字の書かれた用紙が乱雑に散らばっていた。

――その本にある基幹式。てめぇ……半分でも言えるか?

 分厚い本のあまりの重さと、ヴィンセントの言葉が混ざるように頭をぐるぐると回る。

 もしかしてランスなら、とスイーツ談議の途切れた一瞬を狙って懇願してみた。

――ランス……ちょっと教えて欲しいことがあるんだけど。

――これを明日までに覚えられる方法? 

――半分でいいの。何があったら教えて……っ。

――いいよ。ちょっとしたコツがあ・る・か・ら。


 そう言って、嫌がらずに深夜まで教えてくれた。

 その中で色々分かったことがある。彼は……やはり医術師の中でもトップクラスに君臨する者は違う。こうして軽々しく話しているのが、はばかられるほどに。

「ふわ~あ。お腹すいた」

 大きく伸びをしながらベッドを下りるランスの、線の細い背中を見つめる。

 銀色の髪は寝癖もつくことなく、朝日を浴びて艶やかに流れていた。

「あなたが羨ましい」

 色っぽく髪をまとめ上げながら、ランスは不思議そうにこちらを振り返る。

「あなたくらいの力があれば、何だってできる。私の理想とする社会へ大きく近づける。だからとっても羨ましい」

 自分には無いものをもつランスが、羨ましくてしかたがない。

 だが彼はその有り余るほど強大な力で、何がしたいのだろう。この国の頂点に立って、何を成し遂げたいのであろうか。

 アルキスと仲が宜しくないのは知っている。だが、彼は彼できっと何か目標があるはず。そう信じて疑わなかった。

「……僕はね、アルベティーヌ連合帝国が傘下に置く国で生まれ育ったんだ」

 まるで、自分の問いに答えるよう彼がそんなことを言い出したことに、ルナは目を丸くした。

 それだけではない。普段ランスは自分のことを話したがらなかった。

 聞いてもいつも、煙に巻かれたというのに――

 女の自分以上に長く密度の高い睫毛が、哀しげに伏せられる。

「そこも例に漏れず医術師が不足していてね、医術師が貴族以外の患者を診ることは許されていなかった。平民の生き死になんてどうでもいいってさ。だから国のあちこちには、すごく悲惨な光景が広がっていた。闇医者なんてのも流行っていたし。今もそんな状況は続いてる。……どうにかしてやりたいんだ」

