21.クラティス第二皇子と一通の手紙
「クラティス第二皇子」
檻の前に佇む第二皇子は、その手に小さなフラワーポットを持っていた。だがそこに美しく咲いていたであろう花は無残に枯れ、土に力なく横たわっている。
その花の様子が、病床に伏せるジェイドを彷彿とさせ、ルナは怒りに口角を震わせた。
「どうして……。どうしてこんなことをするんです!」
鉄格子を握って、憤りをぶつけるように揺らす。
「そんなに皇帝になりたいの!? 母親が違うとは言え、実の弟を手にかけてでも!? 半人族を実験に使おうとしたり、本当に最低だわ!」
「あの法案は否決された」
水仙の葉から水滴が零れ落ちるように、クラティス第二皇子の口から言葉が流れ出す。
ルナはそれに耳を疑った。
「え……? だ、だってあなたのお母様が」
ルナを実験台第一号にすると言っていたはずだ。
どういうことなのか、訳が分からない。
「半人族を実験台にするなど、生けるものを救うべき医の道に反する。母上にもそれを分かってもらった。それだけのことだ」
第二皇子の紡ぐ言詞が予想とはことごとく異なり、ルナの思考をかき乱す。
「ま、待ってっ……! あなたじゃないの? ジェイに呪いをかけたのは……」
「それなら、お前に手を貸したりしない」
第二皇子はフラワーポットを床へ置くと、ゆっくり檻の鍵を開けた。さび付いた蝶番の音と共に、目の前にあっけなく出口が姿を見せる。
「で、でも……」
信用すべきかせざるべきか。安易に信じて罠に嵌められるかもしれない。
ルナは出口に視線を送りつつも、一歩も動こうとはしなかった。
そんなルナに、第二皇子は少々落胆の表情を見せた。
「私は……剣が苦手だ」
床に置いたフラワーポットを拾い上げながら、第二皇子は枯れた花を切なそうに見つめた。彼の紫紺の瞳は、夕暮れ時の空のような深みと寂寥感に満ちていた。
横顔の整ったフェイスラインが、驚くほどジェイドに似ている。
「争いや戦いが嫌いだ。だが、誰も護ることのできない己の非力さは、もっとずっと嫌いだった。ジェイドのご母堂も、兄上も、その他多くの者が病で命を落とした。そのたび私は幾度悲しみの涙を見てきたことか。だから私は、医術を学び始めた。少しでも、誰かを救うことができる力が欲しかった。争いや戦いによらずとも、誰かを護る力。医術が……その答えだと思ったんだ」
普段寡黙な彼が、これほどまでに口を開いて何かを訴えようとする姿に心が揺り動かされる。
第二皇子が花に触れると、枯れていたはずの花がみるみる内に生気を取り戻し、美しい姿を取り戻した。葉の一枚一枚さえ、輝くような瑞々(みずみず)しさを湛えて眩しい。
「……へぇ」
消明さえも、感心したように口角を上げる。それほど高度な医術をクラティス第二皇子は身につけていた。
あの時、クラティス皇子が庭の花を枯らせていたのは、医術の練習のためだったのだろう。
いつからそんなことをしていたのか。
誰の助けも請わず、たった一人で懸命に――
「それで独学で……そこまで」
第二皇子の中に、並々ならぬ努力と強い信念が窺える。
「誰も治せないなら、私がジェイドを治してやらなければと思った。だが私ではやはり力不足だったようだが……」
一瞬、クラティス第二皇子が声を震わせ、涙を堪えるように顔を上げた。
「ジェイドが助かるだろうと聞いたとき、嬉しくて震えが止まらなかった。治るのだろう、ジェイドは……。数多の医術師が匙を投げた病も、お前なら治せるのだろう?」
ルナを真っ直ぐに見つめる紫紺の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
そう――。想像などとは違い、クラティス第二皇子は驚くほど賢く、そして優しい青年だった。
ルナは彼を色眼鏡越しでしか見てこなかった己の愚かさに、拳を握りしめる。
「ごめんなさい。私、あなたをずっと誤解していた。今思えば、ジェイは諦めていたからじゃなく、本当の心優しいあなたを分かっていたから、あなたに帝位をまかせようと思っていたのかもしれない」
ふとなぜかそんな気がした。
ジェイドが魔術を不得手としたのは、それを得意とするこの兄の存在ゆえなのかもしれない。
深読みしすぎだろうかとも思うが。
「ジェイドの心は分からない。だが、私など皇帝には向いていない。国を護るためには、争うことも戦うことも必要なのだから。多くの王国を従えるこの国には、ジェイドのような強い皇帝こそが相応しい。私はそう信じている」
負け惜しみなどではない。
クラティス第二皇子は、心からジェイドが皇帝になることを喜んでいる。自身の矜持などよりも、帝国や民のことを慮って。
「早くジェイのところへ行かなきゃっ!」
そんなクラティスの思いを、無駄にはできない。ルナが急いで檻を出ると、第二皇子は没収されていた医術用の腕輪を手渡してくれる。
「これが必要だろう?」
その時に見せた、普段は無口な美少年の控えめな笑顔は、正直反則だと思った。
しばし言葉を忘れる――
「きっと……いいえ、ジェイは絶対に助けるわ!」
そう断言して、ルナは風のようにその場を走り去った。
「第二皇子ー、ついでに俺の所の檻も開けるアル」
クラティス第二皇子は、鉄格子の隙間から顔を出そうとする消明を無表情で一瞥すると、さっさと踵を返して帰って行く。
「おーーい」
消明の声だけが、空しく石壁に響いていた。
「でも医術師協会でもない、クラティス皇子側でもないとなると、一体誰がジェイに呪詛を?」
ルナは庭の端をできるかぎり全力で走りながら、そんなことを考えていた。
「そうよ、ああいう誰かの身体に影響を及ぼすたぐいの術は、直接相手の身体に触れなくちゃいけない。でも、ジェイに頻繁に触れられる人物なんて……」
まさかあれだけ自分を好き好き言っているくせに、夜な夜な情を結んでいる女でもいるのか?
