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緋色の月を愛でる夜は――  作者: 二上 ヨシ
第二章  ~ハドレイヒ谷の風に舞う~
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7.異質な存在

朝。窓から日差しが射し込み、鳥のさえずりが聞こえてくる。

先程から唇に何か柔らかなものが、くっついたり離れたり吸い付いてきたりするような感覚を覚え、ルナはそっと目を開いた。

「ん……」

 重い瞼をショボショボと上げ、ぼんやりしていた視界が次第にクリアになってくる。

「おはよう」

 明瞭になった眼前に、完璧スマイルで微笑むジェイドの姿があった。

「なっ――!」

 ルナは一瞬で覚醒し、ベッドの端まで後退する。

「おおお、おはようじゃないわよ、ジェイ! 何してるの? いつ来たの? というか、どうやって入ったの?」

 ボサボサの髪を適当に整え、ルナはベッドに寝そべるジェイドに声を荒げた。鍵はかけて寝ているはず。なのになぜ彼はここに。

「来たのはさっきだ。どうやって入ったかと言えば、寮長に鍵を借りた。何をしていたかといえば、お前に会いに来た。以上」

 イチャイチャしよう、と手を伸ばしてくるジェイドを慌ててかわし、ルナはベッドから下りた。 

 一体どうやって規則に厳しい寮長を言いくるめたのかと思ったが、今現在最も深刻な問題はそこではない。

 ルナに逃げられ、残念そうにルナの枕に顔を埋めるジェイドをジッと見つめる。最初の頃の彼からは想像できない姿だった。

「ねえ、ジェイ……」

 呼ばれて枕から顔を上げる金髪の麗人に、胸がトクンと鳴る。

「……私が寝ている間、変なことしてないわよね……っ」

 ジェイドはゆっくり、そして気まずそうに目をそらし、

「ね……寝ている女に手を出すほど、お、落ちぶれて……いない…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「キ、キスだけだ! それ以上は耐えた!」

「耐えるどころか、十分手を出してるでしょうが!」

 ならば起きる寸前に感じていた唇への違和感は、やっぱりジェイドの口づけだったのだろう。一体自分が起きるまでに何度キスをされたのかと赤面した。

「はあ、全く……」

 ルナは閉口したように肩を落とし、茶葉の入ったティーポットに湯を注いでカップに入れる。

「もう着替えるから出て行って」

「ルナが着替えるのを見届けたら出て行く」

「殴りますよ……、ジェイド皇太子っ」

 拳を怒りで震わせるルナに、ジェイドは「わ、分かった」と身体を起こす。

「後ろを向いている。これでいいだろう?」

 ジェイドは降参と言いたげに両手を挙げ、ベッドの反対側へ腰掛けた。

 だがいくら背を向けてくれているとはいえ、恋人でもない男と二人きりになっている状態で着ているものを脱げるほどルナも神経は図太くない。

「ジェイ」

「もうそんなに長い間、お前とは一緒にいられないんだ。これぐらい……許せ」

 俯く彼の動きにつられ、彼の綺麗な金髪が垂れ下がる。

 ジェイドの寂しげな後ろ姿に、ルナは胸が締め付けられる思いだった。

 帰国まであと四日。

 ジェイドとこんな日々を過ごせるのもあと四日。

 彼は帰国後、フィオナと結婚することになるのだろう。そうなれば、二度と二人きりで話すことはなくなる。

 少しでも長く、自分とのひとときを過ごしたい。

 そんなジェイドの願いが聞こえてくるようだった。

 ジェイドはルナを自分に惚れさせ、後悔させたいと言っていた。だが、彼はきっと本気でそんな気持ちでいるわけではない。自分への想いを全て出し尽くして帰国し、その上でフィオナと結婚するつもりなのだろう。

――結婚すれば、俺は妻となる女がどんな女だろうと忠義を尽くすつもりだ

 そんな彼の言葉が蘇る。

(女嫌いだって言ってたくせに、どこまで女に誠実なのよ……あなたは)