「ランス……」

 やはりここに来たのは間違いではなかった。

 そう確信するルナをあざ笑うかのように、扉の向こうで聞き耳を立てていたジル秘書官が嘲笑を浮かべていたことを、ルナは知らなかった。



○$○$○



「あーっ、肩も腰も死ぬーッ! 全く、どうして自分に対しては医術が使えないんだろう」

 不便~と、ため息をつく。

 まるで老婆のごとく、ルナは腰を叩きながら書庫から出た。暗い場所に長時間いたせいか、外がやけに明るく感じられる。

 ランスの部屋から出た後、一人で最後の仕上げをした。

 これなら、と自分でも納得できる。

「よし……っ、待ってなさいよヴィン」

 ルナは脇に抱えた分厚い基幹式の本を握りしめ、深呼吸して足を踏み出した。

「ルナ」

 気合いを入れて歩き出した途端腕を引かれ、ルナは一瞬息が止まるほど驚いた。

「ジェイ……っ!? びっくりした、何?」

 ジェイドの方も、あまりにあっけなくルナを引き寄せられ、思った以上にルナと顔が近くなったことに赤面し、だがここぞとばかりに素早く口づけた。

「……っ、ち、ちょっとっ――」

 出し抜けにされた柔らかなキスに紅潮しながら、背の高いジェイドを見上げる。

「昨日から一体どこにいた! 捜したんだぞ……っ」

「ちょっと書庫に籠もってたから……。どうしたの?」

 ジェイドの美しい瞳が、揺らぎながら鋭く細められる。

「な、何? 何かあったの?」

「……あいつには、近寄るな。ヴィンセント・イムステリアには」

 意味が分からない。

 なぜジェイドが彼の名前を知っているのかも。

 困惑しながら眉をひそめていると、ジェイドに肩を壁に押さえつけられた。

「いいな、絶対だ!」

 眉をひそめ、こめかみに汗を滲ませるジェイドの様子からは、鬼気迫るような気迫を感じた。だがそれが逆に、ルナを戸惑いを覚えさせる。

 何がダメだというのか、その理由を教えてもらわないうちに納得などできるはずもない。

 ヴィンセントは社交性こそないが、れっきとした自分の班の一員なのだから。

「な、何なのよ急に。そんなこと言われて、はいそうですか、なんて言うわけないでしょう?」

「とにかく、関わるな! いいな」

「だから、その理由を聞いてるの」

「それは、あいつが――」

「嫉妬とは、格好悪いアルなぁ、ジェイド王子」

 ルナは自分の横に、いつの間にか腕を組んで壁にもたれ掛かる消明の姿があったことに驚いた。 

「あんたいつの間に……?」

「ジェイド王子は、お前が他の男と話すのが気にくわないだけアル」

「違う!!」

 ジェイドの指が肩に食い込む。

 嫉妬でないなら、何だというのだ。はっきり言ってもらわなければ分からない。

「でも……じゃあなんで関わるな、なんて言うのよ?」

「そうアル。なぜアルか……ジェイド王子?」

「それは……っ」

 肝心な所で言いよどまれては、ルナとてジェイドの言うことを受け入れられない。

「……ごめん、ジェイ。でもちょっと話にならない」

「ルナ!」

 ジェイドが何の意味もなしに、自分にそんなことを言うような男でないことは重々承知している。

 それでも、ヴィンセントは自分にとって大事な医術師仲間――

「ジェイ……私だって単に興味本位でこの国へ来たわけじゃない。この国には、医術のあり方を変えられる可能性が眠ってる。だからお願い……邪魔しないで」

 気遣いはありがたいが、自分は彼の手をふりほどいてこの国へ来た身。

 何があろうと、覚悟しているつもりだ。

 ジェイドを振り切るかのように、ルナは彼に背中を見せた。


「邪魔……らしいアルよ、王子」

 耳元でそう囁く消明の胸ぐらを、ジェイドは恐ろしいほどの力で掴んだ。

「俺を見張るつもりか、劉! あいつに真実を教えないように」

「だったら?」

「なら貴様は…………どうしようもない屑だ」

 激しく憤るジェイドにも、消明はただ、いつもの笑みを浮かべるだけだった。


○$○$○


「いた」

 ルナの視線の先には、まるで人気を避けるように建物の脇を歩く歩くヴィンセントの姿があった。

 ジェイドの警告は気になる。

 だが、だからといって関わらない訳にはいかない。

 医班チームはクロスにシュリに自分、そしてヴィンセントの四人で一つなのだから。

「ヴィン!」

 後ろから声をかけると、ヴィンセントはルナを鋭い眼光で一瞥し、チッと舌打ちする。

「テメェ……いい加減に」

 ヴィンセントが言い終わる前に、彼に基幹式の厚い本を投げつけた。

 昨日、まさに自分がされたように。

「覚えたわ! 術の基幹式、全部!」 

「――っ!」

 ヴィンセントの鋭い双眸が、虚を突かれたように見開かれた。だが、すぐにまた元の射貫くような目に戻る。

「はあ? ふざけるな、あれからほとんど時間経って――」

「血圧を上げる式が=Gum+Num3、下げる式が=Gum+Lum、呼吸を助ける式は=X+(lic-i)/bic、それから――」

「アホくさ」

「はい?」

 ヴィンセントは、至極どうでもいいと言いたげな表情で腕を下ろした。

 支えを失った基幹式の本が、ヴィンセントの足元に落ちて空しく土埃を巻き上げる。

「――っ……」

「なあ……まさか俺が感動するとでも思ったのか? 俺の言うこと真に受けて、くそ真面目にこんなもん覚えて。お前を見直すとでも思ったか?」

 冷たい目だった。

 何ものも信じていないような、空虚で光を失ったような目。

「…………」

 ルナは屈んで本を拾い上げると、汚れを叩いて表紙を見つめる。

「勘違いしないで。別に、あんたのために覚えたわけじゃないわ」

「あ?」

「私には夢があるの。この医術師不足の世界を変えたい、上流階級のものになりつつある医術を皆のものにしたい。苦しむ人々を救いたいって。これはそのためのただの通過点よ。た、たまたまあんたの言ったことと重なっただけ……」

 しゃがんだまま見上げたヴィンセントは、これ以上ないほど真顔だった。感心しているような、拍子抜けしているような。

 ただ一つ気づいたことがある。彼を纏っていた針金のような空気が、ふわりと和らいだことに。

「おめぇ…………馬鹿だな」

 その一言にイラッとして立ち上がる。

 誰のせいで、碌に寝ていないと思っているのか。

「っ……あなた絶対モテないでしょっ。折角の綺麗なお顔が泣いてるわよ」

「フン、放っておけ。顔なんざクソの役にも立ちゃしねぇ」

 そう言ってヴィンセントは歩き出したが、まるで自分に歩調を合わせてくれているかのように、横に並んでいても急ぎ足になる必要がなかった。

「そうかしら。世の中、顔が良い人の方が得をしてる気がするけど」

「なら、俺がとびっきり美人に作り変えてやろうか?」

「あいにく私はこの顔を気に入ってるの」

「そうだなぁ、よく見りゃ可愛いんじゃねぇ?」

 ふいに声が近くで聞こえて横を向くと、すぐそばまで迫っていた彼に驚くように仰け反って後ずさった。

(何を言ってるのよ、この男はっ)

 こんな歯の浮くような台詞をサラリと口にできるところからして、彼のキャラクター性というものを、再考する必要があるらしい。

「ね、ねぇヴィン、あなただって、等級査定を通過できなきゃ困るでしょう?」

「別に。けど……おめぇがキスしてくれたら考えてやってもいい」

「はああ?」

「モテねぇから女に飢えてんだよ。ほら」

 ルナの前に回り込み、形の良い自分の唇を指さしながら、腰を屈めて目線を合わせて来る。

 近くで見れば一層、ヴィンセントの少しつり上がった強気な目元も、意地悪そうに上がる口角も、思わず胸が高鳴るほど美しく整っているのが分かる。

「あ、あのねぇ……っ、冗談も大概に」

「マジで照れるなよ、バーカ」

 額を指で軽く押され、ルナは真に受けてしまった照れ隠しに押された額に掌を当てる。

「乙女心を弄んで……っ」

 にらみ付けるが、相手はどこ吹く風。

 もう話はないとばかりに、一人で歩き出したヴィンセントが足を止めた。

「ルナ、いつだ」

「――!?」

 彼の白衣の裾を、風が緩やかに舞い上げる。

「次……医班で集まるのはいつだ」

 名前で呼ばれたことと、振り返った彼の思いがけない言葉に、ルナは一瞬白昼夢でも見ているのかと思った。

 だが黙りこくる自分へ、不愉快そうな面を向けてくるヴィンセントに、慌てて正気を取り戻す。

「き、今日の夕食後! 第一研究棟第三学習室。……来てくれるの?」

「気が向いたらな」

「ありがとう!」

 白衣を翻して遠ざかっていく彼の背中に、ジェイドの警告も忘れ、ルナはわき上がってくる喜びを抑えられなかった。


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