5.ジェイドの本音と嫉妬
「これでよし」
アルキスは自身で作り上げたベリーパイのできに、満足そうに微笑を零した。まるで芸術品のようだ。残しておけないのが実に惜しいと目を細める。
「研究室で菓子作りとは、随分と女々しい趣味だな」
「皇太子……」
ノックもせず入ってきたのは、連合帝国ナンバーツーのジェイド。そのどこか不貞不貞しい態度は、幼少期から大勢に傅かれて育ってきた環境故だろう。
「そうでしょうか。この趣味はお嬢様には結婚したいと言われるほど、高評価なのですが」
「……っ! 食い意地の張った女め。……俺とていくらでも買ってやれるのに」
ルナの話になった途端、クールで堂々とした仮面が外れて、まるで子供のようになるのもまた素直な彼らしいが。
「何だ、あの手紙の山は」
一級医術師にも個人研究室が与えられていたが、特級のそれの半分の大きさもない。加えてアルキスは、自分で勝手に簡易キッチンやオーブンを作ってしまったために、その狭さに拍車がかかっていた。
そんな部屋の隅にある机の上の手紙の山は、誰でも気になるほど目についた。
「この国では、いかに腕のある医術師になるかで人生を左右されます。そのためには、青学舎の医術科から医術大学へ進むというのが王道。ただし成績的に医術大への進学が難しいと思われる生徒の親から、何とか教諭推薦枠で進学させてやってくれと嘆願書が届くのです。高額な小切手と一緒に。お返しするのも一苦労ですよ」
「まさに親バカだな」
深刻な顔でジェイドがヒョイと拾い上げたそれは、嘆願書と言うには程遠い花柄の封筒。しかもそれは一通だけではなく、真っ白くでシンプルなそれよりかなり量が多い。
「まあ、中にはただのファンレターもあるのですが」
「『中には』どころか、大半じゃないか……っ」
よくよく見れば机の上に留まらず、箱詰めされたものが壁に山積みになっている。
「何だこの量は……」とジェイドは言葉を失う。
アルキスの美しく端麗な容姿と紳士的な態度から、青学舎教師の中で唯一ファンクラブができあがっていた。何やら密かに規律やら会員ナンバーやらが発行されているらしいが、生徒たちの勉強に影響がないのならとアルキスも学長も気には留めていない。
参観日や学舎祭の際にはかなりの人だかりになり、整理券が配られる騒ぎになることをこの間来たばかりのジェイドは知る由もなかった。
アルキスは使った調理器具を片付けながら、
「皇太子も、調子はいかがです? 婚約者をお連れになっていると小耳に挟みましたが」
「……ああ。悪いか」
途端に不機嫌な声色になったジェイドに、アルキスは分かりやすい方だ、と苦笑を漏らす。今、最も聞かれたくないことだったのだろう。
「それで、私に何か?」
ジェイドはしばし間を置き、大勢の女たちが見惚れてきた青い瞳を真っ直ぐアルキスに向けた。
「ルナがあの男と付き合っているというのは、本当なのか。あの何とかいう胡散臭い男と」
「そのようですね」
ルナからそういうことにするのだという話は、アルキスも聞いている。
「いつから」
「気になりますか?」
アルキスは生徒や保護者の前では絶対に見せない、含みのある笑みをジェイドへ向ける。
「……お前も相当屈折した男だな、ダレン」
「どうも」
思えば彼に名前で呼ばれるのは初めてだったが、それくらい自分を認め、頼りにしてくれているのだろうかと、アルキスは思う。
かといって、ルナの望まないことを言うつもりはない。
「正確なことは、私にも分かりません。そのようなことを根掘り葉掘り聞く間柄でもございませんし」
「お前はあいつの親役なんだろう?」
「と、同時に執事ですから。求められる以上の干渉はいたしません」
それが、アルキスの執事としてのポリシーだった。必要以上の干渉はしない。それでも、主を信じるのが務めだと。
きっぱり言い切ったアルキスに、ジェイドは少々残念そうに肩を落とした。こんな雰囲気にそぐわない、甘酸っぱいベリーパイの香りが一層強く感じられる。
「……ルナが初めてだった」
ジェイドの長い睫が、哀しげに伏せられる。
「己の欲や俺に取り入るためでなく、真っ直ぐ向き合ってくれた女はあいつが初めてだ。女の笑顔はいつも計算じみていて、それが自分に向けられるのがずっと苦痛だった。だが、ルナに会ってからは……あいつの笑顔ばかりを追いかけるようになっていた。自分の言ったことに対して嬉しそうに微笑んでくれるルナを見ると、いつも胸が躍った。あいつには、こちらまで笑顔にさせる力があった。その顔を他の男に向けていると、腹が立つが」
伏せがちだったジェイドの碧眼が、徐々に強さを得るように、上向いてゆく。
