1.ノアールの実情とルナの杞憂
市民医院の看板がついた石造りの広大な病室には、たくさんのベッドがずらりと並び、大勢の患者が看護師や医術師たちの手当を受けていた。
高い位置にある窓からは温かな日が差し、柔らかく病棟内を包む。
この辺りには、いくつもの病棟が集結し、あらゆる病の研究と治療が日々行われていた。
三百年前、たった十名の医術師から組織された特級医術師協会は大いなる発展を遂げ続け、軍事的、内政的、外交的に成熟し、もはや『組織』などと呼ぶに相応しくない規模と機能を備え、魔界に根をはり始めていた。
通称であったノーアルという名は国名へと転用され、ノアール医術共和国として、徐々にその影響力を対外へ及ぼし始めているのである。
「お加減はいかがです、スイスターさん」
二年前に、当時まだ特級医術師協会と呼ばれていた頃、ここで難関の特級医術師の試験を一発で通過した女医術師、ルナ・クロエがカルテを手に老人に話しかけた。
「いやあもう、先生のお陰でこの通り」
「そう良かったわ。でもあんまり無理しないでね、歳なんだから」
「ルナせんせー」
ルナに抱きつくように駆け寄ってきた少年を抱き上げる。そんな一番乗りできた彼を「ずるい」と、同じ歳の頃の少年らが続々と集まって文句を垂れた。
「危ないから病棟は走らない。それと、見学は静かに!」
「はあい……」
大好きなルナに叱られてしょげる彼らの胸には、ブルーの丸いバッジがついていた。金色のクロスが光るその章は、彼らが皆、青学舎医術科の生徒たちであることを表していた。
この学科に進学できる時点でエリート視される、将来の特級医術師候補生たちである。
「申し訳ありません、お嬢様」
少年らの後ろから、アルキスが面目なさそうに姿を見せた。
「あなたを見つけると、どうも気分が高揚してしまうようで」
ルナの執事兼、医術の師であるアルキス=ヴュー・ダレンは、現在青学舎医術科の教師をしていた。
左手首に光る腕輪の色は青――一級を示すもの。アルキスの実力ならば、すぐにでも銀輪が取れるだろうに、彼は今はこれで十分だからと頑なに拒否していた。
未だ彼の中に、半人族虐殺の件について、嚥下しきれぬ思いがあるのだろう。
「万年彼氏ナシのお嬢様も、お子様からだけはおモテになられるんですね。何が原因なのでしょう」
「余計なお世話ですっ!」
仲良く言い合う二人の胸には、それぞれ星の数が違う階級章がついていた。
ルナは最高位から四番目にあたる二本線の間に一つ星、有線独星章、アルキスはさらにその一つ下の、線のない三つ星、無線三星章であった。この国では、レベルの高い医術師ほど、高地位が付与されていた。だからこそ皆、より素晴らしい医術師を目指して日々勉学に励むのである。
一国総医術師――
事実とはかなりかけ離れた言葉ではあるが、それほどまでこの国は医術師の育成に力を入れ、また成功しつつあった。
「先生業にはもう慣れた?」
ルナは職務を終えたアルキスと、元は医術師協会本部であった国家中央本省の周辺を歩いていた。
本省は遠くから見るとまるで山脈のように巨大で、滅多に降らない雪が降ると、とても幻想的な風景になる。
「生徒たちはみな可愛いですよ。今日のようにはしゃいでしまうこともありますが、まだ許せる範囲ですし」
青学舎は九年制。医術科は五年生からしかないが、アルキスが受け持っているのはちょうどその五年生だった。
まだまだ小さく落ち着きのない子供たちだが、アルキスなら上手くやっていそうだとルナは思う。
「お嬢様こそ、お仕事の方はいかがです?」
「ねぇムドーその『お嬢様』っていうのは……」
アルキスの一族は、代々クロエ家に仕えて来た執事家系である。
だが、正確に言えばクロエ家の血を引かないルナは、彼にそんな扱いを受けることに申し訳なさを感じていた。
アルキスはルナの言わんとすることを悟ったように、柔らかく目を細める。
「あなたがどのような出生であろうと、クロエ家の当主が自身の子としてお育て遊ばされていたのです。私も、あなたを『お嬢様』と呼んで仕えてもおかしくはありませんでしょう。もちろん、お嫌でなければ……ですが」