と頭に血が上りかけたが、図らずもジェイドとはずっと寝室を共にしてきているし、ジェイドが倒れる前に、「ここ数年女を抱く気になれなかったから、こんな感覚は久しぶりだ」と本気顔で押し倒されたこともある。
もちろん抵抗して平手をお見舞いしたが、あの言葉が本当だとすれば夜伽女でもない。
その時ちょうど、ドラゴンの鳴き声や羽音の聞こえる、竜舎のそばを通りかかって足を止めた。
「待って。ジェイは戦によく出かけていた頃はすごく体調が悪かった。それを控えるようになってみるみる改善に向かって……でもこの間、外出したときにまた。あれ? それって……」
「どうされたんですか、こんな所で」
背筋にひややかなものを感じて振り返ると、竜務員のライオネルが冷笑を浮かべていた。
○$○$○
「もう我慢できねぇ! 俺はルナちゃんを助けてくる!」
そう言って立ち上がったフェリックスの目は、真剣そのものだった。正義感の強いフェリックスは、苦しむジェイド皇子や捕縛されたルナを見て見ぬふりはできない。
自分の足元に落ちていたテンガロンハットを拾い上げ、それを被りながら扉に向かおうとした瞬間、バリーンッと大きな音を立てて窓ガラスが割れた。
「な、何だ? ぬわ――っ!」
巨大な黒い塊がフェリックス目がけて突撃したきたかと思うと、彼の身体はあっけなく壁まで吹き飛ばされた。
「いってぇ……。何だ? 敵の襲撃か!?」
――ギャア、ギャアッ
フェリックスが頭をさすりながら顔を上げると、子供ドラゴンが羽を上下させながら、興奮したようにぐるぐると回っていた。
「お嬢様の、ドラゴン……」
そうアルキスが気づく。
カリメラはかなり広いジェイドの部屋すらも窮屈らしく、頭をシャンデリアにぶつけ、尻尾で飾り棚を破壊する。
「ルナちゃんのドラゴン? そうか、お前も俺と一緒に助けに行きたいんだな!」
「んなわけねぇだろ」
単純なフェリックスを、ハーディが一蹴する。
「……何か運んで来たみてぇだぜ?」
「何かってあれ……手紙、か?」
確かによく見ると、カリメラの首のウロコの隙間に何かが挟まっている。フェリックスが慎重に近寄って、それをそっと抜き取った。
「三の皇子宛……? 何だこれ、一体誰が」
強引に破ろうとしたフェリックスの手を、アルキスが制する。
「お待ちを。魔術がかかっています」
フェリックスがもう一度手元の手紙を見ると、深緑の煙が一筋、封の周りを回っている。
「宛先の人物以外が封を破れば、中身が全て砂と化し、内容を知ることがきなくなってしまいます」
「でも、三の皇子は今……」
「見せ……ろ」
ベッドの上で苦しそうに眠っていたはずのジェイドが上体を起こし、こちらに手を差し伸べていた。
呼吸さえままならないのか、ジェイドが息をするたびに肩が大きく上下し、額には玉のような汗がたくさん張り付いていた。
「三の皇子……、でも」
「いいから早く!」
近づいてくるフェリックスから手紙をひったくるように奪い取り、封を破って読む。
文章を追っていたジェイド皇子の目には、明らかな怒りが滲み始め、手紙を放り投げて立ち上がると、傍にあった上着を羽織った。自分の方をじっと見ていたカリメラに目をとめ、その手綱を握る。
「三の皇子! どちらへ!」
「煩いッ!」
自分を引き留めようとするフェリックスの手を振り払う。
「落ち着いて下さい!」
「落ち着いていられるか……っ! ルナが」
「ルナちゃんが?」
アルキスが投げ捨てられた手紙を拾い上げて広げた。
「ジェイドへ。お前の愛する者の命が惜しければ、指定する場所へ来い、……イーサン・D・A」
その名前に、部屋にいた一同が戦慄した。
「イーサン? イーサンだと? まさか……第一皇子が」
ハーディすらも、驚愕に目を見開く。
「どういうことだ、一の皇子は死んだはずだ。そうだろう、グライアス議員!」
元議長も混乱したように肩を竦めて首を振る。
「そ、そのはずじゃ。御遺体もきちんと棺に収めた」
「兄上の名を語る不届き者だろうと……兄上本人だろうと関係ない! 俺はルナを助けに行く」
よろめく身体に鞭打ちながら、ジェイドはカリメラの背に乗って飛び去った。