「俺は今も、ルナのことが好きだ。今でもふとした瞬間には、あいつのことを考えている。姿も見えない、声も聞けない。それでもこの二年ずっと、ルナのことだけを想ってきた。それを、昨日今日で忘れられると思うか?」
「……いいえ」
「だが、あいつにはもう別の男がいる。俺のことは……迷惑、だろうな」
憂いを含んだジェイドの横顔は、二年前に比べて大人びた哀愁を漂わせていた。
ルナは、ジェイドという男を大きく変えた。仏頂面で女嫌いで、戦にばかり逃げていた頃の面影はない。
一人の女を深く愛し、いかに自分が辛かろうと、彼女の思いを第一に考えようとしている男の姿がある。
「ルナは……同盟も結んでいない異国の男とより、同じこの国の男との方が幸せになれるだろう。俺は、俺のために命をかけようとまでしてくれた女を心から愛している。だから、身を引く。そのことを、俺は悲観するつもりはない」
痛々しく、だが勇敢な大将のような悠然とした笑みを浮かべるジェイドに、アルキスは思わず本当のことを言ってやりたくなった。
お嬢様もずっと、あなたのことを想っておられるのだと――
だがそれは、決して自分の口からは言えぬ事。
自分はこの若い二人に何もしてやれない。
「少なくとも、あなた様のそのお気持ちは、迷惑などではありません。きっと、お嬢様はそうお思いになられるでしょう」
ルナの気持ちを、ほんの少し代弁する以外は。
○$○$○
本省前の噴水公園は、午後六時ともなると徐々に大人ムードへと雰囲気を変えていく。ライトアップされた目印の巨大噴水の周りには、待ち合わせをする男女やデートをする大人のカップルで溢れていた。
そんな中、綺麗なドレスに身を包みながらも、不機嫌そうに腕を組むルナの姿があった。
「何なのよ、いきなり四人で食事なんて。さっきあんな微妙な空気になったっていうのに、まだ私と関わりたいの? 意味が分からないわ。準皇女だってもうちょっと他人の話を……って。ちょっと、シャオ! 聞いてる!?」
黙りこくる、高級スーツ姿の消明を振り仰ぐ。
「聞いてるアル、聞いてるアル」
待ち合わせの噴水広場で消明と並んで立っていると、行き交う女たちが皆消明に恍惚とした表情をしながら手を振ってくる。中にはあからさまに誘っているのではと思う女もいたが、消明は誰に対しても律儀に、愛想良く手を振り返していた。
今宵の消明は護符の下がる中華帽が無いせいで、彼の眉目秀麗な面貌が全て露わになっていた。
亜細亜系人種特有の、涼しげでアクのない顔は、一層漆黒の瞳の美しさを際立たせ、魂を吸い込まれそうに感じるほどで、今夜の彼は誰から見ても堪らなく魅惑的だった。
「どこが聞いてるのよっ」
そんな消明にも動じることなく、ルナは護符が張り付いたシルクハットを無理矢理被せた。すると不思議なことに、パタリと女性たちが彼に興味を示さなくなる。
「お前は皇太子たちの案内役なんだろう? だったらこういう食事会があっても不思議じゃないアル」
深く被らされた帽子を少し持ち上げ、消明がそう答える。どうやら、本当に話を聞いていてくれたいたらしい。諜報という仕事をしているせいなのか、この男には全く油断や隙がない。
ルナは大息した。
「こんなことに巻き込んで悪かったわ、シャオ」
「いや、これは元々俺が言い出したことアル。それに俺もいつまでも春玲のことを引きずるのも良くないからな。お前を嫁候補に入れておいてやるアル。ありがたがれ」
普通の世の女たちなら泣いて喜ぶだろうが、ルナにとっては至極どうでもいい。
「それはどうも。けど、いいの? あんたは自分の父親に失望して国を出たって言ってたけど、あんたが家出したからって、あんたの国も父親も何も変わらないじゃない。いずれはここを出て、故郷に帰るの?」
「さあな。ただ秦華帝国は、他の二国と違って医術師の受け入れに積極的らしいからな。そういう方法でというなら帰ることがあるかもしれない。おっと、今のは国家機密だから漏らすなよ」
「じゃあ……何でランスたちは秦華帝国じゃなく、ジェイの国との交流ばっかりに目をやってるの?」
「あの総帥の考えることは、俺にも分からないアル」
若干声色が変わった気がして消明を見上げたが、シルクハットから下がる護符のせいでその表情は読み取れなかった。
「待たせたな」
少々語気を強めてそう言ったのは、ジェイド。着ているスーツは高級品であろうが、それでなくとも帝国ナンバーツーの品格が彼を一層魅惑的に映す。
今日は少々分け目を変えているらしく、いつもと違うジェイドにルナはドキリとした。
「ごめんなさい、準備に手間取っちゃって」
フィオナの方も、さすが準皇女と言ったところだった。惜しげも無く豊満な胸元を見せつけ、心なしかジェイドの腕に押しつけているように見える。
(気のせい? いいえ、絶対わざとだわ!)