アルキスの零す、美麗で温かな笑顔にルナは励まされるような心地がした。そう、彼は一度は脱退したはずのこの医術師組織に、ルナのために一緒に戻ってくれたのだ。
それがどれほどの覚悟だったのか、想像に難くない。
裏切り者と後ろ指をさす者も実際に存在するのだから。
「ありがとう」
ルナにはもう家族と呼べる存在がいない。自分にとってその代わりであるアルキスがこうして傍にいてくれることは、とてもありがたかった。
「それにしても、まだまだね、私も」
本省から西に位置する、赤煉瓦の建物へ足を踏み入れた。最近建てられたこの建築物は、小尖塔がたくさんついた教会のような構造をしている美しい楼。
銀輪を持つ特級医術師のみならず、新しい医術を開発する研究師や、研修医たちも大勢出入りしていた。
「ここへ来る前は、そこそこ医術師としてもレベルが高いかと思っていたけど、本当に思い上がりだったみたい。複数の病気を併発している患者に対する治療術の見極めには時間がかかるし、薬草の調合法だって大部分を知らない。そもそもまともに扱えない術も山ほどあるのに、新術は続々と生み出されるし……はあ」
クルミの木でできた階段を上がりながら、ルナは長嘆息を漏らした。
「自信喪失とは、らしくありませんよ。知らぬ事があるなら、学べば良いのです」
アルキスの言っていることは、まるっきり教師らしい。
医術師用の学習室には、たくさんの可愛らしい丸テーブルが、まるで花のように並んでいた。その脇を抜け、書庫の扉に手をかける。
「それより、よろしかったのですかお嬢様」
「何が?」
唐突なアルキスの問いかけに、ルナは中途半端に扉を開けたまま振り返る。
「……ジェイド皇子のことです」
長い睫に囲まれた、アルキスの天鵞絨色の瞳が優しく胸に刺さった。いつまでたっても塞がらない心のカサブタを刺激されたような心地だった。
ジェイド。
アルベティーヌ連合帝国第三皇子にして、次期皇帝候補の麗人。以前余命を宣告されるほどの病を患っていたが、その原因となる呪詛を解いて完治させた。
そして、かつてルナが好意を持った人だった。
ジェイド皇子の方も本気で自分を愛し、求婚までされた。今でも、あのサファイアのような瞳を思い出すだけで胸がときめく。
「あ……ああ、ああ! いたわね、そういう……患者も」
二年も前に自分から離れていったというのに、ルナは自分でも驚くくらい動揺していた。落ち着く場所を失った瞳が、心許なさげに浮遊する。何も言わずに見つめてくるアルキスに、ルナはいよいよ酷く居心地の悪さを覚えてた。
「別に、この世に男はジェイ一人ってわけでもないし……。それに言ったでしょ、私はお妃なんて柄じゃないし、夢があるんだって」
一気に扉を開けて足を踏み入れた。
そこは、周囲を丸くぐるりと巨大な本棚の壁が立ちふさがる空間。上はどこまで伸びているのか、分からないほどに圧倒されるほど高く、一分の隙も無くびっしりと本が詰まっていた。
ルナとアルキスが赤茶色の板に乗ると、それはまるで昇降機のように音も立てず上へと上っていく。
「あの人のことは、もう忘れたの。今は好きでもなんでもないし、向こうだってもう他に恋人作ってるんじゃない? 格好いいんだし」
「お嬢様……」
「えーっと、あの本は確かもうちょっと右に……。あったあった」
アルキスの言葉を振り切るように、ルナは目当ての書物を探す。
ルナの意志に従うように、板は上下左右自在に動いた。他にもたくさんの医術師らが、同じように昇降板に乗って本を選んでいるのが見える。
下を見れば目がくらむような高さまで上がり、目的の本の前に来ると、ルナはそれを小脇に挟んだ。
「それより、やっぱりさすがねこの国は。私が解明に時間がかかりそうな病気をあっという間に治しちゃう医術師が大勢いる。特にここの総帥は、私なんて足元にも及ばないほどの天才だわ。中身はアレだけど」
「そうですね」
今度はアルキスの意志で板が動き、ピタリと止まった場所にあった本を細い指で取る。
