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緋色の月を愛でる夜は――  作者: 二上 ヨシ
第二章  ~ハドレイヒ谷の風に舞う~
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2.やってきた『亡命貴族』と共和国総帥

 ノアール医術共和国は、総帥を頂点に貴族階級と医術師階級があり、その下に一般庶民と奴隷階級があった。

 身分制はあれど、民の間で医術が広く浸透しており、どの家庭にも街に専属の医術師がいた。そして彼らの紹介状さえあれば、貴族から奴隷階級まで、誰でも特級医術師からの施術を受けられる理想的な医術社会。

 とはいえ、やはり問題がないわけではなかった。

 それが貴族らの存在である。

 彼らは医術の知識も無く、医術の繁栄にも興味はない。元は自己の利益の為にノアールにやってきた者たちである。

 金に物を言わせて特級医術師を独占し始め、たとえ軽い病気だろうと、重い病を抱える一般市民らを差し置いて、優先的に特級医術師から診察を受けられる権利を持っていた。

 そんな権利を持つことに異を唱える者も多かったが、やはり新興国ということもあり、しかもまだ助けを乞えるような協定国もない。

 金銭的な問題解決のためには、我が儘な貴族らの意向に従うしかなかった。

「ったく。ここはそれでいいの? せっかく小国と呼べるま成り立ってきたのに……。いつか成金キングダムになるわよ」

 ジル正秘書官に、このたび来た亡命貴族の案内役を務めるよう、ありがたくも仰せつかったルナは、プリプリと不平を垂れながら来賓館に向かっていた。

「お嬢様もそうカッカなさらず。もしかすると、今度の方は良い方かもしれませんし」

 大量の説明用資料を軽々抱えながら、アルキスがそう答える。

「ムドーはお人好しすぎ。最初は謙虚そうでも、自国で抑圧されていたのが、ここへ来て良い地位と環境を与えられて、一気に勘違いしちゃうパターンが常じゃない」

 中庭を包むように伸びる柱廊を歩きながら、どうやら豪奢な来賓館の中でも一際格式高い賓客室ステイトルームへ招くということから、今回のターゲットは相当な金持ちらしい。

「何がいいのよこんなもの」

 ルナは廊下に立ち並ぶ黄金の裸像を見上げながら、こんなくだらないモノにお金を使っているから、訳の分からない金持ちを引き入れなければならないのではと太息を吐き出した。

「また傲慢な奴じゃなきゃいいけど」

 そういえばここへ行く前に総帥の部屋へ寄れと言われた気がしたが、行ったところでむしろ時間の無駄だと、ドラゴンでも首をもたげたままくぐれそうなほど背の高い、白いドアをノックした。


○$○$○


「ねぇ、ジル。ルナはいつになったら来るの?」

 部屋の半分を、大量の折り紙でできた輪飾りがカーテンのように囲う。その向こうから、ふて腐れたような、つまらなさそうな声が聞こえた。

 ふかふかのカーペットに長い足を投げ出して座り込むのは、輪飾りのカーテンで上半身は隠れて見えないが、張りのある凜とした声から、かなり若い男らしいことが分かる。その彼の周囲には、菓子や飲み物が大量に用意されているらしかった。

 右手を背に当て、兵隊のように真っ直ぐ佇むジルは、顔の見ない少年に向かって柔らかな笑みを浮かべていた。

「こちらへ寄るよう言っておいたのですが。もしかすると、直接客人の元へ向かわれたのかもしれません」

 ジルの言葉に少年が飛び起きる。

「ちょっと! 何で僕を置いて行くの? ルナの馬鹿! 大好きだ! ……こうしていられない」

 プライベートムードだった少年が、いそいそと公的な衣服へ着替え始めた。

「そう慌てずとも。相手が早く到着しすぎただけですし」

 待たせておけばよいのです、とサラリととんでもないことを言う。

「客人は男だよ。ルナに何かあったらどうする、彼女は僕のなのに」

「ご安心を。閣下のような方は稀です」

「それじゃあ僕がすぐ手を出すみたいじゃない」

 着替え終えたらしい少年が、ジルの方へ歩みを進める。

 銀の腕輪が光る左手で輪飾りのカーテンを開けたのは、ノアール医術共和国の頂点に君臨する最高峰の医術師、ランシュリー・ザイン・ルシフェル総帥。細面に長い銀色の髪をだらしなく結い上げ、それが妙に色っぽく見える、一見女かと見まがう若く美しい男だった。

