8.彼の正体
「お忙しいはずの正秘書官殿が、私なぞに何のご用です」
差し出されたコーヒーには手をつけず、アルキスは目の前のモノクルをかけた胡散臭い男を見やった。
「まあまあ、そう警戒なさらないで下さい、ダレン殿」
ジル正秘書官は香りを楽しむようにカップを近づけると、一口飲んで満足そうな表情を浮かべた。
広い秘書室は、書物が多い割に整然と片付けられ、今コーヒーを飲んでいるテーブルには異国語の新聞と、しおりの挟まった読みかけの古めかしい本が嫌みもなく置かれてある。
それだけで彼が知的に見えるし、おまけにこの端正で優しそうなルックスと地位。本来の性格云々はともかく、この秘書官が異性はもとより男からも尊敬され、人気があるのも頷けた。
だが、アルキスはこの男とは、何かと反りが合わないことを感じていた。自分が右と言えば左と言うし、正しいと言えば、誤っていると言う。
彼が一度協会を抜けた自分をよく思っていないことは知っていたが、医術に対する考えも、おそらく根本的に異なっているのだろう。
つまり、プライベートで仲良くコーヒータイムをする仲などでは決してない。
警戒するなと言う方が無理があった。
「お飲みにならないのですか」
萌黄色の瞳が、わざとらしく細められる。
「コーヒーは苦手で」
「それは残念。ですがあいにく他に用意はございませんので」
用意する気がないだけだろう、という言葉を喉の奥へ押し込める。
「アルキス殿、実はあなただけにお教えしておきたい事があるのです」
チープな詐欺口上のように口火を切った秘書官に、アルキスはたじろぐ様子もなく大人しく耳を傾ける。
「この国に、どうやら異国の工作員たちが入り込んでいるようです」
「工作員……?」
「ええ、要はテロリストです。ただ侵入ルート自体は、問題ではありません。亡命を装えば、この国への侵入は容易い。彼らは何年も前から、この国に溶け込むように生活し、情報を流し、破滅の機会を虎視眈々と伺っていたのでしょう」
「あなたのその口調では、それが既に特定されているようですね、ジル殿」
ジルがカップを持ったままフフと綺麗に笑うと、モノクルの鎖が揺れる。
「鋭いですね、さすがに。総帥のおっしゃる通り、あなたを政治的な重役に登用したいくらいだ」
「あいにく私は、ただの一級医術師です。それに、一度この国から逃げたこともある」
「別に本気であなたを誘っているわけではありませんよ、ダレン殿」
ああ言えば、こういう。
やはり、いちいち癪に障る男だとアルキスは思った。
「で? その工作員とやらは、一体誰なんです」
ジルは、意外にも真剣みを帯びた瞳を上げた。
「工作員は複数いるようですが、その中の一人に――ヴィンセント・イムステリアがいます」
アルキスの唇が、震えるように開かれた。
その名前にはよく聞き覚えがあった。もちろん彼が天才的な医術の力を持っているという話は知っている。
だが違う。それとは別口で彼の名をよく聞いていたのだ。
(お嬢様と……同じ医班の)
膝に乗せていた拳を、強く握る。
ジルは大儀そうに前髪をかき上げた。
「はあ……彼の天才的な医術力には、我々も期待していたのですが。このようなことになってしまい、非常に残念です」
「確かなのですか、それは」
「消明の持ってくる情報に、一度でも誤りがあったことなどございません」
気配を消すように出窓に静かに腰掛けていた消明が、明るい表情で手を振る。
見かけはこうでも、消明は優秀な諜報員だった。
「お嬢様には、このことを知らせたのですか」
「ですから最初に申し上げたでしょう? あなただけにお教えしたいと。知らせるつもりはございません」
「なぜです。こんな大事なことを……!」
「その工作員……ヴィンセントたちはどうやら、特殊かつ危険な医術で、この国を混乱に陥れようとしているのですよ」
スッとジルが新聞を差し出した。
イオリア王国にて、謎の伝染病が一夜にして大流行したという記事が大きく掲載されている。
おそらく数週間前のものだ。現在はやっと収まったという記事を、確かルナが読んでいたはずなのだから。
アルキスは、この秘書官が言いたいことを解した。
「これは、ヴィンセントたちによる、人為的なものだったと?」
「ええ、いくつか証拠も挙がっております。イオリア王国を狙ったのは、実験するためだったようですね。これは推測ですが、実行はおそらく、この国の重鎮たちの集う、等級査定の行われる日でしょう。とはいえ、雇い主や工作員全ては特定されていませんし、数も定かではない。泳がせておいて、術を発動する直前で全員を捕らえたいのです。医術に関しては、我々の方が経験も技術もある。直前だろうと、発動を止めることなど容易いでしょうから」
「だからそれまで、お嬢様を、危険な者と一緒に過ごさせると言うのですか!」
両手をついて立ち上がったアルキスに、ジルはまあまあと鼻で笑ったようになだめる。
「その実行日まで、彼らも下手なことをできないでしょうし、ルナ君を絶対傷つけたりしません。なんせポエニクスの涙の秘密を握る者……なのですから」
「つまり……お嬢様のことも狙っているということですね」
ならば、余計にヴィンセントと一緒にいさせるわけにはいかない。
なのに彼らは、彼女に余計なことを言って工作員らに勘づかれたくないという思いから、黙っているつもりなのだ。
「ジル殿……情報は全てなんでしょうね、それで」
わき上がる怒りを隠しもせず、アルキスはジルを射るように見据えた。
「ええ、もちろん」
「一応、不信感は残したままにしておきましょう」
「そこは普通、信用しておきますという所でしょうに。あなただけにでもお教えしたことを感謝していただきたいくらいですよ」
もう、話にならなかった。
「失礼します。これ以上は……」
「――今の話は、本当なのか」
突然割って入った、震えるような声。
「ジェイド……皇太子」
目を見開き、戸口に佇むジェイドの姿があった。
「おやおや、ジェイド殿。こんな所まで立ち入りを許可した覚えはございませんが?」
「煩いっ! ルナが狙われているというのは、本当なのか!」
不敵な笑みを浮かべる正秘書官に詰め寄るジェイドの前に、消明が立ちはだかる。
「ここはお前の支配する、連合帝国じゃないアル。異国の者に、しゃしゃり出て来てもらう義理はない」
「異国だろうがなんだろうが、あいつは俺にとって特別な女だ!」
「お前にとって特別でも、ルナにとってはそうじゃない。ルナも恋人でもないお前のお節介など、必要としているはずがないアル」
「……っ」
ジェイドの美しい眉が忌々しげにひそめられる。
「ああ、一つ警告しておきますが、ジェイド殿。今聞いたことを、もしルナ君の耳に入れたりしたら、あなたを即刻帰国させ、二度と入国を許しませんのでご承知を」
我々と二度と友好関係を築けなくなるとお思いになってください、というジル秘書官の言葉に背を向け、ジェイドは無言で部屋を出た。