「病に最も適合する術を瞬時に割り出す能力で、奴の右に出る者はいないでしょう。さらに術に僅かなオリジナリティを加え改良する能力に至っては、天賦の才としか言いようがありません」
「彼と並び称される程の実力保持者と言えばムドーだけだろうけど、二人とも全然タイプが違うわよね。感覚のまま思いつくがままに術を施し自在に改変させる彼と、治療魔術や薬草の調合法を全て頭に叩き入れ、その中からどの術をいかに的確に、正確に用いるかを重視するムドーとは」
「私は、医術はとても緻密で論理的なものだと考えておりますから」
「ですが、それで手遅れになっては元も子もないのでは?」
アルキスが取ろうとした本を、先に取った人物がいた。
モノクルをつけた長身の男は、まるで人工的な人型模型のように、驚くほどスタイルがいい。
本省用の正装をきっちり着こなす彼の左手首には銀輪が光り、胸には最高位から二番目にあたる、二本線に三つ星の等級章――有線三星章がつけられていた。
貴族でいう大公にあたる。
「治療は時に時間との闘い。あれやこれやと議論しているうちに患者が死んでは、その議論すら無駄というものですよ、ダレン殿」
アルキスの取ろうとした本を丁重に差し出す。アルキスはそれを少々嫌そうに受け取りながら、
「これはこれはヘイド殿。相変わらずの嫌みっぷりですね」
「『今は』ジルですよ。我ら双心族の第二人格は、日の沈んだ後にしか現れませんから」
総帥正秘書官、ジル(ヘイド)・ウォーレスが微笑みながら小首を傾げると、モノクルから下がる鎖がシャラリと揺れた。
「そうです。ルナ君、総帥がお呼びですよ」
ジルの黄緑色の瞳は、まるで新芽のように美しい。この瞳に見つめられ、恋心を芽生えさせてしまう少女らが多いのも納得できた。
しかも、ルナは特級医術師の中では最下級の侯爵級であるが、ジルは格下相手でもこうした丁寧で紳士的な対応。婦女子からの、人気の高さも納得できる。
「お呼びって……私はまだ、これからやることがあるんですけど」
「実は国外から訪問者がありまして」
「ああ、また亡命貴族?」
「お嬢様、お声が高い」
周囲で本を選んでいた医術師らの視線が一斉に突き刺さる。
亡命貴族とは、亡命を目論む異国の貴族や成金たちのことを指した。だが、当の本人たちはその呼び方を酷く嫌っていたのである。
ノアール医術共和国は、貴族にはなれない成金たちや、政治的、民族的に迫害されている貴族たちの逃げ場になっていた。
ここでなら、本国では到底得られない高い貴族階級や安寧の時を得られるのだ。もちろん、そんな彼らを招き入れるのは共和国側もうまみがあってのこと。
ルナはジト目でジル正秘書官を見やる。
「ここって、正直思っていたのと違う部分が多いわ。医術師が絶対的な力を持ってるのかと思いきや、医術師階級とは別に貴族階級があって、同等、もしくはそれ以上の権力を持って国を仕切っているなんて。しかも彼らは平等な医術社会の創造にはこれっぽっちも興味ないみたいじゃない。いずれ、医術師側が支配されることにならなきゃいいけど」
「仕方ありませんよ、ルナ君。何をするにもお金は必要です。特に医術道具や薬は馬鹿高いものばかり。研究にも莫大な資金が必要です。医術の発展に、スポンサーは必須ですから背に腹は代えられません」
「それで亡命してきたお金持ちの貴族や成金たちを大勢取り込んで、高い地位を与えることと引き替えに、彼らの資金を活用させてもらってるってわけ。他にもあなたの馬鹿高そうなスーツ代にも化けてるのかしら? ジルさん」
そこまで言っても、ジル正秘書官は「参ったな」と笑うばかり。暖簾に腕押しとはまさにこのことだとルナは思った。
「とにかく、今度来られているその方の案内役をお願いいたします。そしてぜひ、こちらに取り込んでいただけるとありがたい。他の誰でもなく、君ならできると信じております」
キラリとモノクルが光る。
最後の一言に、やけに引っかかりを覚えた。
(一体、誰が来るっていうのよ……)
じっとジルの顔を見つめるが、彼の飄々とした笑みからは、到底答えを見つけられそうになかった。