「否定はしないけどね」

 長いまつげに囲まれた、薄いブルーの瞳が耀かがよう。

 艶やかな唇で妖艶に微笑むその男に、落とせぬ男女あいてはなかった。


○$○$○


「失礼しまーす」

 ルナは賓客室ステイトルームの扉を開けると、両手で大量の資料を抱えるアルキスを先に部屋に入れ、その後に続いた。

「どうも、お待たせして申し訳ありません。さっそく本国のご説明をさせていただき……ぶっ」

 ルナは、部屋に入った途端立ち止まっていたらしいアルキスの背中に顔をぶつける。

「もう、ムドーどうしたの? こんなところで立ち止まらないでよ」

 鼻を押さえながら抗議の声を上げる。

「ルナ……?」

 そう自分を呼んだのは、アルキスではない。

 このシルクのように滑らかな声は――……まさか……。

 胸の奥をつかまれたかのように、一瞬息ができなくなった。

 ハッとして、まるで姿を隠すように、アルキスのシャンとした背中にしがみつく。

(今の声……)

 バクバクと鼓動する心臓が痛い。鎮静術でも施したいが、自分で自分に術をかけることができないことが恨めしかった。

「お久しぶりです、ジェイド皇子。いえ、今は皇太子とお呼びすべきでしょうか」

 アルキスから紡がれる言葉に、ルナは掌が汗ばむのを感じた。

(嘘……、嘘っ。やっぱり……――ジェイ)

 アルキスの背中に顔を埋めたまま、彼の服をギュッと握る。

 ルナとて、彼が嫌だからプロポーズを蹴ったわけではなかった。あの指輪を受け取れたら、どれだけ幸せだっただろう。

 今でも、彼のことは鮮明に覚えている。淡い恋心と一緒に。

「そんなところに隠れていないで顔を見せてくれ、ルナ」

 彼の声が足音と共に傍に近づいてくる。

(いやああ、来ないで……っ!)

 アルキスを挟んで、すぐ向こう側にジェイドがいる。心臓が爆発するのではと思うくらい鼓動を早めていた。

「ルナ」

 ジェイドがアルキスの背中に回り込んでくる気配を感じ、ルナは俯いたまま急いで反対側へ回り込んだ。

「……何をしている。逃げるな!」

「む、無理です」

「無理とは何だ! 俺がこの二年間、どれだけお前を」

 アルキスを中心にグルグルグルと、まるで鼠を追いかける猫のように回る。

「私は断ったわ。なのに……何しにきたのっ」

 ルナは、極力彼を見ないように逃げ回った。

 アルキスの腕の中の大量の資料がはためく。

「俺は認めた覚えはない。俺がお前と結婚すると言えば、お前に拒否権などない」

「帝国にいたころならそうかもしれないけど、今の私はノアールの医術師よ? あなたの権力なんて及ばない」

「俺は今や皇太子、次期皇帝だ。こんな新興国になどいくらでも影響を与えられる」

「ここは、そんじょそこらの新興国とはわけが違う」

 ジェイドにしつこく追いかけられるうち、ついに腕を掴まれた。

「違うからどうした。お前を手に入れるためなら俺は何でもする」

「あなたなら、他にいくらでも言い寄ってくる人がいるでしょ……」

 それでも逃げることを諦めないルナを強引に引っ張った。

「ああ、腐るほどな。だが……俺が欲しいのは、お前だけだ」

 背中から抱きしめられ、観念してジェイドを肩越しに振り返った。

 久し振りに見る彼の姿と感じる温度。

 目が合った瞬間、ジェイドの瞳が熱に揺れたのが分かった。その表情から、視線から、彼の気持ちが未だ変わってはいないことを思い知った。

 自分を真摯に見つめるジェイドは、二年前と少し変わっていた。身長も少し伸び、体つきも一層の逞しさを増しているのが服越しに伝わる。

 細面には仄かに凜々しさと大人の男の色気がにじみ出て、それが元々美麗だった彼の容姿をより引き立たせていた。

(に、二年前より格好よくなってる……っ)

 カッと赤くなった顔を見られないように、すぐに顔を逸らした。

「ジェイド皇太子、申し訳ありませんが、お嬢様もかなり動揺されておられるようですので、少々お時間頂けませんか」

 アルキスのフォローが、今このときありがたくて仕方がなかった。少しでいい、熱で溶けそうな頭をクールダウンする時間が欲しかった。

「断る。こっちは何年待ったと思っている。今すぐルナと二人きりにしろ」

 空気が読めないのか、それともそれだけやっと会えたルナと離れがたいのか。ジェイドはますます腕の力を強めた。

 ルナはそれに一層顔を赤くする。

(鼻血が出たらどうしよう……っ)