 ルナはパジャマを脱ぎながら、ジェイドへの整理のつかない思いを持てあましていた。

「ねえ、ジェイ明日」

 ルナは肩越しに振り返り、こちらに背中を向けている……はずのジェイドの血走った目と目が合った。

「……えっ」とルナ。

「え……?」とジェイド。

 当のルナは今、素肌にキャミソールとお気に入りのレースの下着一枚だけ。思わず両腕で身体を隠すように屈み込んだ。

「いやっ、ちょっ、ジ、ジェイッ!」

「あ……い、いや、つい……。誤解するな。最初から見るつもりだったわけでは……!」

 赤い顔で弁解しながらも、それでもレースの下着から目を逸らそうとしないジェイドに、ルナは傍にあった妙な猫の置物をおもむろに掴む。

「誤解するなって……結局めちゃめちゃ見てるじゃない、馬鹿ぁッ!」

 ジェイドの方へ向かって思い切り投げつけた。

 

○$○$○


「朝から疲れた……」

 ルナは湯気の立つ紅茶で両手を温めながら、ため息をついた。

 第一研究棟の裏手にある憩いの場は、丸テーブルがいくつも並ぶ医術師らの休憩所だった。丸テーブルの足には暖を取れるよう火が入れられ、冬でもとても暖かい。、学習室とは違って声を潜める必要もないし、話し合いをするには最適の場所だった。

「何ゲッソリしてんスか? ルナ先輩」

 クロスはおそらくラブレターであろう桃色や花柄の手紙を、片肘をついて顔色一つ変えず読み終え顔を上げた。少女らの想いの詰まった便せんも、彼の細い指をすり抜けてはらりと舞い落ちる。ルナも最初こそもう少し丁寧に扱えと言っていたが、あまりに毎日のことに既に気にならなくなっていた。

 彼に好意を寄せる大勢の女の子たちから、少しばかり嫌な目に遭わされたことがあるから……ということも正直ある。

「あの亡命貴族と何かあったの、ルナ」

 ご丁寧にも、クロスの受け取った手紙の誤字脱字や言い回しを赤ペンで訂正していたシュリが、包帯の巻かれていない方の、清水のような水色の右目でルナを見つめてくる。

「な、何かって何? 何にもないわよ、全然! 私はただの案内人だもん」と紅茶をすする。

「つーか、あの人めちゃくちゃイケメンッスよねぇ。背も高いし。俺らも一回見かけたんスけど、侍女たちの間でもすげぇ噂になってるッス。ね、シュリ先輩」

 ペンダントを指で弄びながら笑うクロスに対し、シュリは考え込むように眉宇をひそめた。

「でも僕、あの人に見覚えがある気がする。どこかで見たような……」

 ルナはそれにドキリとした。

 ジェイドと総帥は、現在非公開の、いわゆる「水面下での交渉中」であるため、ジェイドがアルベティーヌ連合帝国の皇太子だと、関係者以外に知られるのはまずい。

「どこかってどこッスか?」

「それが分からないから考えているんだろう、大馬鹿たれ」

 大馬鹿たれって言われたッス、とテーブルに突っ伏すクロスを慰める者はいない。

「ルナは覚えがないの」

「ど、どうかしら……、まあああいうのってよくある顔だから。おほほほほ」

 ルナの下手な嘘に、シュリの眉間の皺が一層濃くなる。

「それより、等級審査よ! 何を発表するか決めてくれたんでしょ? 見せて見せて!」

 ガバッと勢いよく起き上がったクロスが、丸めてあった一枚の紙を地図のように広げる。

「これッスよ、これ! じゃーん、自信作!」

 広げた紙には、魔方陣のような医術式が描かれていた。

 シュリが小さな指でそれをなぞりながら説明する。

「まだ途中だけど、例えば一カ所に同じ病にかかった患者を集めて、一気に治療できる術を開発しようと思ってる」

「これがあれば、集団感染した街なんかを一瞬で元に戻せるッス。ほらこの間も外国であっという間に病気が広がって、治療が追いつかず街がほとんど壊滅状態に陥ったってニュースあったっしょ?」

 俺たちタイムリー、などとクロスはピアスを揺らし、綺麗な顔でカラカラ笑う。

「規模でっか! なのにもう、ほとんどできてるの?」

 さすが特級医術師は普通の医術師とわけが違う。

(やっぱりここからなら、きっとこの世界の医術のありかたを変えられる!)