女だからこそ分かる、女のあざとさ。
「あら、ルナさん素敵なドレスね」
フィオナの長い長い睫が、ルナの足元から顔まで撫でるように動く。
「どうも」
さきほどのことなど、すっかり忘れたようにフィオナは無邪気に話しかけていた。そういう所にもあざとさを感じる。
「ですがもう少し、胸のコルセットを緩めてもよろしいのに。あ、いやですわ、もしかしてそういうわけではございませんの? ごめんなさい」
(シバき回されたいのかしら、このお嬢様は……っ)
握った拳を、どうにか怒りで震わせるだけにとどめた自分を、ルナは褒めちぎってやりたかった。できるなら、抉るように顔面を殴りつけてやりたい。
「シャオ……あんまり私がヒドイ顔してたら、沈静術よろしく」
「今も十分ヒドイアルよ」
「え? なんです……ちょっ!」
消化しきれぬ怒りを消明へ向けようとして、不意に頬にキスを落とされた。風で靡く護符の下から、彼の真摯な黒き双眸が見える。カッと顔が熱くなった。
消明がニンマリと笑う。
「あれ、沈静のつもりが顔が豆板醤みたいに真っ赤になってきたアル」
「あ、あんたねぇ……っ」
頬を押さえ、突然のことにどう言葉を紡いで良いのか分からなくなったルナが消明をにらみ付ける。
「話がある」
「ちょ……っ、どこ行くの?」
突然ジェイドに腕を掴まれ、建物の陰に連れ込まれる。少々乱暴に壁に押しつけられ、ハンカチで頬をゴシゴシとこすられた。
「いたたたたっ、一時間かけた化粧が落ちるったらっ」
拭き終わったかと思うと、ジェイドは先ほど消明が口づけた場所へ被せるように、吸い付くようなキスを落とした。
「ちょ……っ、ジェイ」
抵抗しようにもものすごい力で両手を壁に縫い付けられているために、身動きができない。ただひたすら、彼が満足して離してくれるのを待つしか無かった。
ちゅっとわざとらしく音を立てて、唇を離す。名残惜しそうに何度か短いキスを落とすと、ジェイドはやっと顔を上げた。
「か、勘違いするな。単なる挨拶のキスだからな」
意味が分からない、とルナは思う。
「そう? どうせなら、唇にしてくれてもよかったのに」
「え……っ? あ……」
その言葉にジェイドは素直に頬を赤く染めると、目を閉じ唇を近づけてくる。
「勘違いしないで。冗談だから」
「そ、そんなことは分かっている」
頬の仕返し、とばかりにルナに足の指を踏まれたジェイドは涙目でそう言い返した。
「早く戻りましょ」
ジェイドの拘束を無理矢理解く。
「お前はあんな不埒な男のどこがいい」
不埒というなら、女をこんなところに連れ込んで無理矢理キスするあなたの方だろうとルナは言いたかった。
「どこって……シャオはいつも冷静だし、突き放したようだと思えばちゃんと見てくれていて、意外と優しいし。って、そんなこと聞いてどうするの? 早く行きますよ、ジェイド皇太子」
昼間、ジェイドに呼び方と話し方について注意されたことを思いだし、少々嫌みを込めてそう言ってみる。
踵を返そうとして、手首を掴まれた。
「まだ何か?」
「ジェイでいい……。前のままの呼び方でいい。話し方も」
そう訴えかけるジェイドの表情は切実で、どこか憂いさえ感じられた。その表情すら美麗すぎて、恥じらいに目を合わせていられない。
「でも」
「恋人ではなくなっても、お前とは友人でいたい。言いたいのはそれだけだ。ほら、早く行くぞ、ルナ」
「私と友達になって、一体どうするっていうのよ……」
ジェイドの意図が分からない。
フィオナの元へ歩いて行くジェイドの背中を見つめながら、ルナは本日何度目か分からないため息をついた。