 見かねた付き添いの秘書官、ロイが駆け寄った。

「ジェイド様、ここは焦らんと慎重に。次期皇帝としてみっともないですよ」

「知るか。おい、鍵のかかる空き部屋はないのか」

「異国で犯罪臭いことすんのだけはやめて下さいーっ」

 我が国の名誉がー、とロイは頭を抱えて座り込む。彼もこの二年、相当苦労したのだろうかとルナは察した。

「ジェイ、ほら落ち着いて。私ももう逃げないから!」

「そうだな。もう……二度と離れられんようにしてやる」

 ジェイドはポケットから何か取り出すと、ガチャリとルナと自分の手首に何かをはめた。

「て……手錠!?」

 目をむくルナを、ジェイドはしたり顔で見下ろす。

「黒髑髏の手錠だ。特殊かつ複雑な魔術でロックされていて、人力で解くのは絶対不可能だ。鍵は帝国にしかない。さあルナ、残念だが、これで俺と一緒に帰るしか――」

 ジェイドが腕を上げた瞬間、そこに手錠はなかった。

「――!?」

「コーラコラ、ダメですよ、ジェイド皇太子。ウチの女医術師マドンナに手ぇ出・し・ちゃ」

 いつの間にそこにいたのか、ルナとジェイドの前には、男とも女ともつかない非常に美麗な人物がいた。妖艶に微笑む彼の白い指には、黒い手錠がクルクルと回っている。

(こいつ……)

 目を見張るジェイドをよそに、麗人は涼やかな笑みを崩さなかった。

「初めまして。ノアール医術共和国総帥、ランシュリー・ザイン・ルシフェルです。以後お見知りおきを」

 目を細めて笑うと、長い睫が一層目立った。

「総帥……? 貴様が」

 ジェイドの目の前の男はかなり若く、それに調子も驚くほど軽い。

(これが百の兵に匹敵すると言われる、特級医術師たちの頂点だというのか……)

 かなり過激な思想を持っているとも聞いたことがあったせいで、勝手に根暗そうなマッドサイエンティストを思い浮かべていたが、この無駄に美麗な男は到底そんな風には見えない。