 ルナはゴクリと唾を飲んだ。

「でも……これ以上はどう考えても進まない」

 シュリがトントンと指を叩く部分には、空白があった。

 そこを正しく理論が通るように埋められれば、術が互いに反応を起こして一つの新たな術となる。

 これが治療に使われ、普段医術師らが患者に使用するものになった。

 クロスも両肘をつきながら式を見下ろす。その物憂げな表情に、傍を通る女医術師たちが頬を赤く染めた。

 ルナには、そんな彼女らの冷たい視線が突き刺さるが。

「同じ病に感染していると言っても、個々患者の体力や病気の進行具合が微妙に違う。そこの辺りの調整方法が思いつかないんッス。俺たちそもそも専攻が術開発じゃねぇし。でも折角ここまでできたしー」

 クロスは頭の後ろで手を組んで、椅子ごと身体を仰け反らせる。それをじっと見ていたシュリが足でクロスの椅子をトンと蹴ると、クロスは手足をばたつかせながら後ろから盛大に転んでいた。

「えええ! 何するんッスかっ!」

「危ないから止めろと言いたかったけど、言葉にするのが面倒だった」

「椅子蹴る方が危ないっしょがー!」

 わあわあと騒ぐ彼らのことなど気にも留めず、ルナは物思いにふけっていた。成績トップクラスの彼らですら答えが出せない。

 ならば――

「ヴィンに相談してみましょう」

 騒いでいた二人がピタリと止んでルナを見る。

「あ、あいつに相談って。えー、本気ッスか、ルナ先輩」

 クロスはあからさまに嫌そうな顔をした。こちらが分からないことを相談するのが、相当屈辱的らしい。

「これは四人の研究結果として発表するものなのよ? ただ乗りさせるのも癪でしょう。それに四人で発表してもいいって言ったじゃない」

「まあ……。けど、あいつが俺らに協力するかどうかッスよね。医科大の時だって、授業に教科書どころかノートも持ってこないし、ムドーの言うことも聞かなかった野郎ッスよ」