 だが解錠不可能と言われる黒髑髏の手錠をいとも簡単に外したところから見るに、術を使うことに異常に長けた、相当な腕を持つ医術師なのだろう。

 そして目の奥が笑ってはいないということも、妙な『ニオイ』がすることも、ジェイドは見逃してはいなかった。

「ジェイド殿。ここは一旦冷静になりましょう。我々もルナ君に少々説明しなければならないことがありますし」

 総帥の後ろから出てきたジルが、場をそうなだめる。

「ジールーさーん……」

 ルナは、ジト目でジルを睨み据えた。今回の客人がジェイドだと知っていただろうに、敢えて自分を案内役にしようとするとは。

 全く、何を考えているんだと幾分の怒りを視線に込めた。

 だが当の本人は、モノクルの鎖をシャラリと揺らして訳ありげに笑うだけで、まともに受け止めてなどくれそうもなかった。


○$○$○


「どういうことなの?」

 ルナは総帥室のローテーブルをバンッと叩いた。テーブルの上に置かれていた、大量の菓子が揺れる。

 だがそんなことには気にも留めず、ルナは向かいに座って呑気に菓子を食べるオトコオンナを、これでもかというくらい睨みつけた。

「まさか総帥閣下様は、私を取引の材料になさるおつもり?」

「んーもう、そんな他人行儀な話し方はやめてって言ったろ、悪・い・子。黒髑髏の手錠しちゃうぞっ」

「くっ……。本当はあなただって知ってたんでしょう、ランス。それも今日なんかじゃなく、ずっと前から」

「どうかな? 今夜僕と一夜過ごしてくれたら教えてあ・げ・る・よ」

「いい加減にしろルシフェル。どういうことなんだ」

 さしものアルキスも、コメカミに青筋を立て、ルナの座るソファーの傍で腕を組んでいた。

「きゃー、ダレン君が怖い顔してるー。同期で総帥の席も争った仲なんだから、もっと優しくしてよー」

「お前が同期なのは、私の人生の中で一番の汚点だ」

「同期なだけじゃないでしょ。僕と張り合えるのは、昔も今もこれからもきっと君だけ。永遠の好敵手ライバルって感じかな? ま、ルナには期待してるけど」

 普段からは考えられない、真面目な表情でルナを見やる。総帥たる彼にこれほど真剣な表情を向けられては、並の者はただ恥じらいに俯くことしかできない。

「……話を逸らそうったって、そうは行かないわよランス」

 そろそろ怒りに震え始めたルナには、効かないようだが。

「お嬢様、目が殺人鬼です」

 そう言われても、怒りを内に押しとどめてなどおけない。

「はいはい、分かった分かった」

 さしものランスも諦めたのか、少々拗ねたようにアップルパイに手を伸ばした。

「それを説明しようと思ったのに、君たちが僕を置いて先に行っちゃったんだもん」

 ヒドイよ、と言う表情から察するに、彼は置き去りにされた腹いせに散々前置きを長くしたらしい。

「だもん、じゃないわよっ。そういうことは当日じゃなくて、もっと早く言って。第一どうして私が案内役なんてっ! ……私とジェイのこと、あなたたちなら当然知ってたんでしょう」

 ふかふかのソファーにだらしなくもたれ掛かって菓子を頬張るランスと、ソファーの後ろに佇むモノクルの正秘書官を交互に見やる。

 医術師協会という一組織を、共和国という国にまで育て上げたのは紛れもなくこの二人。今までどんな根回しや裏取引を行ってきたのかなど知る由もないが、国内に招き入れようという人物の調べを怠るなどあり得なかった。

 おそらく、食べ物の好みから癖まで調べ尽くしていることだろう。

 ジルは萌黄色の瞳を真っ直ぐルナに向け、薄い笑みを浮かべる。彼は優しいが、どこか癖のある男だった。双心族という、昼夜で性格がごろりと変わるという特殊な種族だからということもあってか、とても心中を読み切れない。

「君たちのことはもちろん調査済みですよ、ルナ君。ジェイド殿の主治医をしていたことも、短期間ながらお付き合いがあったことなんかも」

 この言い方は他にも色々知っているはずだ、とルナは思う。

「別に……お付き合いなんてほどのものじゃ」

「そうですか。ですが、ジェイド殿は依然あなたに強いご好意を持たれているようです。それは君も否定のしようがないのでは」

 先ほど、一旦各自部屋に戻って話し合ってから落ち着いて話そうということになったときも、ジェイドはルナと離れるのをひどく嫌がった。

 話し合い後、すぐに二人きりにさせるという約束でジェイドも渋々承諾したが、二人きりになった時が怖いとルナは思う。

「そもそも今回の入国も、ジェイド皇太子側からの申し出だったし。ねぇ、ジル」

「ジェイが……?」

「はい。過去何度も、ノアールを視察した上での話し合いをしたいとの申し出がございました。正直、連合帝国側から話し合いの機会を設けてもらえるのは非常にありがたい。ですが、魔界には三竦みと呼ばれる三つの巨大国家がございます。他二国を差し置いて、連合帝国の皇太子にのみ入国を許可することを知られるのは、こちらとしても色々と都合が悪いもので」

「それで亡命貴族って言う名目でジェイを招き入れたってわけ。 で? あなたたちは、その好意を利用して、ジェイにこちらの要求を飲ませようって言うの? 人の気持ちを利用するなんて最低だと思うけど」

「誤解だよ。僕は、ルナが皇太子の案内役をするの反対だったんだから。だってルナは僕のものじゃない?」

 ランスはルナを見つめながら、チョコレートのついた指をペロリと舐める。唾液で濡れた指や唇に残るチョコレートなど、彼はいちいち扇情的であった。

 ルナがなびくことはないが。

「だったらどうして、案内役を敢えて私に? 結果こんな……微妙な事態に。ジェイだって、突然私が現れてきっと混乱してた」

「ジェイド殿は、この国の民の中で唯一君だけを信頼されている。君の言うことなら素直に耳を傾けようとされるでしょうし、理解しようと努められるでしょう。対する君はこの国の良さを理解し、心から大切にしている。他意などありません。ジェイド皇太子殿やアルベティーヌ連合帝国に我々のことを理解していただきたいという願いは、あなたを通してならば叶えられるであろうと判断した結果です」

 ジルにそう言われれば、ぐうの音も出ない。完全に筋は通っている。

 容姿端麗な二人の、少し陰のある視線がルナに突き刺さる。ランスもジルも、ルナがジェイドをこちら側へ引き込むことを望んでいるらしい。

 これではまるで二年前とは逆だと、ルナは嘆息しながら思った。

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