 なのに常に首席とかマジでありえねぇッスと、クロスは口をへの字に曲げる。

「ルナ。あれ」

 シュリが指さす先に、白衣の青年の姿があった。あの近寄りがたいオーラは、間違いない。

「噂をすれば。ちょっと行ってくる!」

 ルナは椅子の背もたれに掛けてあったコートを纏い、ヴィンセントを追いかけた。



「ヴィン!」

 ヴィンセントは一瞬だけルナを瞳に映すと、何事も無かったかのように再び前を向いた。

「ねえ、今そこで等級査定で発表する術式を考えてたの。クロスとシュリもいるし、一緒に来て」

 身長差による足の長さのせいで、歩く彼に対してルナは小走りしながら話しかけるが、ヴィンセントは速度を緩めることも返事をすることもない。

「あの……この間、クロスが言っていたことなら気にしないで。少なくとも私たちはあなたが難民出身であることを笑ったりしてないし、馬鹿にもしてない」

「……」

「ねえ、あなただって何か目標があって医術師を目指したんでしょ? なのに、このままじゃ医科大に逆戻りだわ。それでもいいの?」

「『目標』?」

 ヴィンセントが突然足を止め、ルナも慌てて数歩引き返した。ヴィンセントが瞳孔の開いた紺色の瞳でルナを見下ろす。

 冷風に梢がざわめいた。

 どこか猟奇的な様に、ルナは思わず背筋がゾクッとする。

「んなもん、あるわけねぇだろう……。医療はチームだ? はっ、笑わせんな。俺は俺以下の医術師と組む必要性をこれっぽっちも感じねぇ」

「俺以下」の言葉に、ルナはムッとした。

「どうしてあなた以下だなんて分かるのよ。私たちは同じ特級医術師でしょ」

「同じ……ねぇ」

「違うって言いたげね」

 ヴィンセントは傍を歩いていた医術師から突然本を奪うと、それをルナに放り投げた。

「な、何?」

 ルナは石のように重い本を辛うじて受け取り、ヴィンセントを怪訝な顔で見つめる。

「その本にある基幹式。てめぇ……半分でも言えるか?」

「え……?」

 まさか、彼はこの手の中にある辞書のような本の内容全てを、頭に叩き込んでいるというのか。

 そんな馬鹿な、とルナは思う。

 だが、クロスの話によれば、彼は授業に教科書もノートも持ってこなかったと言っている。それでも医科大を首席で卒業した。

 ならばやはり、全ての情報は彼の頭の中に――

(嘘でしょ……。どこまで天才なのよ)

 目の前に凜として佇む白衣の男が、自分とは明らかにレベルを画する医術師なのは間違いない。

「どうした、言ってみろよ。俺と同レベルだって言い張んなら、その証拠を見せろ」

 ルナの額を脂汗が流れた。

「だから……その……えっと」

 知らないのだ。言える訳がない。本を持つ手に力が入る。

 チッとヴィンセントが舌打ちした。 

「あのアルキス=ヴュー・ダレンの弟子のあんたでさえそのザマか。期待の女医術師と聞いたが、拍子抜けだな。野郎も大したことねぇってことか」

「ムドーのことまで馬鹿にしないで。彼は正真正銘、一流の医術師だわ!」

「どうだかな。もしくは、テメェが相当の出来損ない馬鹿女か」

 嘲笑するように歪む口元が憎たらしい。

「出来損ない馬鹿女……?」

 自分とて、平々凡々ながらずっとずっと一生懸命に勉強して今があるという自負がある。夜通し暗記に勤しんだこともある。

 どれだけ途中で投げ出したくなっても、ここまで踏ん張って耐えてきた。なのに、何だその言いぐさは。

 怒りで身体が熱くなってきた。

「く……っ、知ってる? 人にはそれぞれ得意分野っていうものがあるのよ」

「へぇ。で、そのてめぇの『得意分野』ってのは何だ。施術か? 製薬か? 調合か? あいにく俺はどれも同じレベルにある。つまりお前は、あらゆる面で『俺以下』だってことだ。他の奴らもな」

「ヴィン!」

 彼が白衣を翻して闊歩すると、自然と人の波が別れて道ができる。彼を見てヒソヒソと何か話し、好奇の視線を送る。

 それだけ彼は「異質な存在」だった。班へ引き込んで一緒に……など、無謀なのだろうか。

「もー、何をどうやったら、こんなゴタゴタチームになるのよ」

 ルナが天を仰ぎながら息を吐くと、ふわりと良い香りが鼻腔をくすぐり、トンと肩に腕が回される。

「そう、天才とは孤独なものなのさ。かくいう僕も……って聞いてよ、ルナっ!」

 突然姿を現したこの国の総帥トップ、ランスの腕を払って踵を返す。

 髪をだらしなく結い上げたランスは、相変わらずため息が出るほどの美しさだが、何かがそれを台無しにしている、とルナは常々思っていた。

「あなたの場合、『馬鹿と何とやらは紙一重』の方が合ってる気がするけど、ランス」

「何とやらの使い処おかしくない!?」

 ランスは「ルナ酷い」といじけて左右の人差し指で突き合う。

「で? 総帥直々に出向いてくるなんて、私に何か用があるんでしょう?」

 ルナが話しかけると、ランスは無邪気な笑みを浮かべた。

「うん! 美味しいお菓子を手に入れたんだ。僕と一緒に食べない?」

「……知ってると思うけど、もうすぐ等級査定なの。悪いけど、また今度にして」

「いいじゃない。お勉強後に甘い物はつきもの。ティータームにしようよ、大事な話のついでに……ね」

「大事な話?」

 ルナがランスを振り仰ぐ間もなく、腕を引っ張って連れ去られていく。

「というか、話があるならそれを先に言ってよ……っ」

 愚痴を零すルナの言葉も、「僕とイイコトしようねぇ~、ルナ」と楽しげなランスの耳を華麗に通り過ぎていった。


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